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フロル・ネージュの街の歌  作者: 崎浦和希
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番外編 あしたのひかり

 空に掲げた指さきが一瞬で冷え切ってかじかむような、冷たく凍える朝だった。でも人魚姫は寒さなど感じていないから、ユキも白く息を吐きながらあたたかな海を泳ぎ続けた。


 海の上の世界はどんなところでしょう?


 とっても寒いわ! 問いかける人魚姫に、心の中で答える。でもとってもすてきなところ。雪に包まれたこの街はとても綺麗で、美しい。雪だけじゃない、春も、夏も、秋も、どの季節も好きよ。海の底にいるあなたにはきっと想像もつかない世界。


 この世界には想像もできないことがたくさんある。わたしもほんとうは海の底の世界なんて知らない。だけど、だからこそ想像するの、あなたのこと。あなたの世界。


 もっと、もっとたくさんのことを知りたい。この気持ちはあなたときっと同じね。





「こんな寒いのに、相変わらず人魚姫は元気だね……」


 マフラーに顎をうずめ、頬と鼻の頭を赤くして、一見してとても寒そう、とわかるようすのアレクシスは唇の端をぎこちなく上げて笑った。顔が凍りそうなのだろう。いつもとり澄ましている彼の、メディアでは絶対に見られない顔をユキはとりわけ可愛く思う。マフラーに鼻まで埋めてしまわないのも、肩を丸めることなく背を伸ばして姿勢良く立っているのも、おそらくは彼のプライドによるものだ。でも表情までは取り繕わなかったのだとわかる。


 指さきや頬には冷たい風が当たってすぐに冷えてゆくものの、しばらく歌って踊っていたために火照る身体のまま彼を振り返って、ユキはほかほか笑った。


「だってここはあたたかな海の底だもの」


「地上にあがっておいでよ」


 言葉は返さず、ユキは微笑んでアレクシスに手を伸ばした。すぐに意を汲んだ彼がすべるように歩み寄って宙でふらりと揺らぐユキの手を取る。ずっとコートのポケットに突っ込まれていたアレクシスの手は、ユキの手よりあたたかかった。ひんやりしたユキの手を、アレクシスが両手で包み込む。


「陸のあたたかさね。海の底には届かない、陽のひかりの」


「これは人の体温だよ」


「陸がこんなに寒くて、人の手がこんなにあたたかいこと、人魚姫は知らないわ」


「きみは?」


「……わたしも初めて知ったかも」


 ニコおばさんはいつもユキに毛糸の手袋を編んでくれた。手を繋ぐときも手袋越しだった。今年も変わらずニコおばさんはユキの手の大きさに合わせて手袋を新調してくれていたけれど、踊るときに手袋は外してしまうから、冬に池の前で踊るユキの手はいつもつめたく冷えていた。


 いま、冷えゆくばかりのはずだったユキの指に絡む、アレクシスの手はとてもあたたかい。熱いくらい。ぬくもりをわけて、アレクシスの手が冷えてゆくかといえばそうでもなく、ユキの手の温度が、だんだんと彼のものに近づいてゆく。


「ひとってあったかいのね」


「それはきみと人魚姫、どっちの言葉?」


 どっちかな。アレクシスに言われて気づく。初めて王子様と手を取り合ったとき、人魚姫もそう思ったに違いない。いくらあたたかな海といえど、人肌ほどのぬくもりは持たないだろう。


「ねえ、人魚姫が初めて陸にあがって、王子様と出会うシーン、つきあってくれない?」


「いいよ」


 ふたりで海に行った日から、この池の前で『人魚姫』を練習するユキがそう頼むのも少なくはなかったので、アレクシスはすっかり慣れていた。彼の発するせりふも歌も、ユキのいる劇団の仲間たちに比べたら当然ぎこちないのだけれど、それでもユキは彼と練習をするのが好きだ。




 浜辺に倒れている人魚姫に驚いて王子様が「きみは誰」と訊く。声をなくした人魚姫は答えられない。憧れていた人に会えた感激と、声も出せず、人の身体をうまく扱えない困惑、戸惑って王子を見つめ返すばかりの人魚姫にやさしく微笑みかけ、助け起こすために伸べられた王子の手。何気なく彼の手に手をかけ、人魚姫は驚いてその手を胸もとへ引き戻した。首を傾げている王子の顔と彼の手、自分の手のひらを何度も見て、おそるおそるもう一度王子の指さきに自分の手を触れさせる。その瞬間、もう離させないというふうにぎゅっと握られた。力強く腕を引かれ、そのまま王子様の胸に身体ごと飛び込む。人はなんて熱いのだろう。浜辺をあたためてくれた太陽よりも、このひとのほうがずっと熱い。どうして。ひとは、からだの中にあの太陽よりも熱く輝くものを持っているの?


 王子が侍女たちに人魚姫の世話を命じていなくなってしまっても、彼の熱は手のひらに、肩に、胸に、身体じゅうに残っているような気がした。人魚姫はそのあたたかさを感じながら、誰にも聞こえないよろこびの歌を歌う。




「きみの歌は不思議だね。同じ歌なのに、全然違うようにきこえる」


「変えているもの。ねえ、アレクシスはどっちが好き?」


「そうだなあ。前に聴いたときは無邪気な喜びが可愛かったよ。いまのは、戸惑いと、それを越えてあふれたような喜びであるようにきこえたな。ちょっと大人っぽい人魚姫だね。どっちも好きだよ」


「ふうん」


 ユキは両方の感覚を残したまま考えるのをやめた。これ以上は相手役と合わせてゆかなければならない。はやく稽古したいな、とうずうずする。劇団の稽古場は年末年始は休みで、当然、公演の稽古のスケジュールも年末年始には予定がない。


 休みは得意ではなかった。なにをしていいかわからないし、歌って踊ること以外の趣味もない。時間がやけにゆっくり流れて、ひたすら退屈に感じる。感じていた、去年までは。


「ユキ、そろそろ行こう。今から街に出たら、ちょうどお店が開くころじゃないかな」


 あたたかな手のひらがユキの手を取って、ユキははっと顔を上げた。すぐそばにアレクシスがいる。彼はすくいあげたユキの手を、自分の手とともにコートのポケットに仕舞った。


『今年最後の一日、街のようすを見ておくのも楽しそうじゃない?』


 ユキの年末年始のスケジュールがぽっかり空いていることを知ったアレクシスは、冬休みが始まるやいなや連日ユキをどこかへ連れて行ってくれていた。今日は、フロル・ネージュの街をのんびり見て回る予定だ。大晦日に街になど、ユキは行ったことがない。


 去りゆく年に感謝と別れを、新たな年によろこびを、街がそうコンセプトを立てて毎年大賑わいなのは聞き知っていた。


「来年になったら、また新しいことが始まるね。僕ときみのミュージックビデオとか、きみの久しぶりの公演とか、僕も、たぶん」


「うん。楽しみだけど、ちょっと怖い気がするの」


「どうして?」


 アレクシスはふふっと笑いを挟んで尋ねた。まるで、彼にはユキの答えがわかっているかのようだった。


「だって、どうなるかわからないもの。時が経つと、今あるものが、すべてそのまま残るわけじゃない。変わってゆくこと、怖いと思わない?」


「去年はどう思っていたの」


「去年は、なんにも考えられなかった。どうしたらいいのかわからなくて」


「じゃあ、今年のきみは、未来の自分にいろんなことができるって知っているんだ。だから何が起こるかわからないことを怖いって思えるんだよ。すてきだね」


 アレクシスのポケットの中で握りあわされた手が熱くなってゆく。指さきまでせわしなく血が巡って、ユキは同じように熱い彼の手をぎゅっと握り返した。


「うん」


「時が過ぎてゆくにつれ、失うものもあるけれど……、変化と希望はいつだって未来にあるんだ。僕も、何があるかわからない未来を怖いとも思う。でも、失ったものは戻らない、過去は変えられない、だけど未来にはまだ何だってあるんだ。だから、明日を夢見ることが好きだよ。きっといいことがあるって思える今が、好きだよ」


 ユキがアレクシスを見上げても、彼は前を見ていた。道を歩きながらよそ見をしていられるのは手を繋いでいる彼が前を向いていてくれるおかげだとはいえ、横顔しか見えないのがもどかしかった。すこしひそめたやさしい声で語る彼の目はきっととても綺麗な色をしていて、目もとや頬、唇には、春を教えてくれる花みたいな微笑みがうかんでいるのだろう。マフラーと黒髪のあいだに見えている頬がりんごのように赤い。繋いだ手で、指さきがそっとユキの指を撫でて、じわりと温度を上げてまた強く繋ぎなおされた。


「いつだって、あなたに夢を見せたい。未来のあなたにも」


「僕も、いつもきみに夢を見ている。でもね、僕にとってきみのとってもうれしいところは、夢じゃなくて現実だってことかな」


 繋ぎ合わされている手の、その存在が急に大きくなったかのようだった。ユキは指に絡むアレクシスの指の骨の硬さまでをあまりに鋭く感じながら、反対の手で火照った頬を冷やす。


 ずっと、ずっと、このひとと居たい。あまりに大切で、それだけでユキの胸をいっぱいにする気持ちは、どこへも消えてゆかない。


 永遠に、なんて約束が、それこそ舞台の上にしかない、はかないものであることをユキは知っている。アレクシスはもっとよく思い知っているだろう。


 それでも、と願う。どうかこれから訪れる新しい年が、光に満ちて、すてきなものでありますように。


 いままでただ過ぎてゆくばかりであった日々に、こんなふうに切実に祈ったことはない。


 一年の最後、最後の一日でさえ、ユキはまた新しい想いを知った。アレクシスから教えられた。この先もずっと、そうして新しい一瞬を、一日を、一年を、アレクシスと重ねてゆきたい。


「人が、明日に明るい夢を見ていられるように、今日にどんなことがあってもきっと明日は、って思えるように、舞台を見て人が励まされてくれる、わたしはそんな役者になりたい。そのためにわたしも、明日を信じていたい。わたしが明日を信じられるのは、いまここに、あなたがいるから」


 何もないのに夢だけを与えられるほどの強さを、ユキは持っていない。誰だってそうだろうと思う。この世界のなかに信じたいものがあるから、大切なものがあるから、この胸に火が灯る。


 あたたかく明るい輝きを、ユキは見つけた。


「アレクシス、ありがとう。そしてまた来年からも、どうぞよろしく」


「こちらこそ」


 アレクシスは一度立ち止まり、ユキを見下ろしてしあわせそうに目を細めた。でもすぐに、「まだ早いよ」と言ってふたたび歩き出す。そうね、と返して、ユキは声を上げて笑った。


 今日で一年が終わり、明日から新しい年が始まる。でも、まだ「今日」が終わらない。そうして今日が終わる瞬間には、一瞬もとぎれることなく明日がやってくる。そのとき予定では、ユキの隣にはアレクシスが居て、フロル・ネージュの街灯りを見下ろしているはずだ。今年はありがとう、また来年、なんて言っているあいだに明日になっているだろう。アレクシスは「まだ早い」と言うけれど、ほんとうは、どんなタイミングでも終わりと始まりを告げるのにふさわしいときなんてないのかもしれない。




 終わりのない未来が、この先に続いている。

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