第8話 電話が通じない場合
「もし拓さんが過去の拓さんに重なって、会社にいるようなことになったら、そこから連絡をして、何とか愛美さんを止められればいいんだけど。もしも電話が通じない場合は……」
「あまり考えたくないな」
拓は気分がどんよりとしてくる。やはり簡単なことではなかった。
「もしも愛美と連絡が取れない場合は、直接愛美を止めに行かなければならない、ってことだね?」
「うん、そう」
「分かった」
電話で話して止める。でなければ、直接愛美を見つけて火災現場に行かないように止める。案外、容易ではないかもしれない。
職場からの道順をひと通り思い浮かべてみてから、拓は気になることをひとつ質問する。
「ついでに、そのあとで過去の僕と分離するのは、どうやったらできるわけ?」
「タイムマシンに乗って、現在の時間を離れれば大丈夫」
「そんな単純な話なのか?」
「このタイムマシンが動いている間、半径一メートル以内は、時空からちょっと特殊な位置になってるの」
ポコリンは説明する。
「その範囲内にいれば、過去にも未来にもお互い干渉し合わないで済むの。タイムマシン自体は、そのおかげで過去のマシンと重なる位置に到着してもぶつかったりするようなことはないんだよ。逆に言えば、そこから出た時点でその時間の影響を受けるってこと。だから、一人の人は一人にならなきゃいけないんだ。でも、またマシンのある干渉範囲に入れば、自然に二人に分離できるの」
詳しいことは理解できなかったが、タイムマシンまで戻ってくれば大丈夫みたいだ。
少しほっとした。
「それじゃ、他に質問がなければ降りるよ」
ポコリンが立ち上がった。そこで、拓は上着の胸ポケットを探りながら提案する。
「念には念を入れて、僕の会社と部署をメモして渡しておくよ。場所は駅から歩いてすぐだから、分かりやすいと思う」
黒のボールペンと会社のロゴマークの入ったメモ帳を取り出す。
すぐに電話が通じないような予感は最初からあった。愛美との普段のやり取りから推測できたのだ。
拓はタイムマシンから外へ出る。まるでテントから出てきた気分。
そのままポコリンと一緒に、通常の空間へと入ったみたいだ。何か膜のようなものを通った感触があった。
元通りのような、愛美のマンションのそばの空き地。
たった二日前なので、当然世界は大して変わっていない。さっきは夜だったのがまだ夕方なので、そこだけが変化に思える。
秋の残照が、拓の手にしたスマホに当たる。
「わあっ」
突然ポコリンの歓喜に満ちた声がした。
「ね、それ、すっごくレトロじゃない。もしかして、スマートフォンとかいうの?」
「え、スマホが何だって?」
「そう、スマホ。そんな古いもの、本当に使っているんだね」
「……古いもの、か。そっちの年代じゃ、時代遅れなんだ。今の携帯はどんなの?」
何気なく尋ねたのに、ポコリンは傍目にも分かるほど、はっとして顔をこわばらせた。
「訊いちゃ、だめ。未来のことは教えられないの。もしかしたら、影響が出るかもしれないでしょ」
そういえば、そうだったか。
「ああ、分かったよ」
答えつつも、教えてもらってもいいじゃないかとやや不満に思う。レトロなものを最新だと思って使っている身の上としては。
「ね、そろそろ連絡してみて」
そう声をかけられ、拓はするべきことを思い出す。
今は愛美に連絡を取ることを考えなくては。
スマホを握り直して、愛美の番号を押す。
コール音が鳴る。
数日ぶりなのに、何だか随分連絡していない気がする。愛美のことを聞いて、普段よりいろいろ彼女について思いを巡らせていたせいだろうか。
繋がる音。
「あっ、愛美?」
『只今、電話に出ることができません……』
「あ、やっぱり」
「だめかぁ」
拓の言葉を受けて、ポコリンが隣でため息をつく。
あっさり連絡が取れるわけはない。17時になった時点では、まだ仕事中かもしれない。
拓は「すぐに連絡ください」とひと言メッセージを入れた。そんな速やかにはかかってこないだろうと思いつつ。
お互い仕事が忙しいんだから。
愛美はよくそう口にしていた。彼女はいつも遠慮がちに連絡してきたし、こちらもその配慮に応えるかのように、頻繁に連絡することはしてこなかった。今思えば、それが仇になっている。
互いに束縛しあわない。
二人の間には、そんな前提が自然とできていた。
お互い別に恋人を作るような不誠実さが感じられなかったせいだろうか。三十代という、自分の生活が固まりつつある年代だからだろうか。
独身の気楽さも恋人に会える楽しみも、そのほうがちょうどいいような気がしていたのだ。
多分、愛美は仕事を終えるまでメッセージも見ないだろうと思う。
拓がポコリンにそのことを告げようか迷っていると、ポコリンが先に話した。
「そろそろ十分くらい経ちそう。向こうに着いて、タイミングを計ってとりあえず電話だけはして。きっと、愛美さんも家に帰るころには連絡に気づくと思うから、そこで止められれば大丈夫。ついでに拓さん、電話が通じない場合、会社を抜けて愛美さんのところに来ることってできる?」
「う……ん、多分」
歯切れの悪い返事をしてしまう。二日前の仕事といえば、いろいろと忙しかったという記憶しかない。
「もしものときは、何とか……」
拓はそこまで言いかけて、異変に気づく。体の感覚がおかしい。自分の手を見ると、透けて見える。
何だ、これは。
徐々に感覚が失われていくようだ。
どうなっているんだ。
その次の瞬間、拓は体が浮いたような気がして、次には足元から着地した。
「うわっ」
いきなり、拓は職場の自分の席にいた。雑然としたオフィスに。
「深川君、どうしたの?」
隣の席の、長島さんの声がした。パートをしている五十代の女性だ。拓は慌てて取り繕う。
「なっ、何でもありません。ちょっと机の引き出しに手を挟みそうになって」
不審そうに見つめられて、適当に笑ってみせる。
「まあ、気をつけてね」
「はい。すみません、大きな声を出して」
ぺこりと頭を下げたところで、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「深川。そろそろ会議始まるよ」
同僚に言われて、初めてこの日のこの時間の仕事を思い出した。
何だか難しい案件が発生していて、急な会議があったな。かなり長引いたっけ。
拓はちらりと壁の時計を見上げる。
17時半か。
確か……そうだ、会議は一時間以上かかった気がする。
18時半を上回る?
愛美に連絡するのはそれ以降になってしまう。
そこで通じなかった場合、間に合うのか?
疑問を持つものの、具体的に考える暇もなく、会議室へ行くことになってしまった。
どこかで抜けられればいいか。そう思ってそのまま部署のみんなと会議室に入った。が、資料を渡された時点でまずいことに気づく。
これは……抜けられない。
拓の職場は情報処理系だ。顧客の要望に合わせたシステムを開発している。
しかし、なかなか向こうの求めているものがこちらでうまくできないことがある。さらに、何かトラブルが起こると、こうして解決策をめぐって、意見を交わすことも多い。
会議は進んでいく。じわじわと焦りを感じていく。このままどうやって抜け出したらいいか分からない。
いろいろな問題が浮かび上がり、この日の会議は割と深刻だった。「ちょっと電話してきます」なんて、席を外せそうにない状況が続く。
ポコリンには「多分」と言ったけれど、思い返してみればかなり厳しい。