初登校
ノアが入寮から二日後、今日は学院に初めて登校する日だ。既に朝食を済ませて、制服に着替えて、学院指定のカバンに必要なものは詰め終わっている。自室を出て鍵を閉め、およそ30分ほど余裕を持って、学院に向かって歩き出す。
寮から学院の校舎までは歩いて十数分ほど。寮と学院の近さ故なのか、道にはまだ生徒の姿はない。新しい学院、新しい制服、新しい道、新鮮さを噛み締めながら歩く。道の脇の花壇に目がいった。色とりどりの花が春を謳歌している。古巣では決して望めなかった、穏やかさと平和の象徴に少しだけノアの頬が緩む。
「おはようございます。ずいぶん早いですね」
「ええ、職員室に行かなくてはなりませんので……!?」
ゆったりとした歩みで花壇を眺めていると、不意に声をかけられた。こんな早くに珍しいと思いつつ視線を向けると、そこにいるのは護衛対象の少女、エマ・ダイヤモンドとその従者、センリ。予想外に早い接触にやや驚く。そんなノアの驚愕をよそに、エマはノアの胸の刺繍を見つつ口を開く。
「その刺繍……もしかしてあの編入生ですか?」
「はい、ノア・シランと申します。どうぞよしなに」
どうやらノアが編入することはある程度知られているらしい。略式の立礼をして、自己紹介をする。
「自己紹介がまだでしたね。私はエマ・ダイヤモンドです。彼女は……」
「お嬢様の従者兼護衛、センリだ。よろしく」
「私たちは1-Aクラスです。ノア君と同じクラスですよ」
二人の自己紹介に会釈で応じる。同じクラスなのは知っていたが、知らなかった体で話す。
「そうですか、ダイヤモンド嬢と同じクラスとは光栄です。これからよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。それと……敬語を使わなくていいですよ。同じ学年なんですから。呼び名もエマで構いません」
「しかし…」
「学院では身分を気にせず交流せよ、というのが不文律としてある。私のこともセンリでいい」
「…そう言うことなら、エマさん、センリさんと呼ばせてもらう」
エマはニッコリと笑い、センリはキリッとした表情で頷いた。ノアは少し意外な気持ちだった。というのも、わざわざ自分が護衛のために引っ張り出されるくらいなのだから、さぞ恨みを買う少女なのではないかと思っていた。
しかし、公爵という身分を意識させない親しみのある微笑み、よく手入れされた金髪、クリっとした瞳にぷっくりとした唇、学院一年にしては豊満な肢体、社交的な性格。恨みを買うどころか、人気者だろう。少なくとも、ノアは初対面で良い心証を抱いている。
センリに関しても、第一印象は良い。エマのような微笑みは浮かべていないが、顔が整っているからか、無愛想というより毅然とした雰囲気だ。短めに整えられた水色の髪に、程よく鍛えられた手足、リラックスしているようで、その実ノアが不意を打っても対応できるようにさりげなく構えている。初対面のノアの前で気を抜かない。ノアが好むタイプ、つまり職務に忠実な人物だ。
「職員室に行くなら、案内しますよ」
「ああ、頼む」
話しながら、三人で歩き出す。
「俺は担任に呼ばれているからしょうがないとして、どうして二人はこんな早くに登校してるんだ?」
「花壇のお世話をしようと思ったんです」
「私とお嬢様は園芸委員会に所属しているんだ」
「……委員会?なぜ庭師ではなく学生が花壇の世話を?」
エマとセンリは顔を見合わせる。委員会の意義を問われて戸惑っているようだ。その戸惑いを汲み取って、ノアは自分が非常識なことを言ったらしいと気づく。アーサーの、ノアが若すぎるという指摘を思い出す。
「ええっと、学院の委員会は実用性より情動教育を優先しているんですよ。園芸委員だけじゃなくて、協議委員とか図書委員があるんです」
「……イリアス学院特有のことじゃなくて、たいていの学校にはあることだ」
「そうなのか。学校に通うのは初めてで知らなかった」
面白そうだと思う。協議委員はよくわからないが、図書委員は図書館に関係した役職だろう。ノアはコーヒーを飲みながらの読書を、最高の休みとみなしている。図書館にも愛着があった。
「初めて学校に通うって、まさか独学で編入試験に通ったのか?」
「……きっと家庭教師が優秀だったんだ。運も良かったな」
センリもエマも怪訝な顔をしたが、余計な詮索はしないらしい。
「委員会は俺も入るのか?」
「どうでしょう。…多分今日決めることになると思いますけど」
「そうか、楽しみだな」
本当に自分が知らないことのなんと多いことか。
「ここの廊下の突き当たりを右に行くと職員室ですよ」
「ああ、ありがとう」
「私たちはあっちの花壇のお世話に行きます。また、教室で」
「また、あとでな」
学院の講義棟についたので、ノアと二人は分かれた。
◆◆◆
どこから漏れたのかは誰にもわからないが、ノアが編入試験でやらかしたことは一年生にはある程度広がっていた。具体的には、教官三人を張り倒したことと演習場を壊したことだ。とはいえ、ノア自身が心配していたほど異端視されているわけでもなかった。教官を張り倒す云々はともかく、壁を壊すのは攻撃的な魔法を使える者が明確に意図すれば不可能ではない。ノアは通常ではあり得ない方法で壊したのだが、その仔細は知られていなかった。
要するに、ノアの編入は好意的な好奇心で迎えられていた。エマとセンリがノアと通学路で会った時のことを話しているのも、それに拍車をかけている。
「それでエマちゃん、噂の編入生君はどんな人だった!?」
「…礼儀正しい人でしたよ。あとは背が高かったですね」
「編入生の話か?俺にも聞かせてくれよ!」
エリート学院に通う学生といえども、年頃の子どもたち。おしゃべりと噂話が嫌いというのは少数派だ。
1-Aのほとんどがエマとセンリに話をねだっている。そしてエマと彼女の隣のセンリの顔には疲労が浮かんでいる。なにせ朝の短い会話で分かったことは、名前と学校に通ったことがないことくらいなのだ。これでは何も知らないに等しいだろう。
まあ、噂話には十分なのだろう、別に誰も正確な情報など期待していない。あと十数分もすれば本人から直接聞きたいことを聞ける。あることないことお喋りして楽しむことが目的なのだ。
それでも友達百人を地で行くエマは、もう何回繰り返したかもわからない話をまた繰り返す。そんなことがしばらく続いて、不意に教室の扉が開けられた。
「みんな、おはよう。もう聞いているだろうが、今日から一人新しい仲間が増える」
「ノア・シランです。どうぞよろしく」
教室に入ってきたのは1-Aの担任、グレイシア・ベリーズ。およそ25歳ほどの女性教師だ。そして彼女の後に入ってきたのは、大柄な少年だ。黒の長髪を後ろで纏め、前髪が少し黒の瞳の前で揺れている。生徒の多くは彼の歩く姿に既視感を覚えたが、既視感の正体に気がつくことはなかった。
「出身は西の方で、王都には一年ほど住んでいる。わからないことだらけだが、これから仲良くして欲しい」
「シランに質問がある者は名乗り出ろ。朝のホームルームが終わるまでなら、自由に質問していい」
グレイシアがそう言うと、何人かが手を挙げた。ノアがグレイシアの方を見ると、彼女は自分で当てろというようなジェスチャーをする。仕方なく生徒の方に視線を戻して一人選ぼうとする。すると、知り合いの一人が手を挙げているのを見つけた。
「では、最初はエマさんで」
「はいっ、出身は西のどこですか?」
「……だいたいザクロス山脈辺りの村落、と言えば伝わるか」
「はい、ありがとうございます!」
立ち上がって質問したエマが座り、ノアはまた誰を当てるかで悩む。一瞬考えて、ふと革新的なアイデアが浮かぶ。
「提案だが、質問者が次の質問者を選ぶのはどうだろう?」
「ええ、いいですね!それじゃあ……」
ノアは面倒な人選を丸投げすることにした。そしてエマはノアの戸惑いを汲み取って、快く次の質問者を選んでくれる。こういうところが彼女の人気につながっているのだろう。
それからはありきたりな質問が続いた。誰かが質問し、ノアが答え、次の質問者が選ばれる。それを何度か繰り返したところで、グレイシアが声をかけてきた。
「今日のところはここまでだ。もうすぐ一限目の授業が始まる。シランは窓際の席に座れ」
やっと質問対応から解放されて、ノアは一安心である。教壇から降りて窓際の一番後ろの席まで歩く。
「改めて、ノア・シランだ。よろしく」
「ああ、ジーク・グレートベアだ。よろしく」
隣の席の男子生徒に挨拶して席につく。ノアは気付きようがないが、ジークはノアが入室した際の既視感の正体は学院を警備する騎士と歩き方が似ていることだと気付いた唯一の生徒だ。気が付いたなら警戒しないわけがない。なぜ騎士を輩出する学院にすでに訓練を受けたような者が入るのか。一昨日ローズがそうしたように、ジークもノアを観察してその異常性を嗅ぎ取る。
こうして、ノアの学院一日目は、護衛対象との縁と潜在敵を得て、始まった。