第二九話:少女の契約
そこは――やはり真っ白な部屋。
何か重要なものあるわけでもなく、何か大変な意味があるということもなく、ただ漫然と、そこにあるだけの部屋だった。部屋の向こうに扉がある。開けるべきなのか、それとも踏みとどまるべきなのか、少女はその扉を眺めていた。
声が聞こえた。誰かが言い争うような声が。
どうしてあの子の誕生日を忘れていたの? と女が言う。
だって仕方ないじゃないか! と男は言い返した。
彼らは夫婦だった。
身寄りのない娘を引き取ったがゆえに、人生を狂わされた哀れな家族の末路である。
女の夫が忘れていたのは自分の息子の誕生日だった。
他の親戚の目を気にして、身寄りのない少女ばかりを構っていた彼は、本来の子供である息子をおざなりにしていた。
男の妻は育児に悩まされていた。
自分の息子が「どうして僕と遊んでくれないの?」とか、「そんなにあの子の方が大事なの?」とか、ずっと言い聞かされてくるのだ。
彼女の息子は親殺しの子供を飼う家の子だと、クラスメイトに虐められていて、父親が取り合ってくれないから、息子は母親ばかりに頼り切る。
「私たちよりお姉さんの子が大事なの?」と言ったり、「あの子が大きくなったら、お姉さんの代用品として遊ぶつもりなんでしょう」と言ったり、妻は事実無根な夫の性癖を踏み散らかし、溜まったストレスをヒステリックに叫ぶ。
妻の言いがかりに腹を立てた夫は彼女を殴りつけ、そして自分の拳に残った痛みに後悔し、彼は最愛の妻に謝り続けた。しくしくと、すすり泣く義母の声が彼女の耳に残る。
――お邪魔虫でごめんなさい、生き残ってごめんなさい
と、少女は懺悔をし続けた。
自分が死ねば、みんな幸せなのかなと思って、自室で首を吊って自殺してみようとしたけれど、帰宅した義父に助けられ、「心を病んだ子なのだから、両親がしっかりしなさい」と、心無い親戚の声に罵倒される育ての親を見て、「自分は死ぬことですらも邪魔になるのだな」と思い知らされた。
――ああ、違うのに
三珠は邪魔になりたくなかった子で、他人に迷惑を掛けないようにいなくなろうとしたのに、どうして空回りをしてしまうのだろう。
いつしか彼女は、仕方のない死を求めるようになった。
生きることは拷問だけど、自殺は許してもらえないらしいから、地震に巻き込まれて家に潰されたり、誰かを守るためにかっこよく死んだり、「それはしょうがないね」とみんなが諦めてくれるような、どうしようもない死が欲しかった。
それが、天津三珠という少女の願いである。
「マスター、願いは叶いましたか?」
天津三珠は――銀髪の少女は背後を振り返った。
そこには自分とそっくり同じ顔をした少女が、自分にその肉体を献上してくれた黒髪の少女が、呆然と彼女を見て佇む。
「やっと、私を見つけてくれましたね」
銀髪の少女は笑って、精一杯に優しく笑って、黒髪の少女を迎え入れる。
彼女は少し驚いた顔をしたけれど、やがて全てを察したのか、少女は自嘲的に微笑み返して、彼女は銀髪の少女の手を取った。
「そっか、そうだったんだ。いつから、あなたは肉体にいたの?」
「この世界に移動した時からです。マスターの体は、私が動かしていました」
「どうりで、本をゆすっても反応しない訳だ。私がそこに逃げ込んでたんだから、当たり前だよね? それに魔法だって、貴女が使ったんでしょう?」
「はい、マスターは消滅を望んでいました。誰にも迷惑をかけることない、そんな安らかな終わりを望んでいましたよね」
「それならどうして、私の自我を本に残したの? こんなことしなかったら、あなたの願いは――どこかの誰かになりたいっていうあなたの願いは、簡単に叶ったはずなのに」
「きっと、それは違うと思ったんです。それは私が人間になることではなく、誰かをコピーした模造品にしかなれませんから」
そう、銀髪の少女は感覚共有の魔法を使い、本の中に引きこもった天津三珠という少女に、自分の見て聞いて感じた世界を、その心を彼女に伝えていた。
世界から消えてなくなりたい願った少女が、もう一度、やり直そうと思ってくれることを信じたかったからだ。願いを叶える無形の神様である銀髪の少女は、天津三珠の写し鏡となり、彼女になり替わって、そして少女の内に眠る、まだ何かを成し遂げたいという思いを感じとっていた。
三珠はちょっとだけ俯いて、それで銀髪の自分をまっすぐに見つめ返す。
今ならばわかる。この世界に満ちた魔素という無形の物質は、誰かが残した感情の破片で、呪術は人の内に眠る願望を表面化するものだから、それならば死んだ肉体を離れたそれが、世界に満ちるのも当たり前だった。
人がいる限り、魔素は――願いの欠片はなくならない。
それは別の人間になろうと次元の狭間に向かったり、この世界に未練として残留したり、そして人はその魔素という感情の欠片を魔術に返還する術を生み出した。
「ごめん、色々と迷惑かけちゃったよね?」
「そうですね、私はマスターと感覚を共有していましたから、マスターの気持ちが肉体にフィードバックして、大変ではありました」
「ああ、やっぱりか。情けないな、私――」
あはは、と恥ずかしさを紛らわすために三珠は笑って、銀髪の少女は「もうこりごりです」なんて茶化すのだ。
「マスター、この世界はどうでしたか?」
銀髪の少女が問う。アベントゥーラは彼女が一度、ずっと1000年くらい昔に救った世界だった。
傍若無人な振る舞いをする悪逆の王に悩まされた人々は、この世界の平穏と秩序を守りたいと願い、その思いはたった1冊の魔導書に宿る安寧の神様として、彼女は誕生した。
世界の平和を願った人々《かみさま》の願望であった彼女は、その願いから生まれた力を世界を救う英雄たちに分けあたえ、そして悪逆の王を打倒し、人の願いを叶えて役目を終えた。
だが、彼女はその役目を果たしたのに、芽生えた自我が消えることはなかったのだ。誰かの願いが集積した彼女は、人の願いがあり続ける限り、その願望の観測者として、永遠に時空の狭間を無意味に漂い続ける。
そしてある時、彼女は偶然にも地球という星に辿り着き、古い本として飾られることになった。
ゆえに彼女は文字通り、〝誰かのための魔導書〟なのだ。
自分という形を持たないから、どこかの誰かの願望に寄生して、その存在を確立するしかない無形の神様――彼女は自分を買った少女のいなくなりたいという願望に宿り、彼女と瓜二つの感情を手に入れた。
心の片隅で、いつか誰かのためになりたいと、そう願う少女の思いを。
「どうしますか? このまま本当にいなくなりますか? マスター」
「そうだね、私は――」
三珠の瞳の奥に、1人の男の背中が思い浮かんだ。
とっても大きくて、それなのにどことなく小さな背中を向ける彼は、誰もいなくなった廃墟の村で、それでも諦めてやるものかと、光の差し込まない曇天の空にめがけて、ずっと高く手を伸ばし続けていた。
努力したって成功するとは言い切れないし、特に彼は絶対に報われないと悟っているのに、だけどどうして足を止めないのだろう。
――ああきっと、そうするしかなかったのだ。
人よりスタート地点が少し後ろだった彼は、どうしようもなく他人よりも劣っていた彼は、たとえそれが亀のような鈍足な歩みだったとしても、立ち止まることを自分に許さなかった。
彼にとって誰かより劣っているのは当たり前で、言い訳をしても変わりようのない現実だったから、せめて自分にだけは負けないと息巻いて。だからこそ負け犬はたった1人、敗北の中で他の誰でもない己への勝利を願うのだ。
そんなちょっとだけ先を行く男の背中を見つめ、三珠は決意した。
こんな情けのない自分を友人だと言ってくれた子たちがいる世界で、あの人が一生懸命頑張っても手に入れられなかったものが手に入るのに、ここで三珠が怖気づいて逃げだしては、彼に笑われてしまう。
見せてやろう、彼の志が間違いでなかったことを。
証明して見せよう、こんなお邪魔虫でも誰かのためになれることを。
三珠は銀髪の少女と指を重ね、
「ねえ、あなたは協力してくれるかな?」
「ええ、それがマスターの願いなら、私たちは1つになりましょう」
銀髪の少女が己を差し出してくるが、しかし三珠は拒否をした。
「違うよ。貴女はあなた、私はわたしになるの」
「えっ? どういうことですか?」
「いやだって、あなたは人間になりたかったんでしょう? だったら、私がその最初の一歩を――名前をあなたにあげる」
「名前……それで、私は人間になれるでしょうか?」
「わからない。でも、少なくともあなたはただの神様ではなくなると思う。きっと、これが最初の1項目だよ」
何かいい呼び方はないかな? と言う三珠は、う~ん、と首を捻って考えて、それで1つの名前に思い浮かべた
――アリスィア、真皇教団が摂理の守護者と崇拝する秩序の女神。
魔導書が、この世界アベントゥーラに生きる人々の願いから生まれたのであれば、その名を名乗るに値するはずだ。
「……アリスィア、それが私の名前ですか?」
「流石に安直すぎたかな? ダメ?」
「そうですね、少し女神様扱いはむず痒いです。だから私は――スィアというのはどうでしょう? 人々《かみさま》の願いの欠片ですから、欠けた名前を」
「うん、それいいかも。じゃあ、それでいこう」
「ええ、スィア……スィア……」
目を閉じた銀髪の少女が真っ白に輝き、彼女の身長は128センチくらいの、それこそ三珠が小学1年生だった頃の見た目になる。
幼い日の自分に似た銀髪の少女は、けれど少しだけ三珠とは違う。
「ねえ、ますたー。スィアね、どんなことがあっても、ますたーを守るね」
「うん、よろしくね――スィア」
こつんと、手を組んだ2人の少女は額をすり合わせ、やがて真っ白の部屋は崩壊していく。
目覚めの時間だ、三珠の意識に肉体に戻り、スィアは再び1冊の本になる。
そして少女の瞳に光が差し込んだ。
◇
「三珠姉さま、よかったです! クルシュター助祭が、今お水を取りに行ってくれているので、少し待ってくださいね」
砦の医務室のベッドの上で目を覚ますと、ピスカが魔導書を抱えて座っていた
彼女は心底喜ぶみたいに、瞳に浮かんだ涙を拭って微笑む。
うん、戻ってこれた。実はこれが肉体に戻った天津三珠である自分と、ピスカの初対面だなんて、そんな本当のことは言えないなと思う。
医務室を見渡すと、傷だらけの兵士たちが横たわっていた。
軍医は慌ただしく駆け回り、包帯を巻いた観光客や、四肢の一部を欠損して兵士もいて、彼らは一様に苦しげな息を漏らす。
「大丈夫ですか?」と意識が朦朧とした兵士に軍医は声を掛けたり、「はやくこの人の治療も」と新たな患者は運び込まれたり、医務室は忙しない。
状況は飲みこめている。魔物が攻めてきたというノクト少佐の言葉が、三珠の耳に残っており、目を覚ました自分が、このままベッドを占領するわけにはいかないな、とも思う。今の自分ならば、即戦力に成り得るし、眠ってなんていられない。
三珠が体を起こし始め、ピスカは慌てた。
「だ、ダメです! 三珠姉さま、安静にしてないと!」
「私は大丈夫、それより行かないと」
「行くって、まさか!」
「そう、魔物が来たんでしょう。私も戦いに行く」
「そんな、無茶です! ここはフェレスさんたちに任せましょう。三珠姉さまは戦闘の経験なんて!」
「うん、ないよ。けど、このまま何もしないなんて嫌だから。それにね、勝算がない訳じゃないんだ」
三珠がピスカの抱える魔導書を見ると、それは唐突に少女の懐から飛び立ち、本のページを羽のように羽ばたかせて、自分の肩辺りで飛行する。
『ますたー、起きた?』
「うん、ばっちり。さっそくだけど、手を貸してもらうよ?」
『うん……スィアね、ますたーと一緒に行く」
飛行する魔導書と話し合い、三珠は微笑んでみるが、その光景を目の当たりにしたピスカは、素っ頓狂な声を上げた。
「え、えええええええええええええ! ほ、本が――喋ってます!」
「ピスカちゃん、声大きい」
三珠はピスカの口を塞ぎ、リュックの中にスィアを入れ込むと、「まあ、そうなるよね」と苦笑いを浮かべるが、細かい事情を説明するには、あまりに状況は緊迫していた。
これ以上の犠牲が出るよりも早く、魔物を殲滅しなければいけず、三珠は「行きながら説明するから」とピスカを説得し、彼女を連れだって医務室を出た。
と、医務室の玄関口にいたのがレティであり、
「三珠、どこへ行くのかしら?」
「えっ? ええ? レティちゃん、パパとママはどうしたの?」
「そうです、レティさんも一緒に隠れていないと!」
「大丈夫よ。パパとママは砦の人が安全な場所に連れて行ったし、立派な淑女には困難に立ち向かう度胸が必要だわ」
「違うよ、レティちゃん! そういうことじゃなくって――」
「これでも、レティはかくれんぼには自信があるのよ? こわーい、こわーい魔物さんだって、淑女なレティは見つけられないのだから」
ふふ、と笑って三珠の言葉を遮り、レティは有無を言わさずに砦の通路を走り出し、結局は彼女の身の安全を守るために、三珠とピスカはついて行かなければいけなくなった。遊びではないというのに、困った少女である。三珠はレティの背中を追いかけ、幾重に交差する砦の複雑な通路を進んでいく。




