第八話 パーティー
そもそも、氷属性とはなんなのか。
慌ただしく変わる環境についていくのが精一杯で、まともに調べようとしたことはなかった。
「あった……これだわ」
教会の地下にある書物庫にて、私は一冊の古びた本を見つける。知っていた通り、氷属性にまつわる文献はほとんど存在しない。
それでも探し続けていると、一冊だけあった。大昔、氷属性の魔法使いと接点があったという老人が書いた日記である。
パラパラとめくって目を通すが、内容のほとんどは本人の人柄であったり関係性だったりと、核心的なことは何も書かれていない。それでも、とある一文に私の目が留まった。
「……制御不能で危険な属性?」
――驚くべきことに、氷属性とは呪文や魔力操作といった魔法使いの基礎に属さない。感情の振れ幅がそのまま魔法となって現れる。強大である。意志の強さ一つで、国を守ることも憎き相手を殺すこともできるだろう。だが……彼女もまた、暴走した己の力に苦しめられた一人であった。
人の感情というものは、すべてを完全にコントロールすることは難しい。
堪え切れない悲しみに立ち会ってしまったとき。吐く息が震えるほどの怒りを抱いたとき。
僅かに我を失った瞬間に顕現された氷魔法は、たとえ術者本人であっても制御不能。恐らくは、自分が望まない結果を生み出してしまうのだろう。
(ヨハネ様がこれを始めから知っていたとしたら……)
ヨハネ様は、隣国の方。敵にも味方にもなりえる未知の存在を“監視”することは、いつ変わるかも分からない国の情勢をまとめる王族として、必要不可欠である。
手元に置き、動向を見守り、私が持つ力が危険に値するのかどうか。また、帝国が私を見つけ、“兵器”として利用する可能性はあるのか――。
「仮の婚約者、という位置づけは言い訳として便利だわ……」
調査の結果、私を安全だと認識して手放すのであれば、それ以上の用はない。
危険だと感じて暗殺するならば、傍にいて信頼を得ていた方が効率的だ。
帝国の干渉がない、森の奥の教会。依頼を通して見られる私の力。
何もかもが、ヨハネ様にとって都合の良い状況に思えた。
私にかけた言葉のすべては、私の警戒心を解くためのものだったのだろうか。
触れた手は、私の能力を推し量るためだったのだろうか。
私に見せた笑顔の裏側には、許容と失望、どちらを抱いていたのだろうか。
何も知らなかった。幸福感を優先して、疑おうとはしなかった。
……ヨハネ様を、疑いたくなかった。
本の上に、ポタっと私の涙が落ちる。
(何を泣いているの? 私が勝手に舞い上がっていただけじゃない……)
私は涙を拭い、書物庫を出た。
今日は自室で休もう。気落ちした心でそんなことを考えながら廊下を歩いていると、正面から今一番会いたくない人がやってきた。
「フィオナ」
「よ、はね……さま」
「中庭にいなかったからな、随分と探したよ」
いつも通りのヨハネ様の笑顔。いつも通りの声。なのに私は彼を上手く見られず、声色だけを整えることに精一杯だった。
「ど、どうされましたか?」
「ちょっと君を誘いたいことがあってな」
「依頼ですか?」
「いや、私用だ」
そういってヨハネ様は、私に一枚のカードを差し出す。それは、夜会の招待状だった。
「実は来週、皇室から外交も兼ねたパーティーに誘われているんだ。俺の参加は決まっているんだが、なにせ同伴者がいなくてな」
パーティーではダンスも行われるだろう。ヨハネ様の相手を務めるにはそれなりの身分の者でなければならない。かといってこの国の令嬢をその場で誘ってしまえば、不要な噂が立ちかねない。事前にヨハネ様自身が用意していたほうが無難である。
「俺と一緒にどうだ? フィオナ」
そういって、ヨハネ様は少し照れくさそうに微笑む。
実家で暮らしていたときは大衆の前に出たことなどなかったので、自国とはいえ私の素性を知る者はいない。
あの女性は誰だろう。きっと、自国で贔屓にされている方かもしれない。その程度で丸く収まるのがヨハネ様にとっても都合がいいのだと思う。
(ああ、嫌だ。自分の考えがどんどん悪いほうに流れている気がするわ)
私は心を覆う暗い気持ちから逃れるように、精一杯の笑みを返した。
「そうですね。仮とはいえ、何も婚約者らしいことはできていませんでしたから」
「では……!」
「喜んでお受けいたします」
ヨハネ様は少年のように頬を綻ばせる。しかしすぐに、心配そうに眉尻を下げた。
「どこか具合でも悪いのか? その……元気がないように見えるが」
「そんなことありませんよ、大丈夫です」
嘘だ、と言いたいくらいのブルーの瞳が私を射抜く。それに居心地の悪さを感じ、私は逃げるように足早にヨハネ様とすれ違う。
「フィオナ!」
背中から私を呼ぶ声には応じない。本当に心配してくれているのか、疑いから引き留めているのか。どっちなのかも判断が付かなければ、判断しようとしている自分のことすら嫌に思えた。
◆
楽しい毎日はあっという間だと実感していたが、どうやら嫌なことを控えた間もあっという間らしい。
ヨハネ様に真相を何一つ聞けないまま、パーティーの日がやってきてしまった。
(今日はしっかりしないと!)
一人で落ち込む分には構わないが、今日は大勢の人がいる場。私の些細な言動や表情がヨハネ様の評判に繋がってしまうかもしれない。
気合を入れて思考を切り替えた。
控室を出た私は、会場の入り口でヨハネ様と合流する。侍女のいない私は準備に手間取ってしまい、パーティーはすでに始まっていた。
「遅れてすみません」
「いいんだ……何度見ても、似合っているな」
現れた私を見て、ヨハネ様は満足そうに微笑む。
私が纏うドレスは、ヨハネ様から贈られた物。令嬢らしい物を何一つ持っていなかった私にとっては、夢のような品だ。
「もしかして、このパーティーがあったから贈ってくださったんですか?」
「さあ、どうだろうね」
「……ヨハネ様って、したたかですよね」
私の言葉に、ヨハネ様は「ははっ」と笑い、手を差し出す。その手を見て、私は今更緊張感が湧き上がってきた。
「どうしましょう。私、ダンスなんて……」
勿論、ヨハネ様には事前に伝えてある。一週間という限られた間にも、ライアンさんからの地獄の特訓があった。
でも、付け焼刃のダンスで王子の相手が務まる自信がない。
「俺に任せて。フィオナは楽しむことだけを考えていればいい」
差し出された手を取れば、ヨハネ様によって会場内へと誘導される。ヨハネ様の登場は参加者たちも心待ちにしていたのか、すぐに周囲の視線が向いた。
『ヨハネ様よ。なんて美しい方なのかしら……』
『隣にいる女性もなんて美しいの。白い髪とドレスのお色がとてもお似合いだわ』
『ヨハネ様は婚約者を持たれていないとの噂だったけれど……』
『ああん、私たちの誰かが選ばれるかもって思ったのに!』
令嬢らの会話が聞こえ、気恥ずかしさが高まる。だがそれも、音楽が大きくなるにつれて次第に聞こえなくなった。
任せろ、との言葉通り、ヨハネ様に合わせるだけでダンスが上手くいく。次第に、音楽に乗せて踏むステップが心地いいと思えてきた。
「……パーティーだなんて、初めてです」
「楽しいかい?」
「はい。連れてきていただいて、ありがとうございます」
楽しい、嬉しい、心地いい。
私が得るはずのなかった感情のすべては、ヨハネ様から与えられたもの。
頭の中を巡るのは、ヨハネ様との今日までの日々。たとえ表向きだったとしても、私が見てきたヨハネ様の姿。
改めて実感した思いに、私はようやく感情の腑が落ちた気がした。
(そうよ。たとえ殺されたからって、なんてことないわ)
一生をかけても得られるはずのなかったものが、得られた。欲しいと願っていたことは、すべて叶えてもらった。
その代償が死であるというのなら……構わないと思えた。
私は、我儘なのだ。無知を騙されたと置き換え、行動しなかったことを与えられなかったと嘆く。
(否定的な考えに呑まれて……あるはずだった輝きまで失ってはいけない)
そのことを、私は誰よりも知っているはずの存在なのだから。
「……ヨハネ様、私……」
音楽の終わりと共に紡ぐはずだった私の言葉は、別の人物の声によって途切れる。
「フィオナか?」




