51:決断の時Ⅱ
「エミリア、どうか落ち着いて聞いて」
宥めるように告げられるモアネットの声に、エミリアが困惑を顕に室内に足を踏み入れてくる全身鎧を見つめた。もしもこんな状況で無ければ、姉の訪問を心から喜んで歓喜の声と共に駆け寄ったのに、重苦しい空気がそれを良しとしない。
そのうえエミリアの肩をビクリと震えさせたのは、閉められる扉のほんの隙間から、倒れている警備の姿が見えたからだ。きっとこの部屋を守っていたのだろう。そんな警備を、いったい誰が倒したのか。モアネットと共に誰かここまで来ていたのか、それとも……。
どちらにせよ、この混乱にモアネットが関わっているということ、そして彼女がこの部屋を守る警備を邪魔としているということだ。それを察し、エミリアがか細くモアネットを呼んだ。
「モアネットお姉様、どうして……」
「エミリア、自分が魔女としての自覚は?」
「魔女? 私が?」
何のこと? とエミリアの表情に疑問の色が浮かぶ。
その声色には偽りも誤魔化しの様子も無く、この状況下で何故そんな質問をされるのか、本当に疑問でしか無いと言っているようなものだ。
だがその疑問の通り、エミリアは己が魔女だなどとは露ほども思っていなかった。
確かにアイディラ家は魔女の家系だが、とうの昔に魔女の名も魔術も捨ててしまった。今は社交界に生きる貴族の家系、そこに魔女の魔の字もない。昔のこと過ぎて親族誰一人として話題にすらしないほどだ。
そこをモアネットが家中の本を持ちだし、読み解いて再び魔術を使えるようになったと聞く。
そもそも、その魔術とてエミリアには想像もつかないものだ。他国の魔女を見たことも無ければ、実の姉であるモアネットさえも会いに来ない。魔女に関する記述は家には残されて居らず、あるのは全てが「らしい」で締められる伝聞と噂話。
エミリアにとって魔術とはその程度のもの。
そして魔術を学ぶ時間があるのなら、美しい振る舞いやマナーを学ばなくては、そう考えていたのだ。
そんな中で、いったいどうして己が魔女だなどと考えられるのか。
そうエミリアが訴える。
声は震え、それどころか押さえようとしても微かに手まで震え出す。
それに気付いたのか、ローデルが庇うようにエミリアの前に腕を伸ばした。エミリアを支えるためであり、そして何があっても守れるようにと考えたのだろう。彼の瞳には強い警戒の色が宿っている。
お姉様が私に危害を加えるわけがないのに……と、そう思えどもこの場においてローデルの存在が心強くも思え、エミリアが彼の名を呼んだ。警戒を強めた彼の表情は険しく、それでもチラとこちらを横目で見るときは僅かながらに微笑んでくれる。
「モアネット、エミリアを惑わして何がしたいんですか」
「惑わすなんて、私は」
「貴女の目的はいったい何ですか? 兄を恨んで王族を敵視するならまだしも、なぜよりによってあの二人と……」
かつてモアネットに暴言を吐き婚約を破棄したアレクシスと、反逆の危険因子として王家を追い出されたオルド。モアネットが組むとは到底思えない人選である。
それに対してのモアネットの返答は、きっぱりとした「オルド様とは成り行き上」というものだった。――その瞬間、屋敷の王室に居たオルドが盛大にくしゃみをし、良からぬことを言ったのではないかとジロリと傍らに立つ人物を睨みつけた。この部屋からそう遠くない場所である――
だが次いで、こちらは随分と真剣みを帯びた声で「アレクシス様は……」と続く。
「そもそも、あの暴言自体が彼の本心じゃない」
「……モアネットお姉様、それはどういうこと?」
「全てはエミリアの魔術が……貴女がやったことだから」
そうきっぱりと告げるモアネットの言葉に、エミリアが息を呑んだ。
だがそれに対してローデルが待ったを掛ける。なんて事を言うのかと、彼の言葉にはモアネットを責めるような色さえ見えた。
いや、実際に責めているのだろう。こんな一刻を争う状況で、かつてのアレクシスの暴言をエミリアの責任にしようとしているのだ。彼が怒るのも無理もなく、兜越しでは中が見えないと分かっていても威圧的に睨みつけている。
そんなローデルに対して、それでも全てを打ち明けるモアネットの声色はひどく淡々としていた。
まるで事実だけを述べようと努めているかのように。己の感情を無理に押し隠すかのように。
初めから、そして今この瞬間に至るまで。
『エミリア・アイディラの魔術が引き起こした』全てを語っていく。
その話は衝撃どころではなく、エミリアが己の中で血の気が引くのを感じ取った。心臓が痛み、手足が冷たく痺れるような感覚が伝う。
「そんな、私……だって、私はお姉様の代わりに……」
モアネットが醜いと罵られたから。
モアネットが婚約を破棄されたから。
だから代わりにアレクシスと婚約し、そしてアレクシスが失脚した今はローデルと共に居る。
そう告げるエミリアの声が震える。
次いで彼女が自らを見下ろしたのは、上質の寝間着を纏う自分を省みたからだ。さすがに宝石までは飾られていないが、質の良い布に細やかなレースがあしらわれた寝間着は、就寝時のみに着るには惜しい品だ。
本来であれば、起きてこれを脱ぎ、そして華やかなワンピースを纏う予定だった。花の刺繍が飾られた豪華なワンピース、それに大きめの宝石が着いたネックレスを合わせよう、そう考えていたのだ。
今日の予定は何だったか……そうだ、来月のパーティーの為にドレスとアクセサリーを新調するからデザイナーと話をするはずだった。その後はお茶をして、それが終わったら新しいドレスに着替えてローデルと共に招待されていた夜会に行く予定だった。
華やかで上質の寝間着から豪華なワンピースに着替え、そしてドレスを纏いパーティーへ……。
確かにこれはかつて焦がれた生活。
まさに『キラキラしたお姫様』。
「でも、だって、アレクシス様がお姉様を……」
「アレクシス様が私を醜いと罵った。だけどエミリア、本当に私は醜かった?」
「……え?」
「私達は誰よりそばに居た。ねぇエミリア、私の顔を思い出せる?」
尋ねられ、エミリアがいったい何の話かと問おうとし……その表情を歪ませた。
「……思い出せない。どうして、お姉様の顔が……あんなに一緒に居たのに、過ごした事は思い出せるのに」
思い出そうとしてもまるで抜け落ちてしまったかのように、記憶の中のモアネットの顔だけが靄がかる。
あの日が来るまではいつも一緒にいたのに。寝るときは並ぶベッドで互いに顔を合わせ「おやすみ」と言い、起きるといつも「もうお昼になるよ」と苦笑を漏らすモアネットの顔があったのに。
一日の始まりに見るのはモアネットで、そして一日の終わりに見るのもまた彼女の顔だったのに。
誰より、それこそ鏡に映る己の顔より、彼女の顔を見ていたのに。
なのに思い出せない。
声も、共に過ごしたことも、共に描いた絵さえも思い出せるのに。
モアネットの顔だけが、本当に醜かったのかさえも、その一点だけ思考が靄がかって思い出せない。
「お姉様、私……」
「エミリア、貴女は私を心配してくれたけど、一度も『醜くない』とも『どこが醜いか』も言ってくれなかったね」
「……それは、なんで、私」
「それが魔女の魔術だから」
『全ては、エミリア・アイディラがキラキラしたお姫様になるために。
全ては、エミリア・アイディラがキラキラしたお姫様で居続けるために』
そう結論付けるモアネットの声に、エミリアが縋るように視線をやった。浅い呼吸しか出来ず苦しい、心臓が何かに絡め取られ締め付けれているかのように痛む。
『いったい何の話を』という考えが『もしかしたら』と変わり、今は過去のことがまるで肯定するかのように脳裏に蘇っては心臓を締め付け消えていく。
確かに、思い返せば一度も『醜くなどない』とは言わなかった。モアネットを励まし慰め、彼女が古城に篭ってからも気を使っていた。手紙も絶えず送っていたのに。
何故か? 分からない。心から姉を案じ、また共に過ごしたいと思っていたのに。
エミリアだけではない。誰一人としてモアネットにその言葉を掛けてやらなかった。それどころか、家族さえも古城に籠る彼女を連れ戻そうとはしなかった。
傷ついているならその傷が癒えるまでそっとしておこう、そう考えたのだ。
だけど不思議な話ではないか、両親はけして愛情の欠けた人物ではない。それどころか惜しみない愛を注いでくれた。
本来であれば、モアネットを慰め連れ戻そうとするはずではないか。そっとしておくにしても、護衛もつけずに森の中の古城で過ごさせるなどおかしな話どころではない。
アレクシスの事もそうだ。
本当に彼は噂の通りの人物だったのだろうか?
優しい人だった。尊敬できる人物だった。
勤勉家で、姉への暴言こそあったがエミリアは確かにアレクシスを尊敬し慕っていた。彼の正体が暴かれる直前まで、彼を支えられるような女性になりたいと思っていたほどだ。
だけど思い返せば、何故あれほど優しいアレクシスがモアネットに暴言を吐いたのか。
あれほど国と国民を愛していた彼が、不貞を働き国費を使い込むとは思えない。
改めて突きつけられれば、確かに全てが歪に綻んでいる。
そして何より大きな歪みになってエミリアの脳裏に浮かぶのは、何故、今の今までどれ一つとして違和感を覚えなかったのかという疑問。
そしてその答えは、
「私が……キラキラしたお姫様になるために……」
そうポツリとエミリアが呟けば、目の前の全身鎧がギジリと兜を頷かせた。
「……ずっとお祈りしてた。毎晩おまじないをしてた。それが、私の魔術。私がお姉様を、アレクシス様を……」
「エミリア、一緒にオルド様のところに行こう。今までみたいな贅沢は出来ないけど、オルド様には私から話をするから」
「オルド様に……」
エミリアの声に躊躇いの色が混ざる。
胸中は未だ事実を受け入れきれぬ困惑と、そしてモアネットへの罪悪感と、今の今まで己の傲慢な願いに気付きもせずに暮らしていたことへの後悔。そしてこれから己が辿る道への不安と、なにより自分という魔女への恐怖。
全てが綯い交ぜになり息苦しさを覚える。そんな中、ギシと軋む音と共に差し出された銀色の手甲に顔を上げた。
「モアネットお姉様……」
「大丈夫だから、エミリア。一緒に」
行こう、と言いかけたモアネットの言葉が止まる。
遮ったのはローデル。彼は僅かに上がりかけたエミリアの手を制するように押さえ、彼女を一歩下がらせた。
その表情には警戒を通りこし敵意の色さえ浮かび、彼のこんな表情を見たことがないとエミリアが身を強張らせた。
「ローデル様、私はお姉様と……」
「駄目だエミリア。行って何になる。彼女の話は全て嘘かもしれない」
「お姉様は私に嘘なんかつきません。それに、私分かったんです……全部私のせい」
だから行かなくてはとエミリア訴える。そうしてローデルの制止を押し切り、モアネットの言葉に応えるように自らも手を伸ばした。銀の手甲が招くように揺れる。
そうして、白く美しい手と、銀一色の手甲が重なろうとした瞬間……、
「全て魔女のせいだとして、今更それが何になる!!」
という怒声と共に、ローデルがエミリアの腕を強引に掴んで引き寄せた。
その瞬間に上がった高い悲鳴はエミリアのものだ。すんでのところで姉から引き離され、驚愕と共にローデルに視線を向ける。だが次の瞬間にエミリアが瞳を丸くさせたのは、普段は優しく微笑んでくれた彼の表情が今は敵意を露わに歪んで見えたからだ。
これほどまでに冷たい表情の彼を見たことがない。恐怖が湧きあがり、掴まれた腕が痛みを訴える。
「ローデル様、離して……」
エミリアが躊躇いの声色でローデルを呼ぶ。それに続くのは制止するモアネットの声。
だがそれすらもローデルの耳には届いていないようで、彼はまるでモアネットが邪魔だと言わんばかりに睨みつけ、それどころか駆けだすと共に殴りつけるかのような勢いで拳を振りかぶった。その手に握られているのは鋭利な短刀。
護身用に持たされていたのだろう。その刃先だけでは全身鎧には勝てないと考えたか、己の体をぶつけるように勢いをつけて叩き付けた。
刃と鉄がぶつかり合う響く甲高い音が響き、次いでグラリと揺れたのは銀一色の全身鎧。押し負けたか、それとも鋭利な刃が中にまで届いたか……。
次いでガシャンと響く音と崩れる鎧の光景に、エミリアがたまらず悲鳴をあげた。
「モアネットお姉様!」
「エミリア、こっちだ。俺と来るんだ!」
強引に腕を掴んだまま、室内を一瞥することもなくローデルが部屋を飛び出す。腕を掴まれたエミリアはしきりにモアネットの名を呼ぶが、動揺の中ではローデルに抗うことも出来ず、彼にさらわれるように部屋を出て行った。
それでも最後までモアネットの名を呼び、腕を引かれても振り返る。
最後に見えたのは、床に倒れる銀一色の鎧と……転がる兜から出てくる一匹の蜘蛛だった。




