渡仏
岸島は却ってこの出来事を機にさらに気を改め、新たな心をもって絵画に向かった。
その姿には、もう後戻りしてはいられないという決意と、久藤先生の力に少しでもなりたいというひたむきな思いと、最終的には自分自身の力を頼りに画家としての技術を磨き指針を決めなければならないのだという不安とが入り混じっていた。
暫く岸島は久藤の教授した、西洋の古典絵画の技法を中心に学んでいた。
岸島が自身の作品制作から指導に再び戻った際も、久藤の修業の様子を見ていたが、まだまだ粗削りな状態にもかかわらず久藤は他のジャンルの技法も学ぶようにと言った。そしてこう説いた。
「プロの芸術家というものは、ありとあらゆることから技術を盗む位の心意気がないと、とても勤まらない。怪盗ルパンになったつもりで色々な画題に挑戦して欲しい。」
久藤の絵画に対する広範な知識と技術は、作品発表を前に忙しい彼であるにも関わらず、経験の浅い岸島の勉学に対応するには十分な余裕があった。
そして久藤は岸島の興味の赴くがままに印象派の様な十九世紀頃の絵画の潮流から、世紀末美術の他、キュビズム、シュルレアリスムを筆頭とした比較的後期の芸術についても折に触れて語った。
その他、十九世紀中頃から西洋の画家が日本芸術の技法を取り入れた事に関心を抱いた岸島に対し、久藤は知り合いの日本画家の作品を紹介するなどした。
しかし抽象画という言葉を口にするや否や、久藤の表情は変わり、「日本で流行りの抽象画なんかをやりたかったんなら、今最前線でその手のことに取り組んでいるA氏の助手にでもなればいいだろう。」とあからさまに嫌そうな表情を見せた。
ところで久藤は久しぶりのフランスでの作品発表を機に、岸島を連れ出して現地関係者との場に同伴させるという驚きの決断をした。
岸島は少なからず驚いたが、久藤の忙しさに追い立てられるようにして彼女は国外へ突然出ることとなった。
現地で久藤と岸島はかつて若いころ留学していたフランスでの友人にも会った。
そこで彼は取り留めなく語らい飲食を共にし、つかの間の休息を、岸島を連れて楽しんだ。
岸島はフランス語が分からないのもあって、猶更自分の置かれている状況が当初さっぱり分からなかったが、久藤が即興で通訳してくれることで話の内容が少しだけわかった。
しかしそれ以上に岸島の心が動かされたのは、皆久藤の弟子と知っただけで、すぐに色々と自分に対して長々と真剣に話しかけることだった。自分は久藤先生に教えてもらってやっと少し意味が分かるという有様にも関わらず。
それが岸島にはただ嬉しく、弟子であることが誇らしかった。