第1話 未来から来た少女
20××年10月22日、水曜日。もうすぐ20時。
マンションの外階段を駆け上がり、拓は二階の一室へ向かっている。
愛美は今、肉じゃがを作って自分を待っているだろう。
料理を懸命に作る恋人の姿を思い浮かべ、拓の足どりは軽くなる。玄関が見えてきた。
あともう少しで、愛美に会える。
胸の内に温かな想いが溢れそうになったそのとき、突然違和感を覚えた。
立ち止まって、拓は気づく。
匂いがしない。しょうゆやみりんの香ばしさが空気に含まれてやってくるはずなのに。
いつもとの差異は、もうひとつある。
玄関のそばの窓を覗いても、明かりはもれていなかった。
愛美がいない? そんなはずは……。
早足で玄関の前へやってきて、拓はインターホンを鳴らす。夜空に小さく音が谺する。しかし、それが途切れるとまた静けさが戻るだけ。
奥から愛美の声は聞こえず、扉へ向かう足音も響いてこなかった。
もう一度インターホンのボタンを押すが変わりはない。
何度か試みて、次にはスマホで連絡をとってみようとするが、結局通じなかった。
しばらくためらったのち、拓は鞄から茶色の革の財布を取り出す。そこに、合鍵が入っている。
愛美からこの鍵を渡されたときは、とても嬉しかった。
『あの、一本余っているから……持っていてもらってもいい?』
たどたどしく話す愛美が、頬を赤くしていることに気づかないふりをして。
拓は「うん」とだけ返事をした。
それ以上はこちらも照れてしまって、うまく言葉にできなかった。ただ高鳴る自分の心音が愛美に届いていないことを祈ったものだ。
その鍵を使う必要性を感じるのが今日だなんて、思ってもみなかった。
考えると、鼓動が速くなってくる。何とか気持ちを落ち着かせたいところだ。
愛美は買い物にでも行っていて、すぐに帰ってくるに違いない。自分がこの時間にここへ来ることは分かっているはずだから。
でも、もしかしたら具合いが悪いことだってあるのではないか。その可能性は低くても、とにかく本当に留守かどうか、覗いて確かめるくらいは、大丈夫だろう。
うん。きっとそうだ。
自分を納得させて、拓は鍵を取り出す。
持ち替え、鍵穴に差し込もうとしたところで、声がした。
「あの、深川拓さんですか」
反射的に手を止める。振り向くと、その場にそぐわないような女の子の姿がそこにあった。ややぽっちゃりとした中学生くらいの子。
癖のある髪をツインテールにしていて、ピンク色の眼鏡をかけている。フリルのついた白いブラウスと水色の、これもフリルのついたミニスカート。
見知らぬ子だが、なぜか自分の名前を知っているようだ。
「僕だけど、何か?」
問いかけると、女の子の顔がふわっとほころんだ。心からほっとした表情に変わる。
「よかった。会いたかったぁ」
「え?」
どこかどきりとする言葉だ。唐突に聞いた意外さに、固まってしまう。
そんな拓の様子にも構わず、女の子は尋ねる。
「愛美さんの家に入るんでしょ。わたしも一緒にいい?」
一緒に家に入る。しかも、本人が留守かもしれないのに。
そんな状況に躊躇する。
自分はともかく、知らない女の子まで。
「あの、きみ……誰?」
その子は、やや考え込むようにしてから応じる。
「うーんと、親戚って言えばいいかな」
「愛美の親戚? 従妹とか姪とか?」
「うん、そんな感じ。詳しくはなかで話すよ」
ちゃっかりした子だな。
拓はそう思いつつも、いつまでも夜空の下で話すのもどうかと考える。
十月とはいえ、この時間ともなると、やや肌寒い。
このまま風邪でも引いたりしたら。
女の子の見守るなか、拓は愛美の部屋の鍵を回し、扉を開く。
その先は、どこまでも闇が広がっていた。
電気をつけて、拓はグレーのスーツの上着を脱ぐと、その場に適当に置く。
白いワイシャツにはネクタイをしていない。営業職などと比べると、拓の職場はわりとカジュアルだ。
拓は冷蔵庫から麦茶を取り出す。自分と女の子の分、二つのコップを出した。
ローテーブルに向かい合って座り、まずは麦茶を飲む。本当は愛美との夕食の予定だったのに。
愛美の姿はなく、テーブルの上に、肉じゃがの用意は微塵もなかった。
「愛美はどこへ行ったんだろう。きみは何か知っている?」
この子のような世代と普段話したことがないので、どこかそわそわしてしまい、話題も見つからない。軽い気持ちで訊いてみた。
「愛美さんはしばらく帰ってこないよ」
答えが返ってきて、拓は息を吞む。
どことなく殺風景な部屋。愛美があまり多くの物を置いていないことは知っている。
テレビの横にある白木の本棚には数冊の単行本が入り切れず、床に置かれたままになっていた。壁には紺色の上着がハンガーにかけられているが、今にもずり落ちてきそうな角度だ。
いつもはもっと片付いている。愛美は、僕が来るときは気を遣っているのだろう。
ほんの少しだけ出かけた、というわけではなさそうだ。
「何か知っているんだね?」
はやる気持ちを抑えて、念を押す。女の子ははきはきとした調子で答える。
「さっき、わたしは愛美さんの親戚って言ったけど、従妹でも姪でもないの。ひ孫なんだ」
「ひ孫……?」
何の聞き違いだろう。もう一度問い返そうとすると、その子は付け加えた。
「つまり、愛美さんはわたしのひいおばあちゃんなんだよ」
「はぁ?」
理解できないうちに、女の子は拓を指差す。
「拓さんは、ひいおじいちゃん。わたし、タイムマシンに乗って、未来から来たひ孫なんだよ」
拓の頭のなかに、この子の話す設定が一瞬だけまともに浮かんで、雲散する。
ばかばかしい。
「あのさ……、おじさんのこと、からかってる?」
拓は今年で31歳になった。もうお兄さんと呼んでもらえる年齢でないことくらい自覚している。
「おじさんじゃなくて、ひいおじいさん、だってば。もう、どうやったら信じてもらえるのかなぁ」
女の子は腕を組んで、頬をぷくっと膨らます。拓にはそんな様子もわざとらしく見えてしまう。
おじさんでもショックなのに、ひいおじいさんとは、何だ。
文句も言いたい。けれど、とにかく話を元に戻さなくてはならない。
「何言ってるかよく分からないんだけど。それより、愛美がしばらく帰ってこないって、本当? どこへ行っているのかな?」
拓にとってはそれが重要で、女の子の変な話に付き合うつもりはない。
「それを説明するのに、未来から来たことを信じてほしいの。わたしのパパはタイムマシンの研究をしているの。わたしもよく研究所に遊びに行って、パパから使い方を教わっていたから、過去へ来られたんだよ」
女の子は続けておかしなことを言い出す。拓は、ため息まじりにぼやいた。
「きみの話はいいから、愛美のことを教えてほしいんだけどな」
「あ、わたしのことはきみ、じゃなくてポコリンって呼んでよ」
「ポコリン……」
拓ははっとした。その名前には聞き覚えがある。
第1話をお読みくださって、ありがとうございます。





