プロローグ
彼女は知っていた、ここに漂流する永劫の循環を。
それは人の――誰かの願いの欠片だった。肉体を離れた願望は行き場に迷って、この地にたどり着く。 古き民たちが、人は死して冥界を訪れると言っていた。
そう――ここは冥府なのだ、誰かがそう名付けた次元の狭間。流れゆく人々の魂は、いつかこの場所を通って、別の誰かに注がれる。
どうして思いは巡るのかと、彼女は彼らの願いの儚さに惹かれていく。
死は終わりであり、始まりなのだ。生物は本能的に死を忌避するが、その先にあるのは実は救いなのかもしれない。満たされなかった願い、果て得ぬ望みは巡りに巡って、それは別の誰かに受け継がれる。
そして一部の人間は、その願いを保持したまま、別の世界に流されたり、もしくは見知らぬ世界に生まれ直したりもしていた。
それを彼の者らは輪廻転生と尊んだ。
彼女は悟っている、この世界に神という現象は存在しない。もし人が神と称する者があるのならば、それは個人の思い描いた偶像、あるいは根源にある無形の摂理、そして循環なのである。
つまりは神様が人を産み出すのではなく、人が神様というシステムを作り上げるのだ。ゆえに神様は人の数だけ存在し、また人の亡き世に願望はない。
ここに流れる願いの欠片は、それこそ人間の子供たちだ。ある民族は己の精神性を捨ててまで、人々の願いを救う選択をした。
今ならばわかる、それは可能性の芽を摘まないための行為だったのだと思う。
だから、人間になれなかった彼女は、人々の願いによって生まれた神様でしかない彼女は、役目を終えながらも摂理に溶けきれずに、こう願うのだ。
――いつか何処かの誰かに、人間になってみたい、と。
◇
見慣れたアパートの一室。少女は今日も、近くのスーパマーケットで購入した惣菜の入った袋を下げ、リビングルームの椅子に腰を下ろす。
もう見慣れてしまった1LDKの部屋だった。洗い物の皿を残したキッチン。暇な時間をつぶさせてくれる液晶テレビ。掃除が面倒に感じ始め、整理整頓を心がけなくなった部屋は薄汚れている。
それでも、何とかごみの分別くらいはしていたから、一人分の生活スペースとしては、まずまずといったところである。少女はテーブルの上にビニール袋を置き、気だるげなため息を吐く。
「退屈……」
それは彼女の本心から出た言葉だ。早くに両親を亡くした彼女は、親戚に引き取られ、ここまで育ててもらったが、親戚とはいえ、赤の他人であることは変わらない。
親戚の家で過ごす時間は、少女にとって息の詰まるものだった。別に虐待を受けていたとかではないが、気を遣われている環境が居心地の悪さを助長してしまったのはあると思う。
――ああ、私は家族じゃないんだな。
と、察してしまうことはあった。家族の団欒に割り込み、親子の時間を邪魔してしまっている自覚が、少女にはあったのだ。高校に通うかどうか、という話し合いでも揉めてしまった。
少女の親権者となった親戚の両親は、彼女を高校に入学させるつもりではいたようだが。育ての両親は普通の女の子としての生活を保障したかったのだ。
けれど、彼女をそれを拒否した。言うまでもなく、早く自立して彼らに迷惑を掛けたくなかったからだ。自分のことは自分で。中卒で就職し、仕事をして生計を立てる。
それが厄介者の自覚があった少女が思いついた唯一の方法だった。のだが、
「結局、うまくはいかないよね?」
少女は椅子に凭れかかり、ちかちかと照る蛍光灯を見上げた。中卒で就職活動を始めたはいいが、状況は芳しくないし、学歴の低さが拍車をかけ、安定した企業に就職できていない。
今はアルバイトを兼用し、生活費と家賃を賄っている。大口を叩いた手前、育ての両親を頼るわけにもいかず、少女は生きることに四苦八苦していた。
彼女は疲れていたのだと思う。
毎日が同じことの繰り返し。アルバイト先に行って仕事をし、上司や先輩に怒らながら疲れ果て、アパートに帰ってきては眠りに落ちる。
代わり映えのしない日々が、半年間も続いた。最初の頃はやる気もあった。保護者の元を離れ、新しい環境に身を置く期待感もあったのだ。
ただのアルバイトではあるが、正規職員に迷惑をかけないように頑張ろうと思えた。しかし、それがどうしたというのか。始まって見れば、新生活は何の変哲もない日常に組み込まれていく。
上司には怒られ、自分より職歴の長い人と比べられて、仕事が遅いと罵られる。
次は上手くやろうと、今度こそはちゃんとしようと懸命に働いても、やる気がばかりが先行し、結果に結びつきはしない。思えば、少女は空回りばかりしていた。
学生時代もそうだ、他人と付き合うのが不得意で、自分の悪評も相まってか、一人きりのことが多かった。しかし少女は、このままではだめだと意気込み、自分から変わろうとはしたのだ。
人に好かれるにはどうすればいいかと考えて、自分なりに他者に近づこうと努力もしたけれど、懸命な行動は裏目に出てばかりだった。
良かれと思って実行したことで反感を買うなんて、自分の首を絞めることだけには、卓越した才能でもあったのだろうか。たぶん自分は酷く不器用で、どこかズレた少女だったのだと思う。
物語みたいには上手くいかないなと語る少女は、心のどこかで、自分を取り巻く環境に息苦しさを感じていたのだった。
「本……読もう」
少女は重たい腰を上げ、リビングルームの本棚に歩み寄る。彼女の癒しとも言っていい時間だ。文系女子だった彼女は、昔から読書が趣味だった。物語の登場人物になりきり、今とは違う別の世界に浸る。
まるで主人公の人生を追体験するような、あの感覚が好きだった。今となっては、その趣味も現実逃避の代償行為になってしまったが。
「どれにしようかな?」
真剣に考えるふうに、少女は顎に指を添える。と、一冊の本が目に止まった。裏路地にある怪しげな古本屋で見つけた本だが、どういうわけか、ページをめくることができない。
「今日こそは!」
少女は古びた本を手に取り、ページをめくろうとした。だが、開かない。強固なカギでもかけられたかのように、赤茶けた表紙はびくともしなかった。一万円近くした本なのに、これでは大損である。
表紙に『誰がためのグリモアール』と記載されていることから、西洋系のファンタジー小説であることは分かるが、読めないのでは調べようがない。
「ほんと、どうなってるんだろう?」
少女は諦めて本を戻すと、その隣にあるお気に入りの小説に手を伸ばした。恋愛からSF、さらには推理小説と幅広く読んでる彼女だが、一番気に入っているジャンルは、やはりファンタジー小説である。
学生時代もそうだったが、フリーターとなってからはそれが顕著となった。小説を読んでいる間は現実から隔絶され、その物語世界に没頭でできるのが良い。
読書中だけは、嫌な出来事を全て忘れられるからだ。物語世界に入り込めるならば、ぜひとも飛び込んでしまいたい。お気に入り小説のページをめくりつつ、少女は切望した。
と、その時だった――
『それが、アナタの願いですか?』
どこからともなく、澄んだ少女の声が響く。
『ならば、ワタシに願ってください』
声は少女を誘うように、彼女の頭の中に語りかけた。
「えっ? 誰なの!」
少女は恐怖にかられ、室内を見渡した。しかし周囲には誰もいない。幻聴、あるいは心霊現象の類だろうか。その手の話にめっぽう弱い彼女は、びくびくと肩を震わせ、耳を塞いで縮こまる。
それでも女の声は止まず、
『ここに、契約を。この世界におけるアナタの生を代償に、ワタシが願いを叶えましょう。そして、いつか私を――』
そう言葉をぶつ切りにする。と古ぼけた本が宙に浮き、眩しい光を放っていた。少女が目を向けた本棚の前で。やがて古本の発する光がアパートの一室を包み込み、少女は忽然と姿を消す。




