「折りたたみ傘は護身用」と姉は云う
――ラン、ラララ、ランララ……。
自宅アパートの固定電話がハミングするように着信を報せる。こんな上機嫌な呼びだし音に設定したのは姉だった。それも自らの口で吹き込んだのだから阿呆としか思えない。
――フフフフ、フフフフフン……。
なおも電話は鳴り響く。時刻は午前十時。学生であればとっくに登校して授業を受けている時間なのだが、居間の一角には巨大な蓑虫蒲団が転がっていた。電話の呼びだし音にもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎするものの、顔を出す気配はない。
(すいませんが、いま留守です。ずーっと居留守ですよ)
――イルンダロウ、ワカッテルンダゼ、イルンダロウ……。
姉の凶悪な呼びだし音が響いたのち、やっと留守電に切り替わった。この声が聞こえるということは十回以上呼びだししていることになる。
『はい、雨宮です。ごめんなさい、のっぴきならない事情がありまして電話に出られません。御用の方はメッセージをどうぞー』
録音がはじまって数秒間、沈黙が流れる。やがてスッと息を吸う音が聞こえた。
『あまみやはれひこ。もうすぐタタカイがはじまります。ワタシをたすけにきなさい』
ピー。『あなたのメッセージ、たしかにお預かりしました』。ツー、ツー。
室内にはふたたび静けさが戻る。しかし蓑虫蒲団が動いた。ぼさぼさの頭を出し、ゲームによる徹夜明けの目を眩しそうに細めたのは名指し人であるハレだ。
(いま、なんて云った?)
指先を伸ばして赤く点滅する留守ボタンを押すと、録音されたメッセージが流れた。
『雨宮晴彦。もうすぐ戦いがはじまります。私を助けに来なさい』
発信先は公衆電話。声の主は女性のようだが少し加工されている。
(いたずら? わざわざおれに? 暇な奴がいるんだな)
蓑虫蒲団から這い出したジャージ姿のハレは、埃をかぶった日めくりカレンダーに久しぶりに目をやった。カレンダーの日付は四月五日を示している。
さて現実は、と外を見ると、遠くに見える山の稜線は紅く色づきはじめていた。おかしいな、と首を傾げながらテレビをつけると、セーターを着た気象予報士が映し出された。
『日増しに寒くなってきましたが、皆さん引きこもっていませんか? さて十月五日、本日のお天気をお知らせしまぁす』
世界への復讐。それは実に小心者のハレらしい方法で行われていた。嘘をついて自分の殻にこもる――つまりハレはこの半年高校に行かず引きこもりを続けていたのである。
ハレはふたたびメッセージを聞きながらそっと思った。
(加工されているけど綺麗な発音だよな。……美人、なのかな。顔くらい、見たいな)
……かくしてハレの復讐はいとも簡単に終わった。
「きょうから学校に行く、ですって……ッ」
翌朝、いつもなら眠っているはずの時間に起きてきたハレに少し驚いていた姉は、学校に行く発言に腰を抜かさんばかりに驚き、口を開けたまま動かなくなっていた。
「うん、そう。入学式にも行かずにずっと休んでいたからさ。たまには」
テーブルについたハレは姉特製のナポリタンを食べ進めていた。向かいの席で子犬のようにぷるぷると震えていた姉は、しばらくしてすくっと立ち上がる。
「ボンジュール、ボンジュール、フランスにいるお父さんお母さん聞こえますか? ハレが、ハレがやっと学校に通うんですって。半年前、黒猫が目の前で止まってニヤリと笑って怖いからもう学校行きたくないって泣きべそかいていたハレが……うぇえええん」
「ちょ、姉ちゃんそれ電話じゃないし、ただのリモコンだしッ」
取り乱す姉をなんとかなだめ、残りのナポリタンに手をつけた。
(べつに学校に行きたくなかったわけじゃないんだ。ただ――)
真実の顔を思い出すと、胸が痛くなって苦しかった。それだけだ。
それだけのことだったのだ。
朝食をとり、クローゼットにしまいこんでいた制服に袖を通すと少し窮屈だった。太ったのだ。一番上のボタンがなかなか留まらない。一方で姉は鼻歌を口ずさみながら制服の埃を取り除いている。真っ白なシャツはアイロンでぱりっと糊がきいていた。
「うふふふ、やっと黒猫の恐怖を克服したのね、えらいわ、ハレ」
よしよしと頭を撫でられるハレの胸中は複雑だ。半年も休んでいた学校にいまさら行っても白い目で見られるかもしれない。だけどあの電話の主は気になる。
「あ。ハレったら、ソースついてる」
ハレに比べて頭一つ分背が低い姉は、精いっぱいの爪先立ちをして唇をぬぐうと、その指を当たり前のように自分の口へと運んだ。
「うん、デリシャス。さすがわたし様。ハレはいくつになってもお子サマね」
近くで見ると姉は一層幼く見える。今年社会人二年目を迎えた姉の虹子は二十一歳。その顔立ちは妹かと思われるほどの童顔で、腰まで届くやわらかな髪を稲穂色に染めて桃色の口紅を差していても、子役モデルと間違われる。
「はい。できた」
仕上げとばかりにきゅっとリボンが結ばれる。ぱっと目を惹く真っ赤なリボンがハレの胸元で咲き誇った。ハレはしばらく見入っていたが我に返って叫ぶ。
「――いや、これ違うだろ。うちの制服は男女ともネクタイだし、そもそも女物だし」
「いいのよ、これで。あとこれ護身用ね」
「護身用ッ?」
思わず声が裏返る。聞き捨てならない一言だ。しかし満面の笑顔で差し出されたのは折りたたみ傘だった。見た目は小さな女の子が好むような真ピンクの傘で、当然ハレは嫌がったものの問答無用で握らされた。姉は悲しげに目蓋を伏せる。
「あのね。ハレが学校に通う勇気を出すまで驚かさないようにと黙っていたんだけど」
台所から一枚の紙を持ってくる。このナス丘町内で定期的に発行されている新聞だ。
「この町とハレの学校ね、五ヶ月前に魔女たちに支配されたの。ゴミの分別や公的機関の利用方法が変わっているから、〈魔女支配下における手引き〉の欄よく読んでおいてね」
「……は?」
「読まないと死ぬわよ」
にこやかに微笑む姉に、嘘を云っているような様子はなかった。