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おかたづけ

作者: 須堂さくら

死ぬと透明になって消えてしまう世界。消えてしまった人の物語。

 つかみそこねた花瓶が落ちて、ぼくは思わず目を閉じた。

 ゴツ、と鈍い音に目を開けて、あわててしゃがんで花瓶を拾い上げる。

 花瓶には傷一つついていなかった。おばあちゃんのお気に入りだった花瓶。最後の最後まで、花のいけられていた花瓶。

「おばあちゃん、ここにいるの?」

 なんて。まさかね。

 空気に混ざって消えてしまったおばあちゃんがもしまだここにいたとしても、花瓶に触れることなんてできるはずもない。

 目の奥がじんとして、少しずつぼやけてきた視界の中で、ぼくは花瓶を大事に布にくるんで箱にしまった。




 おばあちゃんは、家の中で一番、明るく元気な人だった。

 お母さんとおじいちゃんは静かな人で、お父さんはおばあちゃんの血を引いたんだって明るい人だけど、おばあちゃんにはかなわない。ぼくとお姉ちゃんは、お母さんの血を引いたんだろうってやっぱり静かな方だったから、おばあちゃんの元気には、全然かなわない。

 わははと大きく口を開けて笑って、ぼくたちが何か悪いことをすると、家じゅうに響くんじゃないかって声で叱って、泣くときだって誰かを巻き込んで、こっそり泣くことなんてできない人だった。

 病気が分かったときだって、困ったねぇって言った後、時間のある間にやり残したことを済ませないとねって笑ってた。

 言葉の通りに、色んな所に旅行に行ったり、やってみたかったんだなんて陶芸を始めて、ぐにゃぐにゃとした何かを作ったりしてた。おばあちゃんは、お皿だって言っていたけど、とても食べ物を乗せられるようには見えなかった。

 家にいないことの方が多い何か月かが過ぎた後、倒れたおばあちゃんは病院に入院して、余命宣告を受けた。

 おばあちゃんは、時間切れかい残念だねぇ。なんて、やっぱり笑っていた。

 おばあちゃんが病気のことで泣いたところは、見たことがなかった。



 入院してからのおばあちゃんは、普通はそうなんだって言われていたように静かになっていくのかと思っていたけど、そんなことはなかった。

 今までと同じようにわははと大きな声で笑って、病院の中でもできる色んなことに挑戦した。

 にがおえを勉強するんだってペンを持てる間色んな人の顔を描いていたけど、最高傑作だって笑ってプレゼントしてくれたぼくの顔は、ぼくを描いたどころか、人を描いたようにもどうしたって見えなかった。


 見えにくくなってきたからもっと近づいてくれって、おばあちゃんはぼくの顔を両手で包み込んで、じっくり眺めていい男だと笑った。

 指先の感覚がなくなってきたからしっかりぎゅうっと握ってくれって、自分の方が強い力で、ぼくの手を握りしめた。

 声が出にくくなってきたねぇってかすれた声で、だけど家族の誰よりも大きな声で、やっぱりわははと笑っていた。


 おばあちゃんはだんだん透明になっていって、あれもこれもできなくなっていったけど、ずっと元気で、色んなことができなくなった後も、いつだってにこにこしていた。

 透明になっていくのが信じられないくらい、いつも通りのおばあちゃんだった。



 手足のほとんど消えてしまったおばあちゃんは、数日ももたないだろうと言われた。

 光の加減によっては全身消えてしまったのじゃないかと思えるくらい透明な体の中で、おばあちゃんは時々瞬きをした。閉じているのか開いているのかもわからないような目が、時々開いてぼくたちの方を見る。見えていないはずの目が、ぼくたちの方を見る。

 唇は微笑んだようになっていて、開くことはもうない。元気な声も、聞こえない。

 体の形にふくらんでいる部分に手を乗せても、そこにあるのは体というより、水気をたっぷり含んだスポンジが、薄いまくの中にあるような、そんな頼りない感覚で、おばあちゃんがぼくの手の感触を感じているのかどうかも分からない。

 おばあちゃんは、全身で、終わりに向かって行っていた。そう、一目で分かった。

 ゆっくりゆっくり上下する布団が、おばあちゃんが生きているって証明だった。これが止まってしまったら、おばあちゃんの体は溶けて、何にもなくなってしまう。



 静かな数日が過ぎて、いよいよだって呼び出されて皆で病室に集合した。

 照明の下できらきらと光を反射する、ほとんど見えなくなったおばあちゃんの体の中で、まぶたがほんの少し開いた。気がした。そして、色をなくしてどこにあるのかもほとんど分からない唇が、笑った形になった。気がした。

 ゆっくりゆっくり上下していた布団が、ゆっくり膨らんで、そしてそのまま静かに動きを止める。

 おじいちゃんか、お父さんか、お母さんか、お姉ちゃんか、おじさんかおばさんか、他の誰かかが何かを言った。

 誰が何を言ったのか確認する間もなく、おばあちゃんの布団が沈み始める。お風呂のお湯が抜けていくみたいにゆるゆると、おばあちゃんは溶けて、世界に混ざって消えてしまう。

 布団がぺたんこになって、おばあちゃんの着ていた服もきっとその下でぺたんこなんだと思った。そうしたら、誰かの泣き声が聞こえてきた。

 近くから聞こえてきたその声は、いつの間にか自分の声になって、ぼくは堪えきれなくてわんわん泣いた。まるでおばあちゃんになったみたいに、大きな声でわんわん泣いた。




 じわりと浮かんできた涙をそででぬぐって、次の荷物を手に取る。

 真っ白な深めのお皿は、お見舞いに来た人が持ってきてくれた果物とかお菓子とかを、皆で分けて食べるときに使っていたものだ。ぼくも時々おばあちゃんに言われて外に果物を買いに行って、二人一緒に食べるときに使っていたお皿。

 包むための紙を手に取った時、名前を呼ばれた。それでびっくりして、ぼくはまた、手を滑らせてしまう。

 つるんとぼくの手を離れてしまったお皿はそのまま床に落っこちて、ガチャンと大きな音を立てて割れてしまった。割れて、しまった。

 多分ぐうぜんなんだ。さっきの花瓶はたまたま運がよくって、割れずに済んだんだっていう、ただ、それだけ。

 だけど、まるで、おばあちゃんが本当にいなくなってしまったような。本当はさっきのさっきまでここにいてくれていたような。そんな気持ちになってしまって、ぼくは。

 涙がこぼれてしまうのを、もう、止められなかった。


 おばあちゃん、

 おばあちゃん。

 大好きだったよ。

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