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フロル・ネージュの街の歌  作者: 崎浦和希
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番外編 海の底の世界

 彼女のまわりにだけ、海の色が見えた。


 永らく忘れていた、その色。もう五年ほど前になるだろうか、かつて見せられた美しい青をした南の海の色を、たったの一瞬で鮮やかに思い出した。


 あたたかそうだ。


 つい一歩踏み出しかけた足を、我に返ってそっと戻した。よけいな物音など立てては、あの子の世界が壊れてしまう。今ここにいる自分の存在ですら、気づかれていないのだとしてもきっと邪魔だ。


 わかっていて、それでも、近づきたくなってしまった。


 あの子のそばはあたたかいだろうか。どんなに綺麗な景色が見えるだろうか。夢見るように歌う、あの子の目には今、何が見えているのだろう。


 ああ、あれは人魚姫の、陸の宮殿にいる王子を想う歌だ。あの子は今、人魚姫なのか。だとしたら、もしこの物語を最後まで歌ってしまえば、彼女は泡になってしまう。それが架空の、物語の中の出来事であることなど百も承知だ。けれど、彼女なら本当に消えてしまえる気がした。


 そうして、人というのは時にあまりにも儚く、本当に消えてしまうのだということも、痛いほどに知っている。


 引き留めたい。でも、今の自分にいったい何ができるというのか。兄がいなければ、自分ひとりではなにひとつうまくできない。彼がいなくなってしまって、もう、自分にかけられていた魔法はすべて解けてしまった。


 そうだ――そのはず、だったのに。


 今、僕はたしかに、彼女のまわりに色鮮やかな世界を見ている。兄がいなくなってすべてが灰色に見えていたはずの世界が色を変えてゆく。


 魔法だった。


 彼女は僕に魔法をかけている。おとぎ話の世界に引き込んで、自由な足を不自由な尾鰭のようにして――不自由だと思うのは僕が人間であるからで、実のところ人魚の彼女はまったく自由なのだ――軽やかに踊り、海の底の王国を僕に見せつけている。実際は、僕が勝手に覗き見をしているのだけれども。


 もう生きてゆくことができないと思うくらい、世界が息苦しく感じたのは、海の底だったからなのかな。彼女とともに陸に上がったら、楽に呼吸ができるかもしれない。


 でも、彼女の目は王子様しか見ていない。一心に王子様だけに焦がれて、彼だけを追って、他のなにも彼女の視界には入らない。


 そう思うと、また目の前が灰色になってゆくように感じた。


 きみにこんなにも想われているのに気づこうともしない、そんなロクでもない王子なんかに捕らわれて泡になってしまうなんてあまりにも馬鹿げている。だけど僕は、その王子以上に、きみを引き留められる何かなんて持っていないんだ。


 兄のような才能があったら。彼みたいに、言葉ひとつで世界を輝かせるような力が、僕にもあったなら。そうしたらきみをこの世に留めることができたかもしれないのに。


 彼女の歌を受けて、太陽の光に照らされた海のようにきらきらと銀色に輝く池は、この公園に昔から変わらずあって、幼いころの兄と僕の遊び場だった。兄は僕をあの池の前に立たせて、さまざまな風景を写真に撮った。


『想像して』


 兄の使う魔法の呪文。ここは凍える北の国の海。ここは多くの魚たちが群れなして泳ぐ豊かな海。ここはたくさんの国が領土を巡って争い、対岸で睨み合っていた歴史に残る湖。ここはなんでもない近所の公園の、子どもたちが遊ぶのを、ずっとずっと見守ってきた、なんでもないただの池。


 レンズを覗いていたカメラからひょこりと顔を出して、兄は僕に『ここがどんな場所なのか』『どんな景色が見えるのか』を語って聞かせた。兄の語るがまま、僕にはさまざまな光景が見えた。僕が夢見心地でぼうっと見えた景色を眺めていると、またレンズを覗いた兄がカメラの向こうから言うのだ。


『笑って、アレクシス』


 僕は兄の作り出した世界の中でただ笑った。凍えるような雪の中でも、一面を真白く埋め尽くされた世界がどんなに美しいか、白銀の腹をきらめかせながら海流に乗ってぐるぐると大量の群で泳ぐ魚たちの棲む海が、どれほど豊かで自然の力に満ちあふれているか、昔の人たちが血を流して作り上げてきた歴史がどのように今の僕たちに繋がっているか、子どもたちが成長してゆき、やがては公園を訪れなくなってゆく、その喜びと寂しさがどういうものか。


 僕は兄の魔法に導かれて、彼らの想いやこの世界が持つ目に見えない力を感じていた。笑って、と言われたら、感じたままの笑みをうかべた。兄は僕の笑った顔がいちばん好きなようだった。


 人魚姫の歌が哀切をおびて透明な硝子のように美しく高く響く。なんて儚いんだろう。どんなに歌っても、王子様はきみと同じ景色を見てはくれない。


 僕は、僕なら。


 かつて兄に導かれたときと同じように、彼女の歌う世界を想像した。きみには何が見えているの。僕も、同じ景色を見たい。透き通った青い海の底の世界。そこから上がって見た陸はどんなふうにきみの目に映るだろう。


 眩しいだろうか。海の底に比べたら、地上は光にあふれている。


 ここは、なんて美しい世界だろう。





 はっと気づいたとき、彼女はいなくなっていた。僕の目の前には灰色の池があるだけで、青い海も、光に満ちた陸も、なにもかもが消えていた。

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