奴隷契約解除
隣でザポが、
ウグッ ウグッ
と謎の唸りをしたかと思うと、
ケロッ
という異音とともに、口から巨大な宝石を吐き出した。ホワイトオパールのように虹色に輝く美しい石だ。
……――ヴェルから預かってきてゐる かを売らば金貨三枚分を以って上に相当するだろう――……
その石を水魔法で洗った後、ライズは陽の光に当ててじっくりと観察してから頷いた。
「確かにいい石ネ。十二分でショ」
クティがうなずき、ライズの手に石が渡った。
「ではクティ、レースを渡してさしあげて」
ライズにそう言われて、
「……」
口元に手を当てて何かを少し考えている。
「どうしたの? まさか惜しくなったの? レースなんてまた編めばいいじゃないの」
「いえ……レースはお屋敷に置いたままですので、一度取りに戻らないと」
「あらそう」
「あの、旦那様」
「なぁに?」
「これで私の貯蓄が奴隷契約したときと同額の大金貨十枚になりました」
「あら!」ライズの顔つきが急にパァッと明るくなった。「そういえばそうネ!」
対し、クティの顔面はなんだか無表情であった。元々表情筋の動きが鈍い子だったが、さらにポーカーフェイスとなっている。
「奴隷契約解除をお願いできますでしょうか?」
「そうネ、そうしましょう。帰ったらすぐに」
「できましたら、今、ここで」
「ここで? 屋敷でゆっくりやりましょうヨ」
「いえ、早急に」
「まったく、せっかちな子ねェ」
さっきまでヒステリックだったライズもやっと気を持ち直したようだった。
クティがその場にひざまずく。その彼女にライズは手をかざすと、
「我が望み 我が心捧げて祈る 天帝の名においてみ旨を許し みさかえによりて清めん」
長い呪文とともにクティの首のタトゥーがピンク色に光り、広がるように模様が取れたかと思ったら、そのまま空中に散布した。
「あ……」
クティは思わず自分の首を撫でる。ついに彼女は自分で自分を買い取ったのだ。
「おめでとう、アタシのクティ!」ライズは両手を多きく広げ、彼女を受け入れようとした。「ついでヨ、このままここで婚姻をしましょう! 今日は嫌なことばっかりだったから、良いことが必要だワ!」
だが、その広げたれた手にクティが埋まることは二度となかった。
「旦那様は私のこと好きですか?」
「当たり前でしょ。今さら何言ってんの」
「私のどこが好きですか?」
「顔がかわいいし、アタシの話ををよく聞いてくれるし、一緒にいて安らぐところヨ」
「それって、私じゃなくて『奴隷』ですよね」
「……え?」ここでやっとライズが不穏な空気を感じ取ったらしい。「ちっ違うワ! あなたヨ!」
「顔は生まれ持ったもので私の努力じゃないし、安らぎを与えていたのは立場上逆らえなかったからです」
「性格も好きヨ! アタシの話を何時間でもじっくり聞いてくれるもの」
「私はもう奴隷じゃないので、眠気を我慢して愚痴を聞き、取り繕って慰めるなんてことはしませんよ」
「あ、あなた……一体何を言っているの……!?」
ライズの顔からどんどん血の気が引いていく。
クティは随分と凛とした声をしていた。
横で聞いている我々でさえ、あのラブラブっぷりは錯覚だったのかとさえ思えてきた。
「なぜそんな、突然性格が変わるの……!? 誰に何を言われたの!?」
「変わったのは立ち場です。旦那様に買っていただいたことが幸運だと言い聞かせられてきて、そうなのだと自分でも信じてきました」
「今までだって自由にさせてきたわヨ!?」
「そう、"させて"もらってました。でもこれからは"自分で"自由に生きるんです」
「な、なにか違うのヨ……!?」
「私、誰しもみんな煩わしい人生を不自由に生きてるんだと思った。自分より辛い人がたくさんいるから自分はこのくらい我慢しなくちゃと思ってた。でも違った。私は今、こんなにも自由でこんなにも心が軽い! 生きるって楽しくてもいいんだ!」
青ざめていくライズとは対象的に、影のある笑顔だったクティの顔はどんどん華やぎ、リアクションも大きくなっていく。この子、本当はこんな子だったんだ。
「私は私のために全ての時間を使いたい。全ての労力を自分自身に注ぎたい。あなたのために料理をしたり掃除をしたりはもうやりたくないの」
「じゃ、じゃあ料理や掃除は他の使用人にやらせる! 私がやったっていいワ! あなたは一日ベッドでゆっくりしてればいい!」
「そんなの、『生きて』いないです」
「じゃあお金をあげる! 欲しい物はなんでも買っていいし、やりたいことはなんでもやって! だからお願い、今まで通り側にいてちょうだい!」
「私の行動を支配しようとしないでください。これから苦労しても貧乏しても、それは全部自分で決めたことです」
「だって……あ、あなたはアタシがいなくて夜も平気なの!?」
「どんなに可愛がられても、私はずっと孤独を感じていました。もう、あなたが喜ぶような反応もわざわざしたくありません」
「ずっと演技をしていたというの!?」
「愛されるってこういうことだと思ってましたから。心のなかでは白けていても求めあっているふりをしていつも高揚している、これが人を愛することだと思ってたんです。だって他に愛を知らないから」
「い……いいのヨ、それでも。これからアタシのことを改めて好きになってくれたら」
「なりません、一生。あなたは私を選んだかもしれない、だけど私はあなたを選んでいない」
「たっ助けてやった恩を忘れたの!?」
「恩?」瞬間、クティの顔があからさまに怒りに燃えた。「対等な夫婦といいながら、やっぱり本心では私を見下していたんですね」
「……うぎ……ぎいいぃぃっ!!」
ライズは言葉にならない悲鳴を上げて、頭を搔きむしった。
あの豪華なカチューシャがガランと音を立てて落下し、絹糸のような細くしなやかな飴色の髪が乱雑に振り乱された。
「どぉしてよォ……どぉして贅沢させてあげてるのに離れていくのよォ……!!」
『主人』になることと、好いてもらうことは全く何の関係もない。
むしろ『主人だから好きになるべき』と思ってる短絡思考に言葉を失う。
「ずっと大切にしてもらったし、愛された実感もあるけど、私のことをお金で買ったという最初の事実が、私はどうしても許せない」
そりゃ……そうだよな。
恩人と結ばれるなんてドラマチックだけれど、結局の所この人も金で自分を買った人。売った親、連れ去った奴隷商と並んで自分の人生を曲げた一人とも言えよう。
確かに、他の人間に買われたらもっと辛い環境だったかもしれない。でもそれは、マシな人間に買われたから幸せだということでも決してない。
彼女の人生は、彼女が選択するべきだから。
金で体を自由にしたからといって一人の人間の全てを支配した気になっているなど、へそで茶を沸かす。
「じゃあアタシは誰にも愛されていなかったというの!? こんなに稼いだのに誰にも!?」
取り乱しながら咆哮するライズに、クティは一瞥した。
「あなただって、一番愛しているのはお金でしょう」
「嫌っ! 嫌ヨっ!! ひとりは惨めで辛いのヨ!!」
「貴方は多分、ひとりで生きた方がいいんです。その覚悟をするのが、今です」




