55:厄介な王様と呪いが解けた王子様
高価な石を縁に飾った姿見を前にして、アレクシスが纏う衣服の胸元を締めた。黒一色の衣服は深い茶色の髪がよく映えるが、首元を覆う詰襟や同色のボタンで留められた袖口が重苦しさを感じさせる。
作りも布も上質と分かるが、遊び心など欠片もなく華やかさは皆無。
それを纏い、アレクシスはこの服装が嫌だと言わんばかりにうんざりとした表情を浮かべ、袖口の留め具をいじりながら深く溜息を吐いた。
「叔父さん、いい加減この服どうにかならない? 暑いんだけど」
「暑い? それなら謁見終わったら水風呂にでも浸かってこい。ほら、以前は『お湯より水が良い』って言ってただろ」
「あれは呪いのせいだよ!」
「嘘つけ、お前呪いが解けても半年ぐらい水風呂に浸かってただろ。むしろ一年たった今になってようやく水風呂で風邪ひいたし」
「……あれは僕の順応力の高さのせいであって、全体的に見れば呪いのせいだし……。とにかく、誰だってこんな服着てれば暑くもなるさ」
ぶつぶつと文句を言いながらアレクシスが己を見下ろす。
今アレクシスが着ている服は地厚な黒一色の布で仕立てられ、そのうえ首元も手首もきっちりと覆われている。もちろん足元も黒一色で、そのうえ黒い皮のブーツ。となれば暑がるのも無理はない。
そんなアレクシスの訴えを、オルドは右から左に聞き流しながら手元の資料を眺めていた。ちなみに、オルドの服装は華やかで威厳を感じさせ、なおかつとても涼し気である。
それがまたアレクシスには不服でしかないのだが、鏡越しで睨みつけるもオルドの笑みが強まるだけだ。
「良いじゃねぇか、似合ってるぞ。それに、お前のその服は評判が良い」
「評判ねぇ……」
溜息交じりに返し、アレクシスがこれ以上の反論は無駄だと考え肩を竦めた。そうしてオルドと向かい合うようにソファーに腰を下ろす。次いで机の上の資料を一枚手に取り、書きこまれている細かな数字を流し読みした。
国民からの嘆願書だ。王位がオルドに移ってから増えた税に対して減税の申し出、それに細かな訴え。今から国民の代表者が数人王宮を訪れ、この嘆願書をもとにオルドに謁見をする……のだが、どうせ今回も一蹴で終わるのだろうとアレクシスが瞳を細めた。
毎度のことだ。むしろ月一の定例とすら言える。
「お前が後ろに立ってると、あいつらもあっさり引いてくれるからな」
「暴君」
ピシャリとアレクシスが言い切れば、オルドが更に笑みを強めた。
だが現にオルドの言う通り、減税をはじめあれこれと訴える国民もアレクシスの姿を前にすると口を噤んでしまうのだ。それがかつて謂れのない悪評を信じこみ、陰口の果てに追放を望んだ罪悪感からなのは言うまでもない。
とりわけ、謁見の時のアレクシスは決まってこの重苦しい服を纏っている。黒一色、唯一の色といえば胸元に刺繍された赤い家紋。――ちなみに、この家紋は本来あったラウドル家の家紋を剣で貫くというものだ。なんとも趣味の悪いデザインであり、これがオルド提案なのは言うまでもない――
そんな刺繍を胸にし黒を纏うアレクシスの姿は、きっと傍目には喪に服しているように見えるだろう。
むしろそれこそがオルドの狙いなのだ。
黒一色を纏うアレクシスは謁見の場においても一言も発することなく、ただジッと玉座に座るオルドの後ろに佇んでいる。
顔を伏せ、何を言うでもなく、誰とも目を合わせず。その姿は喪に服しているようでいて、そして亡霊のような薄ら寒さを感じさせるだろう。
良き王子だったアレクシスはもう居ない。
蔓延る噂が、誰にも信じられずに過ごした一年間が、囁かれ続けた陰口が、善良な王子を殺してしまったのだ。
後に残されたのは、感情を失った喪服の王子……。
「という考えがやつらにはある。それを利用しない手はないだろ」
「よくそこまで人の罪悪感を煽れるね」
「そりゃ煽れるだけ煽るさ。なにせ俺は『魔女に操られてもなお、甥であるアレクシスを庇った情に厚い叔父』だからな」
得意気に己を語るオルドに、アレクシスがうんざりとした表情で「暴君」と返した。この言葉は本日何度目か……。オルドが玉座を奪ったあの日から一日一回以上言っているので、もしかすると四桁超えているかもしれない。
それでもアレクシスにはこの服を脱ぐ気はなく、せめて今だけはと涼を求めるべく手にしていた資料で己を扇いだ。
その姿には喪に服す様子もなく、もちろん亡霊のような薄ら寒さもない。ただ黒い服を着させられてうんざりしている青年だ。
そもそも、謁見の場でアレクシスが一言も発しないのは、もちろんだが喪に服しているわけでもなければ、噂のように『感情を失った』からでもない。
本音を言えば、どうでも良いからである。
あと足元でコロコロと転がるコンチェッタを眺めたり、足元を擦り抜けるロバートソンと爪先で遊んだりしているからである。
……そしてたまに寝てる。
「この間眠っててちょっとガクッとしたけど、みんな気付かなかったのかな」
「あぁ、あれな。『我々と同席するのも息苦しく、きっと立っているのも辛いのだろう』って勝手に嘆いてたぞ」
「みんな想像力豊かだね」
罪悪感を煽るオルドにもだが、勝手に想像して悲観する国民にも呆れが募り、アレクシスが肩を竦めた。
もっとも、呆れはするものの訂正する気にならないのは、正直なところ申し訳なさそうにする国民を見ると少しだけ気分が晴れるからだ。
全てが魔女のせいだと知ったうえで、あの一年間を許さないと決めた。だからこそ、減税を求め赴くもアレクシスを見るや口を噤む彼等の姿を見ると、少しだけ気分が良くなってしまう。
そもそも、オルドが課した税は糾弾されるほどの重税というわけではない。まっとうに働いていれば払えるもので、もちろん払ったうえで十分な生活を送ることが出来る。
ならばこの嘆願書と謁見は何かと言えば、暴動も起こさなければ過度な支配もしないという、双方の意思表示。一種のパフォーマンスである。
そんな中で彼等の居心地悪そうな態度を見れるのだから、アレクシスの気分が良くなるのも仕方あるまい。
「嫌だな、僕も誰かさんに似て性格が悪くなったかな……」
「あぁ、俺に似てきたな。そこでだアレクシス」
手元の資料を机に放り、オルドがアレクシスを呼ぶ。
いったい何かと見れば、彼の茶色の瞳がジッとアレクシスを見据えてきた。先程までのふざけたものとは違い、こちらの様子を窺う瞳には真剣みさえ感じさせる。
一転したその態度にアレクシスがどうしたのかと彼を見つめて返し、そして何かと問おうとし……、
「お前、俺の養子になるか」
という、オルドの提案に深い茶色の瞳を丸くさせた。
「叔父さんの養子に……? それって」
「あぁ、お前が俺の跡を継げってことだ」
「……今度は何を企んでるの」
「その性格が気に入った」
アレクシスの疑いの視線に、逆にそれこそがと言わんばかりにオルドが楽し気に笑う。
オルド曰く、今までは玉座を得るために跡継ぎは作らずにいた。仮に自分の子への情が湧けば玉座への野心が薄れる可能性もあるし、それに……、
「俺似の息子でも出来てみろ、血で血を洗う争いの勃発だ」
「そんなまさか……とは思えない。確かに叔父さん似の息子が生まれたら大参事だ」
「自分の息子に寝首を掻かれるのはもちろん、息子の寝首を掻くのもさすがに勘弁だからな。争いの火種は作らないに限る」
そう話すオルドの口調は軽く楽しげだが、事実彼には息子も伴侶も居ない。その身分から女性の一人や二人はいるだろうが、それでも正式な相手は選んでいないのだ。
己の野心には不要と考えたのだろう。もしくは、己の野心に巻き込むまいと考えたのか。
どちらにせよ、今のオルドには跡継ぎが居ない。となれば今から作るか、もしくは養子を招くか……となり、アレクシスに声をかけたわけだ。
「ただ、養子にするにも条件があるけどな」
「条件?」
「あぁ、条件が二つ。まず、俺が譲ると決めた時まで王位を待つこと。寝首掻こうなんて思うなよ」
己のことがあったからだろう念を押してくるオルドに、アレクシスが肩を竦めて返した。そもそも養子になると答えてもいないのだ、「待て」と言われてもどう返事をしていいものか分からない。それに、頼まれたってこんな男の寝首を掻こうなんて思えない、というのもある。
そんなアレクシスに、それでもオルドは「もう一つは」と話を続けた。
「自分勝手になれ。昔みたいな良い子ちゃんの優等生で国民第一の王子になんて戻ったら、俺はこの国を潰してでもお前が玉座に座ることを阻止するつもりだ」
思いがけないオルドの発言に、アレクシスが唖然とした表情で彼を見上げた。
今まで良き王子として努め、そして良き王になろうと考えていた。そうなることを願われ、周囲からの期待も感じていた。だからこそ、今まったく逆のことを求められて反応出来ずにいる。
だがオルドはそんなアレクシスに気遣う様子もなく、自論を語る様に「いいか」と話し出した。
「衣食住を十分に整えてやれば、幸せになりたい奴は自分で幸せになる。いくら王とはいえ、そこまで面倒見てやる義理は無い。自分を後回しにして国民の幸せを第一に、なんて考えは反吐が出る」
「……相変わらず言い切るね」
「そもそも、今回の件だってお前が周りの顔色窺ってるのが悪いんだ。謂れのない悪評なら、陰口叩いた奴を全員罰して、出所を探し出して見せしめに殺してやっても良かった。俺なら迷わずそうしてる」
自分だったらと考えたのか、オルドが不満げに語る。
だがなんとも彼らしい手段ではないか。これにはアレクシスも目を丸くさせ、それでもと考えを巡らせた。
確かに、悪評が流れてから自分は必死に周囲に理解を求め、それが叶わないと分かると絶望し、そしてパーシヴァルに助けられて王宮を逃げ出した。
だが仮にオルドが同じ立場であったなら、彼は噂の出所を突き詰めて処罰していただろう。周囲が信じてくれないと察したらさっさと撤退し、そして反旗を翻すのだ。たとえ噂の背後に魔女がいたとしても、この男ならそれぐらいのことはしたに違いない。
そんなオルドが、王位を譲る条件に自分勝手になれと言って寄越す。
それを受け、アレクシスがしばらく悩むように間を置き……、
「とりあえず、保留で」
とだけ答えた。
この返答に今度はオルドが目を丸くさせる。普段は悪戯げな笑みで他人を茶化すこの男にしては珍しい表情だ。
「保留だと?」
「そう、保留。叔父さんの跡を継ぐのも悪くないけど、今はまだやりたいことが色々とあるから」
「王位より優先したいことか。何がしたいんだ」
「色々だよ。他の魔女にも会いに行きたいし、あと魔女殺しも探しに行きたい」
「魔女殺しなんてどうやって見つけるんだ?」
「ある程度目星をつけて、ジーナとモアネットがくしゃみをさせる魔術を放つ。その間に、ロバートソンを頭に乗せた僕とパーシヴァルが走り回って、くしゃみしてない人を見つける」
「なんだその体当たりな絨毯爆撃。待て予定を教えろ、俺も連れて行け」
「働けおっさん」
興味深そうに聞き出そうとしてくるオルドを一蹴して、アレクシスが他にもとやりたいことを上げていく。
上質の馬車を借りてゆっくりと旅をするのも候補の一つである。今までの道程を再び辿るのだ。もちろん宿は一番良い部屋を取り、ルームサービスを頼む。猫の絵を描くのは楽しかったから、今度はちゃんと褒めてくれる人のもとで絵を習うのも悪くない。
試しに「ジーナかモアネットの使い魔になるのも良いかもしれない」と冗談めいてあげれば、これにはオルドに冷ややかに「お前サイズで点滅するのは煩わしいだけだ」と返されてしまった。なるほど、これには納得である。
だがなんにせよ、今まで良き王子として努めていた時間が空いたのだから、出来ることはたくさんある。自分勝手に生きるのなら、王位継承は後回しだ。それにこの暴君はしばらく玉座に座り続けるだろうから、決断まで時間はたっぷりある。
そうアレクシスが話せば、オルドが苦笑と共に頷いた。
「そうだな、好き勝手に生きてみろ。やりたいこと全部やり終えて、それで気が向いたら俺の跡を継げばいい」
「そうさせてもらうよ」
互いに苦笑を浮かべて頷き、次いで時計を見上げてどちらからともなく立ち上がった。
そろそろ謁見の時間である。アレクシスが頬をマッサージするのは、しばらくは表情を固めておく必要があるからだ。欠伸を噛み殺すのはなかなか頬が疲れる。
「今日は謁見と、そのあと近隣諸国のお偉いさんと会食だからな。出来ればジーナかモアネットも同席させたいんだが」
そっちの方が箔が付くと考えているのだろう――事実、オルドは魔女を同席させられる唯一の王として近隣諸国から一目置かれている――どちらを呼ぶかと考えつつオルドが部屋を出て、次いで廊下の先を観て「あれは」と呟いた。
アレクシスがつられて視線をやれば、廊下の先には見知った後ろ姿。噂をすればなんとやら、今しがた話題にしていた魔女の一人である。
「ジーナ、こんなところでどうしたの?」
「あらアレクシス、ご機嫌よう」
アレクシスが声をかけつつ近付けば、ジーナが振り返って優雅に挨拶をしてきた。そんな彼女の目の前には……ふわふわと宙に浮かびつつ眠るコンチェッタ。
点滅には慣れた。だが流石に浮かぶ姿は驚きを隠せず、アレクシスもオルドも目を丸くさせてしまう。もっともジーナは唖然とする男二人が面白いのかクスクスと笑い、挙句に「その表情、そっくりね」と茶化してきた。そんな彼女の手には、レースをあしらった上質の扇子。
「コンチェッタが廊下で寝てたから、クッションまで運んであげてるところよ」
「運ぶって……扇子で扇いで?」
「そうよ。ふかふかのコンチェッタをふかふかのクッションまでふわふわと運ぶのよ」
言葉遊びのように響きの似た言葉を繰り返して話しジーナが扇子を扇げば、その風を受けてコンチェッタが眠ったままふわふわと宙を滑っていく。だがその動きは飛ぶとは言い難い程に緩慢で、どの部屋に向かうのかは定かではないが相当な時間を要するだろう。
だがジーナはその遅さも楽しいのかクスクスと笑いながらコンチェッタを扇いでいる。そんな彼女の名をオルドが呼んだ。
「ジーナ、悪いんだが午後から近隣諸国のお偉いさんとの会食がある。顔を出してくれないか?」
「面倒くさいのは嫌よ。それにコンチェッタの安眠を見守らなきゃ」
「そう言うなって」
「ジーナ、このあいだ美味しいって言ってたワインを出させるよ」
それならどう?とアレクシスが割って入って提案すれば、ワインと聞いたジーナがパッと表情を明るくさせた。そのうえ「あの美味しいワインね」と確認をしてくるあたり、心が揺らいでいるのが目に見えて明らか。
そうしてコンチェッタを眺め、少し悩む素振りを見せる。きっとあとひと押しを求めているのだろう、それを察してアレクシスが「チーズとクラッカーも出すよ」と告げた。
「それは頷かざるを得ないわね。さぁコンチェッタ、方向転換しましょ」
了承の返事をし、ジーナがパタパタとコンチェッタを扇いで進行方向を変える。
どうやら誘いに応じる気にはなったようだが、移動方法を変える気はないらしい。それでも会食の場を目指すつもりなのだろう、ならばこれ以上は何も言うまいとアレクシスとオルドが顔を見合わせ「また後で」とジーナに告げた。
そうして歩き出せば、ジーナの「大変よコンチェッタ、向かい風だわ」という声が背中越しに聞こえてきた。
「間に合うと思うか?」
「微妙なところだね。まぁ、途中で入ってきても良いんじゃない? 浮かぶ猫を運びながら魔女があらわれたら、誰だって驚くだろうし」
「そうだな。魔女らしいかはともかく、人知を越えてて圧巻は出来るな」
それなら良いかとオルドが頷く。そうして彼は「あとはモアネットが居れば……」と呟き、次いでニンマリと口角を上げた。その悪戯げな表情に、そして続く「あっちは放っておいてやろう」というわざとらしい下世話な発言に、アレクシスが肩を竦めて足早に進んだ。
そうして謁見の間に着くと、パンッと一度両頬を叩く。もちろん表情を引き締めるためであり、これから謁見の最中『感情を失った王子』を演じるためである。
そんなアレクシスの足元に、ふわふわと毛玉が三つ程転がってきた。それを見てアレクシスが小さく笑みを零せば、対してオルドが怪訝そうに視線を向けてくる。
「なんだそれ」
「コンチェッタの毛玉。ジーナが遠隔操作の魔術の練習でたまに操ってるんだ。多分、謁見の間に遊び相手になってくれるんだと思う」
「国民の訴えの最中に、悲劇の王子様はこっそり毛玉と遊ぶってわけか」
「半分くらいは話を聞くよ。……いや、半分の半分くらいかな」
その半分かもしれない、とアレクシスがおどけて告げれば、オルドが楽しげに笑う。
そうして足元に転がる毛玉を爪先で突こうとしてヒョイと避けられ、「これは熱中しそうだな」と更に笑みを強めた。時に転がり時に跳ねて、細かに動く毛玉が三つではアレクシスも国民の話を聞く余裕はないだろう。
「俺の跡にはお前が控えてる。この国の奴等も運がないな」
そうオルドが笑えば、アレクシスがニヤリと口角を上げた。
今までの善良な王子様とは思えない悪どい笑みだ。そうして彼は楽しげに瞳を細め、
「そう? これぐらいの不運、どうってことないよ」
と告げ、重苦しい襟元を整えた。




