名前
「うわわっ!?」
急に私の体が磁石にで操られるかのようにぐいっと魔法陣の中央に引き寄せられ、抗うすべもない。
一方で、ゼランの体が黒い霧に包まれる。
「サクラコ……!」
「ゼランさんっ」
私の声にゼランは目を細めて笑った。こんな顔は今まで見たことがなかった。
「お前の幸せが、私の幸せだ」
そしてその黒い霧がゼランの体を高らかに持ち上げると
ドンッ
という地響きのような音とともに、青白い閃光が彼の体を貫いた。
あまりにもあっという間の出来事だったので、何が起きたのか全く理解していなかった。
だが黒い霧が晴れたとき、浮遊するゼランの体は全ての筋肉がダラリと下がり力が抜けていて、瞳孔が開いたままの瞳に、私の心臓は凍てついた。
「いやぁーっ!!」彼は間違いなく死んでいた。「ゼランさん!! ごめんなさい!! ごめんなさい!!」
分かっていたはずのに、目の前で見るとショックで涙が溢れ出た。
あぁ!! やっぱりやめておけばよかった! こんなこと!
だが今更に謝罪の言葉など届きはしない。
ゼランの体から光り輝く宝石のようなものがふわっと浮き出ると、そのまま流れるようにアスタロトの手に渡った。そうか、あれが彼の魂なのか。
本人も豪語し、悪魔に度々狙われるだけあって、実に美しい七色の輝きを放っていた。
だがこれは未来永劫悪魔の所有物となり、自由になることはない……
あぁゼラン!! あなたにもっと日々の暮らしの中にある小さな幸せを教えてあげたかった!
他人に優しく接し、自分も満たされ、日々のつましい生活の中に美味しさや美しさやゆとりを見出す。足るを知り、たまの贅沢で生きる拠り所を見出す。
ゼランの死の上に成り立っている私のこれからの人生はほんとうにそれだけの価値があるのか?
「わ、私……」
背後を振り返る。
そこには見送りに来てくてたみんなの姿。
もう後悔している。
もう恋しい。
だが、
「サクラコ! 帰るのよ!!」
スルーフは叫んだ。私の迷いを見透かしたのだ。
「スルーフ!! 私……! 私やっぱり……!!」
「だめよ! あなたは帰るの!! 私は大丈夫、ずっと待っているわ!!」
それとともに自分の体がなにか抗いようのない強い力に引っ張られる感覚がした。
モヤがかかるように周囲のみなの姿が次第に見えにくくなっていく。
あぁ、私は帰るのだ。
私の異世界生活がこれで終わる。本当に終わるんだ。
言いたいことも思ったこともたくさんあったけど、喉が詰まったようになって言葉を発する作業がどうしてもできなかった。
ただ、モヤの向こうから最後にまたスルーフの声が聞こえた。
「サクラコが生まれ変わっても着物が着れるように、私がたくさん作っておくわ……!」
冷たい空気が頬を触って、目が冷めた。
そこは、いつかの公園だった。
車が走る喧騒、どこかの家のパンを焼くの匂い、鼻に刺す排気ガス、午前中の緩やかな光の中を進む飛行機雲。
帰ってきた。
悪魔は間違いなく約束を果たしてくれた。
ゼランの命と引き換えに……
間違いなくいつかの公園だが、見渡してもあの日の魔法陣はない。あの場所だが、あの時ではないのだ。
私は慟哭した。
目からは涙が滝のように溢れ、とても立ってはいられずその場に伏せてワンワンと泣いた。
スルーフを独り残し、ゼランの魂は悪魔によって囚われてたまま救われることはなく、私はまたこの世界で孤独と共に生きるのだ。
思い出されるのは、ラザ国の帰路に五人でキャンプしたあの夜であった。
耀かしい焚き火を囲みながら、見たことのない星座の下で他愛のない話をして盛り上がったあの夜の思い出が燦然と心に輝いた。
泣き叫ぶ私に声をかけたのは、近所からの通報でやってきた警察官だった。
「君……大丈夫かな?」
私は泣き顔でグショグショのままの顔を上げた。
「わ、私……」
「学生かな? 学校はどうしたの? ご家族の連絡先は?」
「……家族……?」
「名前は言えるかな?」
息を整えるためにぐっと唾液を飲みこんでから、答えた。
「呉服 桜子です」




