アデール 木陰の少女
バルト侯爵ランベールは、いつものように自宅の正面玄関前に馬車を着けようとした御者を止めた。
「裏庭を見て来る」
そう言付けると、馬車を降りて歩き出す。
軍部を統括する大臣として会議に出席していた彼は、少しの間、一人になりたいと思ったのだ。
若い時は前線で活躍した猛者も、今の戦場は主に王宮。
理屈小理屈屁理屈をこねる文官上がりの大臣たちとの折衝は、なんとも骨が折れて気が重い。
彼は基本、おおらかで気のいい人間だが、それにしたって我慢の限界というものがある。
数日続いた御前会議も今日で終わり、珍しく午後の早い時間に帰って来ることができた。
このところ椅子に座ってばかりで鈍った身体を動かすのもいいだろう。
家には、昔前線で戦っていた頃に部下だった者も何人か雇っている。
さて、誰に稽古の相手を頼もうか、と考えながら裏庭にまわった。
裏庭は広く、雑草が気ままに茂って、まるで野原のようだ。
他の貴族家であれば庭園として整えるだろうし、そうでなければ菜園ぐらいは作るだろう。
だがバルト侯爵家は武門の家であるために、常に訓練場所を確保しておきたい。
万一、王城で有事ともなれば、兵の集合場所にすることも想定していた。
とはいえ今のところ、一番多い使い道はポニーの馬場であったり、駆けっこのレース場であったり。
要するに、活発すぎる子供たちの遊び場になっているのだ。
バルト家の子供は三人。
男の子二人は既に剣や体術の訓練を始めているが、親の欲目抜きでも、なかなか筋がいい。
問題は末っ子の女の子であるカトリーヌだが……
小さな娘は兄二人よりも、さらに筋がいいように見えるのだ。
女の子なのが悔やまれるくらいに。
カトリーヌには侯爵家の娘として、やっと歩けるようになった頃から少しずつ淑女としての立ち居振る舞いを教えている。
彼女に付けている侍女も、名門の伯爵家に頼みこんで来てもらっている。
要領がいいカトリーヌは、礼儀作法の覚えも早い。
動きにキレがあるので、見栄えもする。
それに、何と言ってもランベールの愛妻の美貌を引き継ぐ容姿。
大きくなったら、どこまでの美女になるやら。
親馬鹿の妄想は尽きなかった。
そうだ、年頃になったら、求婚が引きも切らないだろう。
侯爵家の娘だ。王家に望まれることもあり得る。
そこまで考えて、ランベールはふと思った。
御前会議で理屈をこねる頭でっかちの文官どもを黙らせるには、娘を王家に嫁がせるという手もあるな。
王子と年齢も釣り合っている。
もし、カトリーヌが王太子妃となり、将来の王妃となれば……。
今の国王陛下は、ランベールから見れば少し覇気が足りない気がする。
軍部がしっかりと力を持ち、外交面での圧力を増せば国のためにもなるはずだ。
これは、とても現実的な構想なのではないだろうか?
ランベールは一人、国の未来を思いながら裏庭を歩く。
その先は少し小高くなっており、大きく枝を広げた木が一本立っていた。
木陰では一人の少女が、座って本を読んでいる。
そよ風が時折、髪を結ぶリボンを揺らめかせた。
娘より一歳年下、七歳の少女。
『あの子が、うちの娘なら……』
そう思ったことがある。
自分の娘と比較するつもりはない。
だが、武に生きてきた彼から見て、一目置かざるを得ないほどの人物だ。
彼女は公爵家の娘。しっかりとした教育もされているに違いないが、何よりも、その胆力が素晴らしい。
観察眼が優れていて、大人でもハッとさせられることがある。
自分の娘より一つ年下とは、とても思えない。
「おじさま!」
少女が彼に気付いて顔を上げた。
侯爵家当主である彼に礼をとるため立ち上がろうとするのを、手振りで止める。
「ご機嫌いかがかな、アデール嬢」
「おかげさまで。バルト侯爵様は、いかがお過ごしでしたか?」
「まあ、ぼちぼちといったところだ。
今日は王城で御前会議があった。
剣を持って戦うより、ずっと疲れるな」
「まあ。それは、お疲れ様でございました」
幼い少女に、こんなことを言われたら生意気だとイラつきそうだが、不思議とそうはならない。
この子は妙に包容力がある。
「すごいな、こんな文字ばかりの本を読んでいるのか?」
ランベールは彼女の膝の上にある本を覗いた。
「ところどころ分からない言葉があるので、後から家庭教師に教えてもらうのです」
「そうか。読書は楽しいかな?」
「はい。知らない世界、知らない場所に、心が飛んでいくようですわ」
「うちのカトリーヌに見習わせたいな。
家庭教師に勉強を見てもらう時間が少々、苦痛なようだ」
アデールはくすりと笑う。
「カトリーヌ様は身体を動かすのがお得意なのですもの。
私はどんくさいのですって。
一緒に走り始めても置いていかれて、お庭の中で見失ってしまいます」
どんくさい……どこでそんな言葉を覚えてきたのやら。
少々、説教が必要かもしれない。
「すまない、アデール。
カトリーヌが失礼なことを言ったようだ」
いいえ、とアデールは首を横に振った。
「カトリーヌ様は私がもたもたしている間に、お庭の端まで行って綺麗な花を摘んできてくださいます。
大人になったら外国まで行って、いろんなものを見聞きして、私に教えて下さるのですって。
お土産を待ってなさい、っておっしゃるのです。楽しみですわ」
一歳しか違わないのに、カトリーヌはずいぶん上から目線だ。
しかし、アデールは気にする様子もない。
「ところで、カトリーヌはすでに外国まで走って行ってしまったのかな?」
「ここで待ち合わせのはずなのですが、いらっしゃらないのです」
それでも焦らず怒らず、アデールは待っていてくれるのか。
よい友人を持って、娘は幸せだ。
そんな得難い友を待たせるのは感心しない。
「アデール嬢、失礼だが、貴女を抱き上げてもよろしいかな?」
「はい? ええ、かまいませんが……」
さすがのアデールも、少し驚いている。
侯爵はアデールを抱き上げると、鍛え上げた広い肩に座らせた。
「まあ、おじさま。遠くがよく見えますわ!」
アデールは子供らしくはしゃいでいた。
男の子ならともかく、幼くとも貴族の令嬢であれば、こんなことは滅多になかろう。
「カトリーヌ様は、どこまで走って行かれたのでしょう?」
侯爵はその場でゆっくり、ぐるりと回る。
それに連れて、アデールも東西南北をぐるりと見渡した。
「どこにも見当たりませんわ……あら?」
侯爵は最後に、さっきまでアデールが根元に座っていた木の正面に立つ。
「いらっしゃいましたわ」
お転婆なカトリーヌは、よく木に登る。
言っても止めないので、大人たちは諦めて、登ってもいい木はどれなのかを教えることにした。
この木は、枝がまるで籠の様に伸びているので、そこに腰かけてしまえば安定する。
カトリーヌは籠の中で、スヤスヤと眠っていた。
アデールより先に来て、待っている間に寝てしまったようだ。
カトリーヌの手には、小さな花冠が二つ。
「カトリーヌ様は、花の妖精の国までお出かけでしたのね」
ランベールはアデールを地面にそっと下ろすと、枝の籠の中から娘を抱き上げた。
カトリーヌは外国へ行ってみたいと思っているのか。
ならば、制約の多い王太子妃や王妃には向かないかもしれない。
遠くへ行く者、近くを見る者、それぞれに役割があるのだろうな。
……そうだ、理屈っぽい文官上がりたちも、その思考で、その言葉で、その文字で戦っているのだ。
それは諸外国と、剣を交えないための闘いだ。
一度、戦争が始まってしまえば、勝敗など関係ない。
関わった国の誰かが必ず、あるべき未来を奪われる。
たとえ未来があったとしても、手の届くところにあったはずの明日が、果てしなく遠ざかる。
武力は子供たちの未来を壊すものであってはならない。
平和を守るための闘いを、支えるものでなければいけない。
起きないカトリーヌを抱いて、ランベールは母屋へ向かう。
一緒に歩くアデールは、小走りになっていた。
「これは悪かったな、アデール。もう少しゆっくり歩こう」
「大丈夫ですわ。バルト家にお邪魔する時は、歩きやすい靴を履いてきていますもの。
……でも、ちょっとだけ、ゆっくりお願いします」
ランベールにしてみれば、少女を二人抱いて歩くくらい何でもない。
だが、一生懸命なアデールがあまりに可愛らしくて、もう少し隣を歩いていたいと思った。
ランベールは、片腕でしっかりとカトリーヌを抱え直すと、空いた手をアデールに差し出す。
「ありがとうございます。おじさま」
アデールはその手を取って、微笑んだ。
ああ、そうだ。
こんなふうに、大切な子供たちと過ごす幸福な時間を、大人たちから奪わないために。
この国の武人は、そして私は戦うべきだ。
風が吹いて、草を揺らす。
その風がさっきまでの鬱屈を払っていったのだろうか。
ランベールは初心に返ったように、清々しい心持ちを感じていた。
その日、少女たちの午後のお茶会に飛び入り参加した侯爵は、御前会議の後とは思えないような上機嫌で、妻や使用人たちを驚かせたのだった。