第一二話:入浴中の黙考(起・末話)
お湯の張った一人分の湯船に腰までつかり、三珠はため息を吐く。
浴室も石造りであり、ちょっとした岩風呂気分を味わえる。
浴室の水栓金具にはハンドルの代わりに、ルビーとサファイヤのような赤と青の結晶石が、ボタン式にはめ込まれていた。
ルビーとサファイアのボタンを同時に押し込むことでお湯が流れ、ルビーのボタンを押し込まなければ、冷水がシャワーから流れ落ちるようだ。
サファイヤが水の魔素結晶というから、ルビーは火の魔素結晶なのだろう。
湯船に満たしたお湯は温かく、体の芯まで沁みてきそうだった。
湯気は浴室室を覆い、湯船につかった三珠の身体はシルエットだけが浮きあがり、お湯から顔を出した胸の谷間に水滴は流れ、少女のみずみずしく滑らかな肌を伝う。三珠は二の腕を触り、肌に沿って手を滑らせた。この世界にお風呂の文化があったのは、三珠としても嬉しい誤算だった。
地球でも古代ローマに大衆浴場の文化はあったから、実はお風呂に入るという行為を、人が本能的に求めているのではないかとすら感じる。
「そういえば、このボタンはなんだろう?」
三珠は湯船の側面に設置された緑色の結晶石が気になった。
風の魔素結晶であるエメラルドを、こんな場所に設置したのはなぜだろう。
ものは試しに、と三珠は緑色のボタンを押し込んでみると、湯船の底から空気の泡が吹き上がってきた。銭湯でいうところの泡風呂のようなものだろう。
泡は三珠の胸や肌を押し上げて弾け、少女の身体をくすぐってきた。
ちょっと気持ちいいかもしれない。
個室の浴室に泡風呂付きなんて、安物のビジネスホテルよりも豪華な宿屋だ。
トイレも浴室正面の別部屋だし、かなり快適な構造だった。
宿屋の一泊料金は四◯◯クリュスだと、フェレスが受付嬢に言われていた。
ここで、三珠はアベントゥーラの物価の傾向を考えてみる。
冒険者用の服が一式一三五◯クリュス。それも安い方の値段だった。戦闘が日常茶飯事の世界だから、丈夫な生地が必要なのかもしれない。
ゴンドラの利用量は一人一五◯クリュスで、夕食の値段は九八クリュスだった。同じものを頼んだから、二人分は一九六クリュスとなるだろう。
それを日本円に換算して、一クリュス一◯円と考えれば、しっくりくるかもしれない。
宿屋の一泊四千円、服は一三八◯◯円、ゴンドラの利用料は一五◯◯円、夕食が一人九八◯円という並びにすれば、三珠的には納得がいく。
うん、でもあくまで目安に過ぎない。
飛空艇の利用料は十万クリュスと聞いたから、日本円で百万円になってしまう。フェレスも金持ちの移動手段と言っていたから、その通りなのかもしれないが、それにしても高すぎではないだろうか。
もう一つ分かったことは、この世界の文明レベルだ。
一部は現代日本の方が勝っている部分もあるが、そこまで文化レベルが低いというわけじゃなく、魔術なんて力が日常にも反映され、その方面に特化させて文明開化していった感じだった。
決して不便ではないが、インターネットや宇宙開発方面の技術はないようだから、娯楽が少ないのはたまに傷だ。インターネットについては何とも言えないが、宇宙開発が進んでいないのは予想ができる。
フェレスの話から推察するに、この世界にはごく稀に転生者や転移者が迷い込んでいたのようで、その記述が残っている節もあった。
ならば、この世界の人間にとって、アベントゥーラの外は多重世界が遍在する高次元空間であり、空の上に無限に広がる宇宙があるとは考えないだろう。
歴史的背景から考えても、アベントゥーラに住む人たち意識は、宇宙にではなく、異界に向くのは自然な流れだった。
下手をすれば、亜空間研究に関しては、地球より進んでいる可能性がある。
まあ、ある意味では四次元世界も宇宙空間も似たようなものかもしれないが。
次に、都市運営について考える。
こちらは多くの人種が入り乱れる世界だから、地方自治体の力が強そうだ。
飛空艇の発着場で会ったレティが淑女を名乗り、俗にいう貴族のような振る舞いをしていたから、王様のような統治者が別の大陸にはいるのかもしれない。
しかし、その統治が周辺都市に及んでいるかと言われれば、オロスの街並みを見る限り、そうでもなさそうなのだ。
エレーミア大陸は共和国方針の政治体制だというから、特に地方自治体の権威が強く、大統領の統治が及んでないだけかもしれないが。
やはり、未知の世界では考察が捗る。
それを楽しいと思う反面、フェレスの言葉が耳に痛かった。
「怒られて当然だよね?」
彼の言うとおり、三珠は楽観視しすぎていたのだろう。
異世界に来れたという喜びで舞い上がり、フェレスが自分を切り捨てるはずがないと、心のどこかで三珠は思い込もうとしていた。
が、帰りたいかと言われれば、やはり三珠の答えはノーなのだ。
あっちの世界に残してきたものがあるのならば、帰還するために躍起になるのだろうが、生憎と三珠に失うものはなさ過ぎた。
そりゃあ、育ててくれた親戚の両親には感謝している。
恩返しをしたいとも思っていたけれど、日本での自分はどうだっただろう。
三珠自身の生活を安定させるのが手一杯で、仕送りをする余裕もない。
それどころか、育ての両親を頼らざる負えないまでに追い込まれていた。
――きっと私は生きていない方がいい。その方がみんなのためだ
そんな暗いことばかりを三珠は考える。きっと三珠は、誰かに必要とされたかったのだろう。そんな自分にはなれなかったから、小説の世界に逃げこんだ。
「私、ほんとに情けない」
変わりたいとは思っている。けれど、やはり三珠はこの世界でも、フェレスに迷惑をかけてしまった。彼の言ったことは、間違いなく正論なのだ。
だとしても、現時点では地球に還る手段もなく、手の打ちようがない。
やはり、体を売って生計を立てるしかないのだろうか。
それは嫌だな、と三珠は思う。
「私だって、初めては……」
好きな人に捧げたい。
それが女の子の幸せだと信じている。乙女チックな妄想をするピュア女子だなんて言われても、そこは三珠も譲れなかった。
「私の最初の人か……フェレスさん、は……違うか。どっちかと言うとお兄ちゃんとか、言い方は悪いかもだけど、お父さんって感じがする」
一瞬だけ、あの無骨な飲んだくれの顔が頭に浮かんだが、三珠は首を振って否定する。
自分もそこまでチョロくはない。
フェレスに人間として好感は持てるが、彼を異性として好きかと言えば、それは違う気がした。
たぶん三珠の感情はひな鳥の刷り込みみたいなもので、あくまで恋愛感情ではなく、親近感を持った知人への依存心や共感に近いものだろう。
それに、初めて三珠に親身になって向き合ってくれたのもあるかもしれない。
自分はずっと、たくさんの人から優しくされてきた。
両親が早くに亡くなり、心を痛めてしまった可哀想な子なのだと、みんなが気を遣ってくれる。けれど、三珠が欲しかったのは優しさじゃなかった。
悪いことをしたら悪いと、そう言ってくれる人なのだ。
「はあ、ちゃんと考えないとな」
三珠を教会に預けられないか、フェレスは掛け合ってくれるという。
それまでに、三珠はこの世界でどうしたいのか、それを決めなければいけない。
口まで湯船に沈めて息を吐き、ぶくぶくと三珠は水面を泡立てる。
「三珠、まだか? 随分と長風呂だが、のぼせてるんじゃないよな?」
「だ、大丈夫! 私のお風呂は長いから!」
「そういうもんか? けど、そろそろ上がってくれ。俺も入りたい」
「わ、わかったから。ちょっと待ってて」
「頼むぞ。流石に疲れたからな、俺も寝たいんだ」
浴室の外からフェレスに呼び掛けられ、三珠は立ち上がる。
濡れた黒髪からは水が滴り、水滴は少女の柔らかい胸を伝い、膨らんだお尻を通って、湯船に落ちて水しぶきを弾いた。湯船をあがった三珠はバスタオルを体に寄せ、浴室の天井を見上げる。
湯気を吸収し、水滴がいくつも浮かんだ石の天井だった。
やがて体を拭いた三珠は寝間着に着替え、フェレスとお風呂を交代する。
異世界に飛ばされた少女が、その胸に一つの課題を抱きつつ、一日目の夜は明けてゆくのだった。




