54:決断の時Ⅴ
響く悲鳴と音に、モアネットの思考を占めていた「良かった」という考えが一気に掻き消されていく。
あとに残るのは体中を巡る血が湧きたつような不快感と、意識もろとも魔術に絡めとられていたことへの薄ら寒さ。どうしてエミリアがオルドの妾になることを「良かった」等と思えたのか……。いや、どうしてかなど考えるまでもない。だからこそ薄ら寒い。
「その女を押さえつけて! 身に着けている装飾品を全て外させなさい!」
とは、薄気味悪くシンと静まった空気を破ったジーナの声。
彼女らしくなく声を荒らげ、周囲に居た騎士達に命じる。それを受けてようやく誰もが我に返り、命じられた騎士達がエミリアを捕縛した。まだ若い少女に対して騎士数人がかりとは事情を知らぬ者が見れば眉を潜めそうな光景だが、それを見るジーナの瞳には同情の色も、ましてや普段の優し気な色も一切無い。冷ややかに厳しくエミリアを睨みつけている。
それどころか、ボタンも光沢があるのなら全て取ってしまえと徹底しているのだ。それに対してエミリアは震えながら己の衣服を見下ろし、胸元を留めるボタンを剣先で切り取られるのを顔色を青ざめさせながら見つめていた。
細かな装飾が施されたボタン。寝間着には勿体無いほどに美しい。それらが剣先で糸を切られ、無造作に地に落ちていった。
「……どういうことだ」
そうエミリアを睨みつけながらオルドが呟く。さすがの彼も今は笑みを浮かべる余裕はないようで、眼光は鋭く眉間に深い皺を寄せている。
あの瞬間、オルドはエミリアを「妾にする」と言った。それも自ら手を差し伸べまでしたのだ。今になって己の行為が信じられず、困惑どころか嫌悪すら感じさせるオルドにモアネットが彼を見上げた。
「エミリアの魔術が発動したんです。オルド様も私も、一瞬にして飲み込まれた」
「だがエミリア本人が拒絶していたんだぞ。全てエミリアの願いが元じゃないのか」
「エミリアの魔術が強すぎて、宿主の意志すらも見限ったんです」
あの瞬間、エミリアは己が仕出かした事の重大さを実感し、そして無抵抗を示した。彼女本人は相応の罰を受ける覚悟があったに違いない。そして同時に『キラキラしたお姫様』で居られなくなることも理解したはずだ。
だがエミリアの魔術が、強すぎるあまりに呪いと化した願いがそれを許さなかった。この場においても呪いはエミリアを『キラキラしたお姫様』にするべく、周囲と、そしてオルドの意識を絡めとったのだ。
もしもパーシヴァルが居なければ、エミリアはオルドの妾になっていただろう。強引な王に令嬢が娶られる、これ自体は有り得ない話ではないのだ。
そしてエミリアは王となった彼の隣で、妾という名の厚遇を与えられたに違いない。
オルドの絢爛豪華な屋敷と権力を誇示する性格を考えるに、たとえ妾であってもエミリアは華やかな生活を送れたはずだ。とりわけモアネットやジーナすら凌駕する魔女なのだから、その点においても大事に扱われただろう。
アレクシスから始まりローデルを経てオルドに辿り着く。情勢が変わるたびに相手を乗り換え、『キラキラしたお姫様』は継続されるのだ。
なんて強い魔術だろうか。エミリアの中に眠る魔女としての素質全てが、彼女を『キラキラしたお姫様』で居続けさせるためだけに働いているのだ。
彼女の後悔も反省も何も考慮せず、宿主の意志すらも踏み台にして……。
「なるほど、自分の願いに見捨てられたか。つまり俺もエミリアの感動的なお姫様ストーリーの登場人物にされたってわけだな。おいアレクシス、お前よりも俺の方が良い役っぽいぞ」
事態を理解して余裕が出てきたのか、オルドが楽しげに笑う。その悪どい笑みは普段通りの彼のもので、茶化すように声を掛けられたアレクシスがうんざりとした表情を浮かべて横目でオルドに視線をやり……そしてふいとそっぽを向いた。無視である。
それどころか王宮から戻ってきたコンチェッタを抱き上げ、逆立った毛を撫でつつ頭に乗っているロバートソンに労いの言葉をかけている。徹底した無視ではないか。
だがその態度もまたアレクシスの調子が戻ったということであり、オルドが口角を上げながら「生意気な甥だ」と楽しげに呟く。
なんとも彼等らしく、そしてこの場にそぐわぬやりとりだ。思わずモアネットが鎧の中で肩を竦め……次いで聞こえてきた咳に兜の中で視線をやった。
騎士達に連れられているエミリアが、胸元を押さえ苦しげに咳き込んでいる。
あぁ、やっぱりそうだったのか……。
と、モアネットが咳き込むエミリアを見て瞳を細めた。
そうして痛みかけた胸を鉄越しに押さえようとした瞬間、「モアネット嬢」と声を掛けられた。見れば、パーシヴァルが剣を鞘に戻しながら小走りにこちらに近寄ってくる。
「モアネット嬢、大丈夫か?」
「……え、えぇ」
窺うように兜を覗き込まれ、モアネットが頷いて返した。
「パーシヴァルさん、助けてくれてありがとうございました」
「いや、礼を言われることじゃない。あの場で動けたのは俺だけだから、当然の行動だ」
「……それだけじゃない。エミリアを切ることも出来たのに、それをしないでくれた」
そうモアネットが礼を告げれば、伝わったのだろうパーシヴァルが小さく頷いた。
あの瞬間、パーシヴァルはエミリアを切り倒すことも出来たのだ。魔女殺しの一撃となれば、いかにエミリアが魔女といえど避ける術はなかっただろう。どれだけ強い魔術で周囲を惑わしても、反射神経は元々培っているものの域を出ないのだ。
とりわけあの瞬間のエミリアは動揺と恐怖でろくに動けなかったのだから、騎士であるパーシヴァルが彼女を切り倒すのは容易だったはず。むしろそちらの方が的確で、そして対象が大きいだけに楽だっただろう。
だが彼はそれをせず、エミリアの胸元にあるネックレスだけを叩き切った。それがどれだけ困難なことか。
だからこそ感謝を示せば、パーシヴァルが苦笑と共に肩を竦め……そしてそっと片手を差し出してきた。何か持っているのだろうか、彼の大きな手は閉じられている。
その手の動きに受け取るよう促されている気がして、モアネットが彼と彼の手を交互に見やった。次いでギシと兜を傾げれば、パーシヴァルがゆっくりと手を開く。その手の中にあるものを見つめ、モアネットが小さく息を呑んだ。
「……あの時、エミリア嬢が身に着けていたものだ」
「これって……」
パーシヴァルの男らしい手の上には、二つに割られたガラス玉が載せられている。無残に欠けてヒビが入っているのは、あの瞬間彼の一撃で叩き割られその衝撃が石全体に走ったのだろう。
可愛らしいピンクのガラス玉だ。だけどその輝きは高価とは言い難く、ちゃちな造りが隠しきれていない。素人目にもたいした値でないことは分かる。いや、高価どころか子供の玩具なのが一目瞭然だ。
到底、王子の婚約者が着けるものではない。それどころか身分はおろかエミリアの年齢を考えても着けるものではなく、幼い子供が喜ぶような代物だ。
そんなネックレスを見つめ、モアネットが微かな声でエミリアの名を呟いた。
このネックレスを覚えている。
まだ幼いころ、療養の地でエミリアが着けていたネックレスだ。
あの時は自分も似たデザインのものを持っていた。二人で買ってもらい、毎日のように身に着けていた。
だがそれももう何年も前のこと。当時自分が着けていたネックレスはどこにやったのか、それどころかどんなネックレスだったのかも覚えていない。療養の地から王都に移る時に持ってきたか、それとも捨ててしまったか……。
身に着けて二人で遊んだ断片的な思い出しか蘇らない、それほど昔のことなのだ。
そんな遠い昔の思い出でしかないネックレスを、エミリアは今もなお身に着けていたというのか。
病弱だったころから身に着け、療養の最中も肌身離さず身に着け、そして健康になり王宮を訪れ『キラキラしたお姫様』になってもなお手放さずにいた……。
呪われているとも知らずに。
そして今、ようやくエミリアは己の呪いから解き放たれた。
騎士達に囲まれ歩かされるエミリアはいまだ咳き込んでおり、それを見てモアネットが瞳を細めた。苦し気に咳き込む姿は、療養の地で過ごした幼いころを思い出させる。
「……それ、私が貰っても良いですか?」
「大丈夫か?」
「もう魔術は感じられません。エミリアの呪いは解かれましたから、大丈夫です」
だから、と受け取ろうとし、モアネットが手甲を差し出しかけ……そして僅かに考えを巡らせたのち、ゆっくりと手甲を外して己の手を外に晒した。ひんやりとした空気が火照った肌に触れるが、さすがに今は心地よさは感じられない。
そうして手を差し出せば、パーシヴァルが驚いたように目を丸くさせた。あれほど肌を晒すことを嫌がっていたモアネットが、周囲に人がいるこの場で手を晒したのだ、彼が驚くのも無理はない。
それでも、せめてこのネックレスの破片だけは自分の手でちゃんと受け取りたい。捕らわれたエミリアの元に駆け寄って彼女を守ることも、オルドに縋って慈悲を請うこともしない、エミリアが無自覚と分かっても裁くと決めた姉のせめてもの情だ。
そう考えてモアネットが待てば、ゆっくりと手のひらにガラス玉が載せられた。
受け取れば軽いはずのガラス玉が妙に重く感じられ、それがまたモアネットの胸を締め付ける。泣きたくなるほどの息苦しさを少しでも和らげようと兜の中で深く息を吐き、そして再びパーシヴァルを見上げた。
碧色の瞳がどうしたのかと案じるように見つめてくる。
「……パーシヴァルさん、手を」
「手? 手がどうした?」
「……手を、握ってくれませんか。貴方の手は、大きくて……触れると、心地よかったから」
だから、とモアネットが呟くように求めれば、パーシヴァルが僅かに瞳を丸くさせ、次いでそっと手を伸ばしてきた。彼の大きな手がゆっくりとモアネットの手に触れ、覆うように包んでいく。
肌から伝うほんの少し高い体温。包まれれば手の中のガラス玉ごと溶けていくような気がして、モアネットが兜の中で深く息を吐き……そして吐き出す息と共に堪えていた涙をこぼした。
『誰が、誰に、いつから、どう呪われていたのか』
全てがねじ曲がって、その歪みに気付けぬまま最悪な今にまで辿り着いてしまったこの事件も、ようやく終わりを迎えたのだ。




