惜しんでいる場合ではない
ベッドで起きるみたいに目が冷めた。
しかし、そこには柔らかな布団も肌に優しい空気もなかった。見渡すと平原とも言えるような寂しい場所。
何? ここ……。
先程は夕暮れになりかけていた空が今は完全に群青に染まっている。見覚えも身に覚えもまったくない場所で、唯一記憶が一致しているのは足元の魔法陣だった。
平原の隙間のこの砂地に、石と石灰のような白い粉で書かれている。これは間違いなくさっきの公園に書かれていた図形。
「あのー……誰かいませんか?」
とは言いつつ、明らかに人気がいなさそうではある。知らない場所であってもここから大きく離れたくないという矛盾した気持ちで、魔法陣を中心に放射状にぐるぐるとあるきながら次第に繰り返すセリフの声量も大きくなってきた。
「誰か!! いませんか!!」
いい加減、落書き魔法陣からもだいぶ離れてしまって何度目かの大声で叫んだ時、
「……助けて……」
か細い声が聞こえた。
だが望んでいたセリフと違う! 助けて欲しいのはこっちなのだが!
「どこ? どこにいるの?」
すっかり日もくれて街の灯りもなく今夜は月明かりもない曇り空のもと手探りも交えながら声の方向をゆっくりとたどっていくと、
「……ここ……」
マッチングできたのは、大きな岩の裏側にもたれるように座っていた男の子だった。
「あなた……足が……っ!!」
思わず悲鳴が出そうになった。足首近くからかなりの出血をしている。すでにズボンには血のシミが広がり、一部は糊のように固まってしまっていた。
「もうずっと血が止まらなくて……動けないんだ……」
「まず止血しないと!」
私は帯と着物の間から帯揚げをほどき抜き取った。
帯揚げとは袋帯や名古屋帯など格式が上の方の帯を結ぶときに、背中に膨らみを出すための帯枕を包んで綺麗に見せるためのアイテムで、カジュアルな半幅帯の私には本来使わなくてもいいアイテムだ。
ではなぜつけていたかというと、単純にかわいいからだ。
本来の結び方ではなくて文庫結びというやりかたでお腹の真上にリボンがちょこんと乗っているような、そんな遊びのコーディネートをしていたのだ。
この縮緬地の帯揚げは祖母の遺品のひとつで、正しく結ぶと真ん中に梅の花の刺繍がレイアウトされるという実はまあまあの高額商品なのだが、怪我人を前に惜しんでいる場合ではない。
傷口を直視するのは怖いので若干目を薄めにしながら二周させ血が止まるようになるべくきつく結ぶ。
「この傷、どうしたの?」
「戦場でやられたんだ……四日前だけど、昼間ずっと歩いて逃げてきたから傷口がいつまでも塞がらなくて……」
「戦場?」
「そうだよ。志願兵の募集に参加したんだ……だけど……すごく怖くて……脱走兵になっちゃった……」
えっ? えっ??
手は動かしていたけれど、頭はパニックだった。
少年の喋っていることは全く理解できなかった。けれど、状況はまさにその通りだった。
彼の服装はまさに戦場帰りのように泥だらけでボロボロで、腰には短剣というのだろうか、小さな剣をさしている。重そうなブーツには怪我をしたときに一緒に破損したのか破れもあった。
「あの……ここはどこ?」
「丘だろう」
「あなたの家は?」
「この丘と森を抜けた草原の先にある」
「……」
私の知りたい情報は一つももらえない。何をどこからどう伝えたらいいんだろう……。
そりゃ私だって普段ここがどこかと聞かれたら『地球という星の日本という国ですよ』などという答え方はしない。
「ひどいことになるとは覚悟はしてたんだ……でも戦場で目の前で人が刺されてるのを見たら体がまったく動かなくなっちゃって……」
絶対私より幼いであろう少年はポロポロと泣き出してしまった。
「そんなに怖いのに、なんで兵士になんか志願したの」
「うちは農家なんだけど、僕は力が弱くて全然役に立てなくて姉さんにも怒られてばかりで。だから何か役に立ちたくて……」
「とりあえず逃げれてよかったよ、戦争なんて」
「……よかった?」
「そりゃそうでしょ」
「腰ぬけって叱られると思った……」
「命より大事なものなんてないよ」
どんな高価な品物もどんな立派な信念も、命の価値に比べたら大したものではない。私の言葉に彼はつぶらな瞳をさらに丸くきょとんとさせた。
「うぅっ……」
ポロポロだったのがベソベソと泣きになる。私も人を慰めてる場合ではないのだが。なんにせよ怪我人は最優先だ。
「家まで送っていくよ」
「助かるけど……でもまだ距離があるし……」
「ほっとけないもの」
というよりも、この子の家に行けばネットや電話の環境があるかもという下心だった。
一刻も早く彼の家へと立ち上がろうとする私の腕を彼はギュッと押さえつけた。
「夜の森は大蝙蝠や大蛙が出るから止めたほうがいい。だから僕も昼間しか移動できなくて四日かかってるんだ」
おおこおもりにおおがえる!? 初めて聞く言葉だが、明らかにどちらも関わりたくない単語である。ということは……
「朝になったら出発しよう」
彼の言葉にかなり落胆した。つまり今夜はここに野宿しかないのだ。
寝床なんて立派なものは当然ない。
大岩を挟んで九十度くらい、寝顔は見られたくないが姿が全く見えなくなると不安なので絶妙な距離をとって自分も腰を下ろした。
見上げれば空は高く月が青白く光っている。星も瞬いているが星座にはもともと詳しくないので私の知っている座標と同じかどうかはわからない。
今何時なんだろう。両親はきっととても心配しているだろう。
すごく疲れていたがぐっすり眠れることなどできるはずもなく、うつらうつらと浅い睡眠を繰り返しながら初めての野宿をやり過ごした。