第12話 明かりが見えない
うまくいったことに満足し、拓は歩きながら余韻に浸る。
普段は仕事が忙しくて、なかなか連絡できないので、何となくメッセージだけ送ることが多かった。
やはり愛美の声が聞けたら嬉しくなる。温かい気持ちが心に広がっていた。
そういえば、愛美が引っ越したばかりのときは、よく手伝いに行ったな、と思い出す。
重いものを運ぶのは無論のこと、生活していく上のこまごまとしたことも一緒にやったものだ。
「拓って、本当に優しい人だね」
愛美は何度かそう話しかけてきた。
愛美に対しては優しい気持ちになれる。優しくしようと思うし、優しくしたくなる、ということかもしれない。
一緒にいれば自然とそうなれるのは、やはり愛美だからなんだよなあ。
そんな回想から拓は戻る。
とにかく、うまくできた。愛美はそのまま家にいてくれるだろう。火災の場所へ出かけることはないはず……。
拓の思考はそこで止まる。
愛美は何か気にしていなかったか。「あれ」って何だったのか。
もしかすると、スーパーの前に起きた民家の火事を見つけたのかもしれない。煙が上がったのが見えている可能性がある。
でも、家にいると言っていた。ポコリンがその方面を見ているし。大丈夫なはず。
ポコリンにも連絡手段があればいいのだが、過去をなるべく変えないようにと思うと、スマホなどの連絡方法は見つけられなかった。
今は愛美にうまく電話できたことを、ポコリンに知らせたい。
拓はスーパーへ行く途中で引き返し、未来から来た少女との合流地点である、タイムマシンまで戻ることにしていた。
先ほどの愛美との通話を思い浮かべる。
今日は筑前煮を作るって話していたな。
料理初心者の愛美は、うまくできたのだろうか。肉じゃがはヒット作だったが、同じ煮物でもやりかたが違えばまた苦労しているのかもしれない。
愛美はとにかく不器用な女性だった。何をするにもスローテンポで要領が悪い。半年前まで自宅にいたので、料理はほとんどしたことがなかったという。
ひとり暮らしになったのを機に、「料理を頑張るね」と拓に宣言した。しかし、最初のうちはひとりで生活することに慣れるのさえ大変で、調理にまで手が回らない状態だった。
その点、拓は大学卒業後に就職のために茨城にある実家から上京して、単身での暮らしには慣れている。料理も苦にならなかったし、掃除や洗濯も普通にしてきた。
愛美が当初すべての面で苦労しているのを見て、かなり驚いた記憶がある。
愛美は、壊滅的に料理ができなかった。
スーパーで食材を買うのにも苦労した。キャベツとレタスを間違って買ってしまうとか、魚の種類が全く分かっていないとか、そんなことはいくらでもあった。
さらに、包丁の使い方がなっていなかった。食材を切るたびに危なっかしくて、見ていられないくらいだった。
油を入れ忘れて調理を始めたり、食べ始めてやっと調味料を入れていなかったことに気づいたりした。煮たり焼いたり炒めたりするのも、センスがないのか、うまくいくことがない。
なかなかまともな料理が完成しなかった。
それなのに。
それなのに、拓は愛美の料理が楽しみだった。
一生懸命やっている姿勢は、本当に見習うべきだった。一緒にいることで、自分もそういうふうになれそうな気がした。
それに、失敗しても愛美はやっぱりかわいかった。ちょっと恥ずかしくてそれを隠そうとするように微笑むところとか、純粋にいいなと思った。
自分が世話好きだと思ったことはなかったが、ひとり暮らしに慣れない愛美のために様々なことを教えた。愛美の小さなことでも耳を傾けて熱心に聞くところも素敵だと思った。自分の常識が全く愛美には知らないことだったりすると、その違いが何だか楽しい。
今まで自分がひとりでごく普通にやってきたことが、つまらないとさえ感じた。
最初はまともなものが食べられなかったが、だんだんと上達していくのもお互いに面白く感じて、爽やかな気持ちにさせられた。
拓は毎週木曜日に仕事が休みと決まっている。前日に急な仕事が入っても、木曜日は確実に休めるので安心できた。
愛美のマンションと拓の職場はだいたい四十分で行ける。それで引っ越しから二ヶ月もすると、水曜日の仕事帰りに愛美の部屋へ行くようになった。
愛美は拓と食べられるようにと、基本の家庭料理の本を買ってきて、少しずつチャレンジするようになった。
この月曜日の挑戦は筑前煮、というわけだった。
マンションが見えてきて、愛美の部屋を見上げた。
明かりが見えない。近づいて窓を見つめるが、やはり暗い。
「そんなはずは……」
愛美は家にいるはずなのに。
まさか、あのあと出かけてしまったのだろうか。
「あ、あれ」という彼女の言葉を再び思い出す。そのあとに間があった。もしかすると、そのとき火事を見たのだろうか。
それからは?
僕との会話を終えたあと、愛美は……!
「拓さん!」
そのとき、ポコリンの声がした。
民家を経由してスーパーから引き返してきたという。拓を探して見つからなかったので、戻ってきたようだ。
「愛美は?」
「見つからなかった。でも、マンションにもいないみたいだよね……」
「……」
マンションにいないはずがない。
まさか、あのまま火事が気になって、家から出てしまったのか。結果的に火災に巻き込まれたのだろうか。ポコリンとすれ違ってしまった可能性はある。
マンションの暗い窓を見つめる。
信じたくない現実がそこにあった。階段を駆け上がり、愛美の部屋のインターホンを押しても、やはりだめだった。
愛美の不在に変わりはない。
「今の時間で、こちらが何もできなかったとしたら、多分、過去は変わっていない……」
ポコリンの呟きに、拓の心は急に激しい痛みを覚えた。
「愛美と連絡は取れたんだよ……」
拓は掠れ声で告げる。こんな結果はなかったことにしたかった。
「それなのに……それなのに、引きとめることができなかったんだ。僕は……愛美にうまく言葉がかけられなかったんだ……」
「拓さん……?」
拓の憔悴しきった声に、ポコリンが呆然としている。構わずに、拓は言葉をこぼす。
「愛美と二年間も恋人同士だったのに、どうして守ってやれる言葉を思いつかなかったんだろう。どうして愛美の行動を止めるだけの力を、持てなかったんだろう……」
非力だった。
拓は自分がどうしようもなく、情けないちっぽけな存在になったような気がした。
自分は愛美にとって、そんな程度なのだろうか。
愛美は確かに、人に対して積極的にかかわる人間ではない。でも、自分は、自分だけは違うと思っていた。
ひどく足元がぐらついた感覚がする。
愛美のなかの何かは失われたままなのかもしれない。
心のどこかにある凍り付いたところを、自分は溶かせているとばかり思っていた。けれど、まだ冷えたままなのだ。光や熱はそこに微塵も届いていなかったのかもしれない。
「何言ってんの、拓さん」
ポコリンが拓の肩を軽く叩いた。
「あのね、今の状態だと、愛美さんの過去は火事に遭う流れになっているの。そこを言葉ひとつで変えるってすごく難しいんだよ。拓さんのせいじゃないよ」
「だけど……」
愛美と連絡が取れても、うまくいかなかった。
このままだといくら過去に戻っても……。
「だから、わたしがドジっちゃったのがいけないの。拓さんには気長に協力してほしいんだけど」
ポコリンは力を込めて明るくしたように言う。痛々しいほど無理やりに明るく。
拓は我に返る。
自分がこのまま否定的なことを言い続けたら、ポコリンはひどく気にするだろう。
一見さっぱりしているようでも、ポコリンは愛美の過去を変えてしまったことについて、すごく責任を感じている。これ以上、そんな気持ちにさせたくはない。
自分こそ、前向きにならなくては。
深く息を吐いた。
「もう一度、よく考えてみようか。今回、連絡は取れたんだ。愛美の行くところも、少しずつ分かってきているはずだ」
冷静になった拓の言葉に、ポコリンは表情を和らげた。
「うん。よく検証してみよう」





