第22話 眠っている愛美
幸い、病院はさほど遠い所ではなかった。
タクシーを降りて、拓は愛美の入院している病棟へ進んでいく。
「深川さん」
途中で声をかけられる。大内の奥さんの姿があった。
愛美とは対照的に、華やかで目鼻立ちもくっきりしている女性。着ているワンピースも愛美のような紺やグレーではなく、オレンジ系で明るい印象があった。
「大内さん、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ急に呼び出してしまって、すみませんでした。でも、愛美のことを考えたら、いてもたってもいられなくて。だけど、あの……本当にごめんなさい。今は落ち着いて寝たところなの」
「あ、そうなんですか」
やや拍子抜けする。
「ほんの少し前まで、不安そうだったの。それなのに、深川さんが来るよって教えたら、急に安心した顔になって。忙しいところ申し訳なかったんですけど、愛美にとってはすごくよかったと思っています。ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、お手数をおかけしました」
「それじゃ、わたしはこれで帰りますね。母に子どもを預けているんです。深川さんはよければ、愛美に会ってもらえます?」
「もちろんです。本当にありがとうございました」
拓がお辞儀をすると、大内の奥さんも同じようにする。
「では、これで」
大内夫妻には、小さな娘がいる。確かまだ一歳になったばかり。心配なのか足早に帰っていく後ろ姿を、拓は見送る。
『梨帆とは、高校生のときからの友だち。親友って呼べると思う。社会人になってからもよく会って、お互いのことをゆっくり話し合ったりするのよ』
愛美にとっては何でも話せる友人だと聞いていた。大内のことも含めて、急にさまざまなことが脳裏に浮かんできた。
拓は思い出したことを一旦胸にしまい込む。
そっと、愛美の病室へ入る。白いベッドの上に、目を閉じた愛美の姿があった。
「愛美……」
小さく声をかけるが、熟睡しているようだ。
左手の指先が見えているものの、そのあと上腕まで包帯が巻かれている。左頬には絆創膏が貼ってあって、痛々しい。
いつも以上に儚げに見えた。
「愛美」
もう一度呼びかける。
右手をとって両手で包み込む。
本当はなかったはずの、けれども、愛美が自分の気持ちから選ぶことになってしまった過去。
なんてことだろう。
火災に遭って、怖い思いも痛い思いもいっぱいしたに違いないのだ。
実際の愛美の姿を目にしてしまうと、胸が軋んで締めつけられる。
もしも愛美が目覚めていて、少しでも未来を不安に思っていたら。
プロポーズを、本当にしていたかもしれない。
拓は自分の考えに息をつく。
ポコリンが自分の元を訪れなかったケースを、ふと思い浮かべた。
月曜日に愛美は火事に遭う。現在の時点、水曜日にマンションを訪ねても愛美はいない。
翌日の木曜日は仕事が休みだ。愛美もそれに気づいていて「昨日はごめんなさい。実は……」と連絡してくる可能性が高い。入院を知った自分は、愛美のところへ駆けつける。そこで、思わずプロポーズの言葉を口にする……。そんな出来事が起きてもおかしくはない。
拓は思わず頭を振る。
それを変えるためにポコリンが自分に助けを求め、二人で努力してきたのだ。
今のこの過去についても、消してしまうつもりではいるが、よくよく考えてみる。
本来なら、自分はこの時点では愛美が火災に巻き込まれたことを知らない。今まで、一度も大内の奥さんから連絡などなかったからだ。
今回はたまたまタイムマシンが動かず、長く過去に留まった。とはいえ、実際には水曜日まで拓は誰からも連絡はもらっていなかったのだ。
今までの過去とはやはり違う。変化があったのだろう。
この過去がそのまま水曜日まで続くとしても、自分が病室で愛美にプロポーズすることはない。一度愛美に会っている今、はっきりとした意志を持っているからだ。
逆に言えば、自分が未来に別の場所でプロポーズするように変わってきている。その意志が反映された過去にたどり着いている、と言えるだろう。
しかし、火災は回避できていない。
そもそも愛美がこんな火事に遭うなんて出来事があってはならない。
「こんな思い、させないから。絶対に」
眠っている愛美の手を握る。
異なる過去とはいえ、愛美がこんな目に遭うのを避けられなかったことは一緒だ。
何としてでも、変えなければならない。
変えてみせる。
拓は愛美の寝顔を見つめ、手を握りしめて誓った。
ポコリンは、待っていてくれた。膝を抱えて自転車置き場にしゃがんでいる姿を見つけて、心が痛んだ。けれど、ポコリンは拓の姿を認めると、にっこり笑って大きく手を振ってくれた。
マンションの明かりも減っている。もう22時になっていた。
拓は、ぽつりぽつりと病院でのことを話した。ポコリンはよく耳を傾けてくれたが、自分からはあまり尋ねてこなかった。
ポコリンなりの気遣いなのだと思う。
二人はタイムマシンに乗り込み、現在へと戻った。今度は問題なく、指定した時間と10分程度しか変わらなかった。
「それじゃ、戻るよ」
「うん、行こう」
大内の奥さんから連絡があったとき以来、拓はいろいろと思い返していた。
現在から過去へと時間を移動しながらも、記憶のなかへと歩み入る。
愛美と付き合い始めて、一年近くが過ぎたころだろうか。大内から連絡をもらったことがあった。
「久しぶりに飲みたいんだけど、どう?」と軽く尋ねられ、二つ返事で翌日の夜に待ち合わせた。
大内と二人で飲むことなんて、ほとんどない。いつもは、大学時代の友人四人で集まる。
何か話があるのかと構えていたが、大内は最初のビールでの乾杯のあと、すぐに口を開いた。
「棚橋さんとずっと続いてるんだって?」
「え。ああ、付き合ってるよ。その……紹介してくれて、本当にありがとう」
「それはよかった」
大内はコップを空にする。拓も勢いで空にする。大内はすぐに自分と拓のコップにビールをついだ。
愛美を紹介してもらったのちも、大内とは何度か連絡を取り合い、お礼も言っているが、具体的に話をしたのはこのときが初めてだった。
「うちの梨帆が喜んでいるんだ」
「奥さんが?」
「うん。梨帆は棚橋さんの長年の親友でね。結構心配していたんだ」
「……」
何を言いたいか分かったので、無言で促す。
「棚橋さんのこと、もういろいろ知っているよな」
陽気な大内が、いつもの彼らしくないしんみりとした口調で切り出した。
奥さんから大内も事情を聞いているに違いない。話を共有した方がいいと判断する。
それで拓は「愛美が男性恐怖症なところがあると聞いている」「かなり不器用な方で、自分に自信がないとよく言っている」ということをそれとなく話した。
「それでも、付き合いは続いているわけだ」
「うん、まあ」
曖昧に返事をする。
「そうなるかもなって、梨帆と話していたんだよ」
「え?」
自分たちのことを大内夫妻が気にとめて、話題にしていたとは思わなかった。
「最初に深川の印象を聞いたとき、棚橋さんは梨帆によく分からないって答えたんだ。それなのに、三ヶ月くらいしたら、安心できる人だと思うって答えたんだよ。棚橋さんがそこまで信頼できる人に会ったと思うと、梨帆はすごく嬉しいって言ってたよ」
「そうか」
安心できる人。
好き嫌いじゃないのは、恋人としてどうなのかと思うが、愛美の場合は違うのだろう。
自分だって、最初に愛美に会ったときは印象が不鮮明だったし、次に会ったときは好感を持てる側に属するくらいの感覚だったと思う。はっきり好きと振り切れないほどの。
それは、異性として考える以前の問題だった。
平凡すぎる自分には、熱烈な恋愛などいかにも似合わなそうで、求めたこともほとんどなかったけれど。
この半年程のうちに、だんだんと好きな気持ちが深まってきたのは、自分でも感じていた。
「あのさ、深川」
改めて大内が呼びかけてくる。
「多分、本人は言いにくいと思うから、一応梨帆の意向で話しておきたいんだけど」
「何を?」





