37:魔女と魔女のもの
「どうかお願いです。モアネットお姉様に酷いことをなさらないでください……!」
悲痛とさえ言える声色で懇願するエミリアに、誰より先に彼女に手を差し伸べたのは婚約者であるアレクシス……ではなく、義弟でしかないはずの第二王子ローデル。
彼はエミリアを己の隣に来させると、宥めるためにその腕を擦ってやった。それどころか不安がるエミリアを支えるように腰に手を添え、二人の距離は僅かどころか、ぴったりと寄り添っている。
ローデルもまたアレクシスに劣らぬ見目の良さで、そんな彼と華やかなドレスに身を包むエミリアが寄り添い並ぶ姿はまるで仲睦まじい若夫婦のようではないか。
……いや、事実すでに夫婦同然なのだろう。本来の立場であれば許されぬ近さで寄り添いあう二人を、両陛下は見守るだけで咎めようともしない。
「お願いです、ローデル様。どうか……」
そうローデルに縋りつくように乞い、そしてエミリアが胸元に手を添えた。
祈る様に両手で包むのは首から下げたネックレス、きっとそこで揺れていたペンダントトップを握りしめているのだろう。
その瞬間モアネットの腰元がゾワリとざわついた。何とも言い難い微振動が鎧を伝い、全身が総毛立つような感覚が走る。
モアネットが原因を探る様に己の腰元に視線をやれば、そこにあるのは見慣れたポーチ。中には魔術に使う羊皮紙やペンが入っている。
それに……と、中に入れたものを思い出した瞬間、エミリアを宥めるように肩を擦っていたローデルが「モアネット」と名を呼んできた。
「エミリアは貴女を慕っています。どうか彼女のそばに居てやってくれませんか?」
「……私が?」
「エミリアは少し子供っぽいところがあります。どうか貴女が隣に立って、立派な王女になれるよう支えてはくれないでしょうか」
提案してくるローデルの口調は、エミリアだけではなく自分達を……と言っているように聞こえる。それどころかエミリアにチラと視線をやると愛でるように瞳を細め、微かに表情を和らげた。
まるでエミリアが王女になる姿を……自分の伴侶として王女になる日を思い描いているようではないか。
そんな分かりやすい二人の姿をモアネットがぼんやりと眺めれば、願うようにこちらを見つめてくるエミリアと視線が合った。普段は愛らしく輝いている瞳が今は切なげな色を宿している。
可愛い妹のそんな表情は鎧の中の胸を痛めさせ、モアネットが兜の中で小さく溜息をつくと共に口を開き……、
ポトン、
と頭に、もとい兜に何かが落ちてきたことで出掛けた言葉を飲み込んだ。
エミリアが小さく悲鳴をあげる。それどころか王妃もまた息を呑むような高い声を微かにもらし、囲んでいた騎士達がギョッとした表情で目を見張った。
だが生憎と兜を被っているモアネットには自分の頭上に何が落ちたのか分からない。だからこそいったい何だと手甲を伸ばそうとし……ツツと眼前に下がってきた蜘蛛の姿に親友の名を呼んだ。
「ロバートソン」
毛の生えた八本の足、ふっくらとしたお腹とお尻。紛れもない、古城の留守を頼んでいるロバートソンだ。
まさに蜘蛛といったその姿にモアネットが兜の中で瞳を輝かせれば、彼は糸を辿る様にゆっくりと下りてモアネットの腕の中にいるコンチェッタの頭に乗った。
ふかふかのコンチェッタの頭に、まるで飾りのようにロバートソンが乗る……。その組み合わせは至高としか言いようが無く、思わずモアネットの口から「堪らない」と恍惚の声が漏れる。
それと同時にロバートソンに小さく感謝を告げるのは、あの瞬間、ローデルの提案に承諾の言葉を返しかけていたからだ。
まったく、なんて愛らしくて手のかかる妹だろうか。仕方ない、私がそばに居てやろう……。
と、なんでそんなことを思ったのか、冷静になった今では理由が分からない。……わけではない、理由は分かる。分かるからこそ、モアネットはローデルに寄り添うエミリアに視線をやった。
「庇ってくれて悪いけど、私はエミリアのそばには居られないよ」
「そんな、お姉様……どうして」
「だって私は魔女だから」
魔女は気まぐれ。いかに王族の提案といえど命令と言えど、そして可愛い妹の願いといえど、気分がのらなければ頷かない。
だから今はっきりと拒否をするのだ。
「私は今、アレクシス様の呪いを解きたい気分なの」
そうモアネットが告げれば、エミリアが悲痛そうな表情を浮かべ、対して彼女の隣に立つローデルや両陛下が怪訝そうに眉間に皺を寄せた。きっと『魔女』という不穏な単語に反応したのだろう。
元より魔女だ呪いだとアレクシスとパーシヴァルが……不貞の果てに国費で遊び歩いた王子とその共犯者が騒いでいたのだ、その単語に良い覚えがないのは当然である。
訝しげにこちらを凝視しローデルがエミリアを庇うように彼女の前に腕を伸ばし、周囲の騎士が警戒の色を強める。
注がれるその視線は鎧を貫き、まるで全身に突き刺さるようではないか。モアネットが額に汗が伝うのを感じ、視線を逸らし後退ろうとして……ジーナに名を呼ばれて咄嗟に顔を上げた。
見れば彼女は愛でるような優しい瞳でこちらを見つめ、それでもどこか厳しさを感じさせる口調で、
「コンチェッタとロバートソンを預かるわ、新米魔女さん」
と告げてきた。
言わずもがな、モアネットに魔女として振る舞えと言っているのだ。
それを察してモアネットが頷き、コンチェッタとその頭に乗ったロバートソンを彼女に渡した。その際に「可愛くなったわね」とコンチェッタに話しかけるのは、きっと頭に乗ったロバートソンのことも愛でているのだろう。
そんな一人と二匹を横目に見て、次いでモアネットはアレクシスとパーシヴァルに視線をやった。取り押さえられた彼等の表情は今までにないほどの絶望を漂わせており、それを見ればモアネットの胸の内に靄が湧く。
その靄に命じられるようにポーチへと手を伸ばし、中からペンと羊皮紙を取り出した。泥濘に手を突っ込んだような不快感を覚えたのは、きっといまだエミリアが胸元で手を組んで祈り続けているからだ。
「おい、何をしている!」
そう声を荒らげ、一人の騎士がモアネットの腕を掴んだ。
もっとも腕と言えど鉄の鎧だ。掴まれたところで痛みも何もないが、それでも反動で羊皮紙がハラリと床に落ちる。
「おいやめろ! モアネット嬢に触るな!」
とは、咄嗟にあがったパーシヴァルの声。
見れば数人に取り押されている彼は、それでも身を捩りながらもこちらを案じてくる。この状況下、どう考えても自分の方が大変な目にあっているのに。
その光景に、モアネットの胸の内が再びざわついた。
彼を呪うのは私だ……。
そんな言葉を心の中で呟き、モアネットが己の腕を掴む騎士の手を強引に払った。
だがさすが日々鍛えている騎士だけあり、臆することなくそれどころか振り払われるや素早く腰に下げている剣を引き抜いて頭上に掲げた。
鋭利な刃を前にし、モアネットが咄嗟に目を瞑る。
だが予想していた衝撃は続かず、恐る恐る瞳をあげ……次いでその瞳を見開いた。
目の前で金の髪が揺れる。広い背中が見える。振り上げられた騎士の腕を掴むのは……。
「パーシヴァルさん……」
モアネットがその名を呼ぶも、彼は振り返ることも答えることもしない。
いくらパーシヴァルが鍛えられた騎士とはいえ、彼が押さえているのもまた同じ騎士だ。とりわけ今の彼は羽交い絞めにされた状況から振り切って来たのだから、押さえる腕力にも限界があるだろう。現に彼の腕が震えている。
「パーシヴァル、お前なに考えてるんだ。どうしてあんな王子につく……!」
そう騎士が問うあたり、きっと顔見知りなのだろう。もしかしたら親しい仲だったのかもしれない。もとよりパーシヴァルは騎士として勤めていたのだ、この場には共に日々を過ごした仲間が居てもおかしくない。
掛けられる言葉にパーシヴァルがどんな表情を浮かべたかは分からない。それでも「騎士の忠誠心はどうした」という言葉に、彼の腕に力が込められたのが分かった。
「事実から目を背け、疑いもせずに王子を蔑む愚行が騎士の忠誠心というのなら、俺は喜んで騎士の称号を捨てる!」
吠えるようなパーシヴァルの言葉に、対峙する騎士が一瞬目を見開き……次いで険しい表情で彼を睨みつけた。
それどころか更に一人がパーシヴァルを取り押さえようと現れればパーシヴァルにとって不利でしかなく、彼の体がぐらりと揺れる。その隙をついて、押さえられていた騎士が腕を振り払い、まるでこれが返事だと言わんばかりに剣の柄でパーシヴァルを殴打した。
低い打撃の音が響く。それに続くのはパーシヴァルの呻き声。それでも彼は退くことは無く、モアネットを庇うために立ち続けている。
その背に、そして今度はパーシヴァルに狙いを定めて振り下ろさんと掲げられる剣の刃に、モアネットの思考か一瞬にして熱を持った。
彼を呪うのは私だ。
私以外が傷つけるなんて許さない。
「私のものに手を出すな!」
声を荒らげると共にモアネットが右の手甲を外し、手にしていたペンを羊皮紙に……ではなく、己の掌に突き付けた。
ブツと音がしてペン先が皮膚を破く。一瞬にして熱に似た痛みが走るが、それでも手を止めずに強引にペンを引くと共に肌を引き裂いた。
「アレクシス!」
と捕らわれた王子の名を呼ぶのはジーナの声。
彼女はモアネットの行動を見るや腕に抱えていたコンチェッタをアレクシスに向けて放った。コンチェッタもまた主の行動の意図を察したのか、頭上のロバートソンと共に眩く光るとアレクシスの体に飛びかかる様に張り付いた。それとほぼ同時に、
『平伏せ』
と、モアネットの声が周囲に響く。
次の瞬間その声に被さる様に誰もが呻き声をあげ、まるで何かに伸し掛かられたように地に臥せった。王も、王妃も、もちろんローデルもエミリアさえも……。
咄嗟のことながら起き上がろうと藻掻く者もいるが、顔を上げるのが精一杯だと言いたげに表情が歪む。手足を動かすこともままならず、指先で床を掻く者が大半だ。
その圧巻とさえ言える光景の中で立っている者はと言えば、右手から血を垂らし荒い息を兜の中で繰り返すモアネットと、状況を把握することも出来ないと呆然とするアレクシス、そして満足そうに周囲を見回すジーナと……いったい何が起こったのかと突然地に臥せった騎士達に視線をやるパーシヴァル。
呻き声だけが続き誰一人として的確な言葉を発せられない中、モアネットが慌てて手甲を嵌め直した。
我に返ると途端にジリジリと掌が痛みだすが、それを気にしている場合ではない。
「行きましょう。とにかくここから逃げなきゃ!」
「そうね。ひとまず別の場所に行きましょうか。パーシヴァル、あんた立っていられるんだから、アレクシスを連れてきてちょうだい」
「……は、はい。王子、今はまず退きましょう」
ジーナに命じられ、パーシヴァルが慌ててアレクシスのもとへと駆け寄る。アレクシスは伏せこそしないが足元が覚束ないのだろう、パーシヴァルの肩を借りてようやく歩けるといったところだ。
コンチェッタが彼の腕からヒラリと下りてまるで先導するように前を走っていく。その頭にはロバートソン、ぽわぽわと光る二匹はまるで誘導灯のようだ。
そんな二匹を先頭に、モアネットは足早に部屋を後にした。……微かに聞こえてきたエミリアの声は無視をして。




