火種
放課後、ノアは自室で夕食を作っていた。酒で蒸した鶏肉を少し厚めにスライスし、特製のネギソースをかけて、白い長皿に綺麗に盛り付ける。生野菜を刻んだサラダを深皿に盛り付け、薄味のドレッシングをかけてメインディッシュに添える。最後にヒルル商会のパンコーナーで買ったパンをどさどさと大皿に乗せて完成だ。
「……まあまあだな」
ノアの評価は食事にも向いているが、今日の自身の行動に対しても向いている。ジーク・グレートベア。彼との手合わせは良いものだった。結果はノアの完勝だが、ジークは学年でも指折りの実力者であり、そのことはノアにも十分感じられた。一般常識に欠けるノアだが、騎士の常識は備えている。あの試合の時、ジークは二節の詠唱で魔法を使った。
魔法には属性がある。火、水、氷、風、土、雷、光、闇、無。一般的に、属性魔法とは無属性以外の魔法を指し、魔法使いとは属性魔法に適性がある者を指す。というのも、無属性魔法は属性魔法と比べて射程は短いし、威力は低いからだ。しかし詠唱が短いため、近接格闘の補助としてなら有用だ。
属性魔法は射程が長く、威力が高い。その反面、必要な詠唱が長くなる。だから、ジークが下級魔法とはいえ火属性魔法を、たった二節の詠唱で使ったのはジークの優秀さを示している。短縮詠唱、あるいは無詠唱は高度な技術だ。強い戦士との試合は歓迎できる。
問題は、徒に固有魔法を使ったことだ。別に隠すほどの物でもないが、試合を楽しむ弾みで見せてしまった。気を引き締めなければならない。固有魔法よりもはるかに重要な、真の切り札は隠さないといけないのだから。
「ご馳走様でした」
誰に言うでもなく呟いて、食器を片付け始める。なるべく少ない水で油汚れを落とそうと頑張るが、結局そこそこの水を使ってしまう。ノアは皿を拭き終わって全て仕舞うと、食後のコーヒーを飲みたい欲求に逆らいつつ、日課である魔力操作の訓練を始めた。
コップに注いだ水に人差し指と中指を入れ、ゆっくりと引き抜く。すると、水が重力に逆らって指に纏わりつくように登り、一滴も残さず宙に浮かんだ。浮かんだ水にはノアの魔力が含まれていて、それを操作することで宙に浮かせている。その水を前後左右に動かして、徐々に指から離していく。ノアの額には玉のような汗が浮かび、歯を食いしばって頭痛に耐えている。魔力操作は魔力の消費が少ない反面、凄まじい集中力を要するのだ。
ノアは、流れる汗が床を濡らすのを気にせずに、集中が切れるまで訓練を続けた。
◆◆◆
「おはよう、ジーク」
「ああ、おはよう、ノア」
翌日の通学路、ノアは昨日と同じ時間に家を出て学院に向かった。始業までかなり余裕があるが、ノアは朝型であるため苦にならない。
「ずいぶん早いな」
「ああ、そういうお前もな。二週間後の定期試験を意識しているのか?」
「……俺は免除じゃないのか?公平とは言えないだろう」
「いや、多分、お前も受けることになるだろうな。編入試験と比べたら、そよ風のようなものだろう?」
ため息が漏れる。別に勉強は嫌いじゃない。むしろ好きと言える。だが、テストは好きになれない。編入試験の、重箱の隅を突くような問題や暗記問題にはうんざりしていた。
「まあ、試験そのものより厄介なことがあるがな……」
「ん?なんだ、厄介なことって?」
「……すぐにわかるさ」
ジークの顔色を見るに相当嫌そうだが、今は深く話す気はないらしい。
「それより、これは聞いていいのか分からないが、固有魔法について聞いていいか?」
「構わない。だが、大したものじゃないぞ。ただ、足元で固めた魔力を蹴っているだけだ」
「……十分に異次元の技術だろう」
ノアはいつも行なっている魔力操作の訓練を簡単に説明した。普通の魔法使いは、魔力操作を鍛えない。属性魔法の詠唱は魔力操作を代行するからだ。一方、無属性魔法を主体に戦う者にとっては魔力操作の意義は大きい。無属性魔法に詠唱がないということは、自分で魔力を練らないといけないからだ。ノアは、この点が無属性魔法が弱い要因だと考えている。
「なるほど、魔力の扱いについての技術か。盲点だった」
「正直、あまり勧めないが。きついのに上達は遅いし、無属性以外には役に立たない。【空中歩行 】は有用だと認めるが、普通に火属性魔法を修めた方がいい」
「…俺は弱いからな。試せることは全て試すさ」
そうか、と返して、ノアは雑談しながらジークと学院へと歩いていった。
◆◆◆
「……であるから、諸君ら自身に危険が及んだ時を除き、学院外での魔法の使用は認められない。違反した場合、状況にもよるが退学や刑事罰もあり得る」
イリアス学院の時間割は、午前中に三限、午後に二限あるいは三限で構成されている。今は三限目の『倫理・法律』の授業の真っ最中だ。今教師が話しているのは、学院生の魔法の不適正使用に関する法律だ。
富裕層にとって魔法の適正は音楽の才能のようなものだ。つまり、お金をかけてやる『習い事』として簡単に習得できる。魔法が使えない程、魔力量が乏しい者は少ない。もちろん、プロとして戦場に出るには努力と指導が必要だが、エリートである学院生は大抵、入学前から少しは魔法が使えている。
よって、魔法をみだりに使うとどうなるか、言い聞かせておく必要がある。街の治安維持は憲兵の仕事であり、憲兵もピンからキリまでいる。全員が魔法使いに対応できるわけではないので、学院生には強く自制が求められるのだ。
「原則として諸君が殺傷性のある魔法を使って良いのは、自身に危険が及んでいる時か、魔法実技の授業中、許可を取って学院の演習場を使う場合、あるいは教官や騎士から命令を受けた場合のみだ」
ノアにとっては退屈な内容だった。流石に欠伸をしたりはしないが、魔法の不適正使用についての法律なんて、十分すぎるほど理解している。しばらく教師の講釈に耐えていると、ようやく授業が終わった。
「今日の授業は以上だ。教科書の次章を読んでおくように」
教師はそう言って、教室から出ていった。三限目のあとは昼休みだ。ノアも教室から出て図書館に向かう。昨日、ノアは図書委員会に入ると決まった。今日の昼休み、司書に挨拶をしに行くつもりだった。教室のある学生棟から図書館のある講義棟に通じる渡り廊下を歩く。木でできた古い扉を引いて開けて、図書館の中に入る。とりあえず、カウンターに座っている妙齢の女性に声をかけた。
「少し、よろしいですか」
「なんでしょう?」
「新しく図書委員になったノア・シランです。ご挨拶に伺いました」
この女性は二人いる司書のうちの一人らしい。ノアは女性に案内されて本棚の方へ向かう。足元の本棚には図鑑や大型の本が収められ、手元の本棚にはその道の者なら知らないはずがない貴重な専門書が並べられている。
「図書委員の仕事は、平日の昼休みか放課後のどこかでカウンター当番をしてもらうことと、担当の本棚の掃除です」
「当番の日はいつにすれば良いですか?」
「いつでも好きな日で構いませんよ」
ノアは希望の日時を告げて、司書が承諾する。重ねて司書が説明するには、当番の日は誰かと交代しても良いらしい。
「担当の本棚はどれになりますか?」
「この本棚をお願いします」
そう言って、綺麗に整頓され掃除された本棚の前に案内される。委員の生徒は一人一つの本棚を担当するが、司書二人は残りを全て担当するらしい。それらの本棚の内の一つがノアに引き継がれた。
ひとまず、これで挨拶と説明は終了した。ノアは司書に礼を言い、小説を二冊借りてから図書館を後にした。
来た道をそのまま戻り、教室に向かう。ノアは昼食を教室に置いているので、一旦戻らなければならない。
「……自分が良ければそれでいいの!?何様のつもりよ、アンタ!」
「いや、だから、邪魔しないんだから、ほっといてくれてもいいだろ」
朝作ったベーグルサンドを楽しみにする気持ちが一瞬で萎える喧騒が、ノアを迎えた。正直関わりたくないが、喧嘩している一方は隣人のジークである。向こうがどう思ってるかは知らないが、ノアにとってジークは友人という認識だ。嫌々ながら、仲裁に入る。
「どうしたんだ、そんなに大声を出して」
「おう、ノア。実はな…」
「こいつが勉強会に出ないって言うから、説得してるの!何か文句ある!?」
何故か自分にまで喧嘩腰の女子生徒に、ノアはげんなりする。最悪なことに、この女子生徒こそが要警戒人物の一人、ケール・バタフライだった。
「勉強会とはなんのことだ?」
「もうすぐ定期試験だろ。それで、クラス全体で勉強会を開くってバタフライ嬢が言い出したんだ」
なんて迷惑な、というのがノアの感想だった。勉強なんて少人数で黙々とやるものだろうに。
ジークからの追加の説明によると、昼休みに入ってしばらくすると、ケールが勉強会を開くと言い出したらしい。それに対してジークが不参加を表明して、喧嘩に発展した。
「バタフライ嬢、出たくない者に強要しても仕方なくないか?」
「そんなことない!一緒のクラスになったってことは、もう一つのチームなんだから!こいつだって、勉強会に出れば協力することの大切さがわかるはず!」
もう、ノアは億劫さを顔に出さないのが大変だった。貴族の義務を曲解しているのか、やたら自論を押し付けてくる。おそらく、ノアが丁寧にケールの論理の瑕疵を指摘しても意味がないだろう。
「ここは折衷案として、一度勉強会に参加しないか?それでも意義が見出せないなら、次から不参加ってことで、どうだ、ジーク?」
「このままじゃ、話が平行線だろうしな。それでいい」
ケールは少しゴネたが、なんとか合意を引き出せた。やや憮然としつつもケールは去っていく。
「試験自体より厄介なことって、これのことだったのか?」
「ああ、まあな」
心底疲れた、という顔をしてジークはため息をついた。
◆◆◆
「……冗談じゃねぇぞ」
ノアは思わず素の呟きを漏らす。全ての授業が終わって、担任であるグレイシアからの連絡も済んでからおよそ30分、ノアはジークが勉強会に参加したくなかった理由を思い知っていた。
「お〜い、シラン〜!こっちも頼む〜」
ノアやジーク、あるいは他の成績上位者は教える役を押し付けられていた。質問といっても、全く高度なものじゃなく、授業を聞いていれば理解できる程度のものだ。
ノアからしたら甚だしく歪な『協力する』だが、ケールはこの形こそが正しいと信じているらしい。今も女子のグループからの質問に、自信満々に答えている。
「……というわけだ。理解できたか?」
「いや、全然。もう一度頼む」
義務感だ。もはやノアは、一度吐いた『一度だけ参加する』という言葉を履行する義務感のみでここにいる。
全員が質問してくるわけではない。自力でなんとかなる者は黙々と取り組んでいる。だが、自力でなんとかならない者は、説明を最後まで集中して聞かないから厄介だった。
こうして、驚異の参加率100%の勉強会が続き、終わる頃にはノアもジークも精神的に疲れ切っていた。
「みんな、お疲れ様!また明日も頑張ろう!」
こんな残酷な『また明日』があるなんて。初歩的な説明を何度も繰り返すのはもう懲り懲りだった。
「バタフライ嬢、俺たちは明日から勉強会に参加したくない。やっぱり、勉強は自分のペースでやる」
バカの相手はもう嫌だった。自分では何も解決しようとしない、ボンボンの恐ろしさをたっぷり味わった。
「なによそれ!これからも参加するって言ったじゃない!」
いや一度参加するとしか言っていないが、というツッコミは無意味だろう。
「そもそも、放課後にどう過ごすかなんて個人の自由でしょう?」
「もういい!ノア・シラン!私と立ち会いなさい!」
「……は?」
不参加を表明してもしなくても、面倒なことになった。
ジークについてですが、ぶっちゃけ彼はめちゃくちゃ頭良いです。なぜそう言えるかというと、彼は働きながら勉強して学院の入学試験を通ったからです。他の面々は基本的に家庭教師を雇った上で、勉学に専念して、さらに寄付の力で入学していますので、地頭が違います。
ジークが変に察しがいいなと思ったら、このことを思い出して下さい。