34:護衛騎士の落下音Ⅰ
国境を越えた瞬間こそアレクシスの表情に影がさしたが、それを見逃さなかったジーナが間髪入れず彼の口にパンを詰め込み、次いでコンチェッタが齧りついた。
そのコンビネーションの見事なことといったらない。思わずモアネットもパーシヴァルも唖然としてしまい、国内に戻ってきたことによる緊張もどこへやらだ。
そうして更に馬車を走らせ、日付が変わる少し前に小さいながらも宿に着くことができた。元々は馬車の中で一晩過ごす予定であったが、馭者が気を利かしてくれたのだという。
いくら広く豪華な造りといえど馬車はあくまで馬車、ベッドに体を預けての休息とどちらが良いかと聞かれれば断然後者だ。それに宿となれば入浴が出来るし、食事も落ち着いてとれる。
良かったと安堵と共に馭者に感謝し、宿へと向かった。……のだが、
「一部屋しかない?」
とは、宿のカウンターで店主と話すパーシヴァル。
その声を聞きつつモアネットが帳簿を覗き込めば、そこにはギッシリと名前が書き連ねられているではないか。これが今夜の宿泊客というのなら、なるほど一部屋しか余っていないのも頷ける。それどころか、よく一部屋残っていたものだと思えてしまうくらいだ。
だが聞けば本来は満室だったらしく、今日になって一室キャンセルが入ったのだという。その部屋は大きなベッドが二つあり、四人でも余裕で眠ることが出来る……そう話す店主は中々に必至だ。
更には素泊まりの宿泊料で夜食と朝食まで用意すると言い出すのだ。この稼ぎ時に一室空けることが許せないのだろう。商魂魂ここに極まれり。
「元々四人客が泊まるために取っていた部屋らしいんだが……」
そう窺うように話すパーシヴァルに、モアネットが馬車で泊まるよりはマシだと頷いて返した。ジーナも肩を竦め、まさに「渋々承知した」と言いたげな様子ながらも同意を示している。
モアネットとジーナのこの反応にアレクシスとパーシヴァルの表情に僅かながらに安堵が浮かぶのは、仮にどちらか一人でも「異性と同室なんて」と反対した場合、男二人は馬車で一泊になるからだ。
それを免れたとでも思っているのだろうか、安堵を交えたパーシヴァルの吐息に、察したモアネットが兜の中でニヤリと口角を上げた。
「やっぱり男性と同じ部屋なんて嫌です! パーシヴァルさんは馬車で寝てください!」
「モアネット嬢、今兜の中でこれでもかと笑ってるだろ……」
「パーシヴァルさん、さっさと馬車に戻ってください。傾斜がきついから寝る時は気をつけてくださいね」
「……屋根か。まさかここで一泊目の報復を受けるとはな」
ギロリと睨み付けてくるパーシヴァルにモアネットが兜の中で更に笑みを強め、久々に心の中で祝砲をあげた。
だがもちろん全て冗談だ。さすがに自分達はベッドで寝て、彼等には馬車で眠ることを強いる……等というのは気が引ける。それに、そもそも馬車で交代で眠っていたのだ、異性と同室云々と拘るのは今更な話。
だからこそ、
「豪華な馬車の屋根は、きっと寝心地も良いですよ」
と追い打ちをかけてやれば、パーシヴァルが更に悔しそうに睨んできた。
彼の眼光の鋭さに威圧感を覚えていたのは以前の事、今はむしろ彼が睨むほどモアネットの優越感が増していく。
兜の中でニンマリと笑えば、きっとそれを空気で察したのだろうパーシヴァルが忌々し気に、
「……寝ぼけてやる」
と呟いた。
「それ脅しに使うのはどうかと思いますよ!」
「脅し? なんのことだか。今夜はちょっと普段より眠くなりそうだなと思っただけだ」
「眠くなりそうならさっさと寝てください!」
不敵に笑う――その笑みがどことなく自虐めいているあたり、かなり心苦しい開き直りなのだろう――パーシヴァルに、モアネットが「ヴー」と兜の中で唸りながら睨み付けて返した。もちろん兜の中では意味が無いのだが、それでもだ。
そんな二人に対してアレクシスとジーナはと言えば、同類と思われたくないと距離を取りつつ眺め、その果てにどちらからともなく肩を竦め二人を置いて部屋へと向かった。
夜食を手早く済ませて順に入浴を澄ませ……と、明日の出発も早いと急くように用を済ませる。
そうして後は寝るだけとなり、モアネットが並ぶ二つのベッドの片方に腰掛けてふわと兜の中で欠伸をした。
店主の言う通り、部屋には大きめのベッドが二つ設けられている。大人が二人横になっても優に眠れるサイズであり、これは四人部屋とさえ言えるだろう。
そこに眠るとなれば、組み合わせなど考えるまでもない。
「モアネット、私達はこっちのベッドで寝ましょうね」
抱き着くように撫でてくるジーナに、モアネットが彼女を見上げてコクンと兜ごと頷いた。言わずもがな、彼女は自分と眠る気なのだ。
それを踏まえて「……寝相、大丈夫よね?」と聞いてくるのは、全身鎧のモアネットの寝相が悪い場合、悲惨な目に合うと案じているのだろう。
それに対してモアネットが小さく笑いながら大丈夫だと彼女を宥めれば、安心したジーナがギュッと抱き着き、それどころか魅惑的にウィンクをして「子守唄を歌ってあげる」とまで言ってきた。
野太い声で。ジーナも早く寝なくてはと丁重にお断りしたが、どんな子守唄になるのか些か気になるところである。
そうして明日の起床時間を決め、誰からともなく布団に入る。
これといって盛り上がることもなく静かな時間が流れ……、
「あっつぅ……」
と呟いたのはジーナ。
掛けていた布団からゆっくりと這い出て、はたはたと己を扇ぐ。
谷に構えた屋敷と比べこの土地と宿は湿度も温度も高く、そのうえ厚めの布団を掛けていたせいで背中にうっすらと汗がにじんでいる。
シャワーを浴びようかしら……と、そこまで考え、ふと隣に眠るモアネットに視線をやった。
就寝時といえど他人が居る以上は鎧を脱がないと言い張り、結果的に彼女は全身鎧のまま布団に入ってしまった。最初こそ「寝にくい」と文句を言っていたが、それでも今はなんとか眠りにつけたのだろう、ジーナが起き上がっても続くことも声を掛けてくることもない。
そんなモアネットにそっと手を伸ばし、鉄で覆われた兜を撫でた。
「モアネット、私ちょっとシャワーを浴びてくるわ」
「……ん……はい」
「私に構わず寝ててちょうだいね」
そう告げてベッドから下りて浴室へと向かえば、きっとこの蒸し暑さにやられたのだろうコンチェッタもまたアレクシスの胸元から下りて、ノスノスと続くように浴室へと着いてきた。
コンチェッタも一緒ならば浴槽にぬるま湯でも張ろうかしら、そんなことを考えつつジーナがコンチェッタを抱き上げ……そして汗で毛が張り付く感触に眉を潜めてそっと床に下ろした。
それから更に十分後、モアネットが眠るベッドの隣でムクと徐に起き上がる影……パーシヴァルである。
寝ぼけ眼で数度頭を掻き、次いでゆっくりとベッドから下りる。部屋の明かりも点けずに机の上に無造作に置いてあったコップを手に取り、グイと豪快に飲み干した。
そうして再びベッドに戻ろうとし……「モアネット嬢」と呟いて隣のベッドへと向かった。眠るモアネットの横に寄り添い、布団の上から優しく叩く。
ジーナに起こされはしたものの再び眠りについていたモアネットも、これにはうっすらと意識を覚まし……そして「ヴー」と寝ぼけ眼で唸った。
「モアネット嬢、一部屋しか取れなくてすまない」
「……次はパーシヴァルさんか」
「一番いい部屋どころか、このざまだ。せめて貴女が鎧を脱げるように一部屋別に用意出来ればよかった。鎧を纏っていてはろくに眠れないだろう」
「……今の今まで寝てたんですけど」
「明日は馬車の中で寝る時間も無いだろう、出来ればぐっすりと眠ってほしいんだが」
「……なんで……なんで、みんな寝てろとか言うわりに私を起こすんですか」
ぶつぶつと文句を言うモアネットに対し、相変わらずパーシヴァルは優しく叩いて寝かし付けようとしてくる。
構わず寝てろだのぐっすりと眠ってほしいだの、その割には行動が真逆ではないか。
思わずモアネットが眠さから再び唸り、それでも微睡む意識に負けて唸り声を「おやすみなさい」という言葉に変えた。その言葉にパーシヴァルが柔らかく微笑み、そっと兜を己の腕に乗せて「おやすみモアネット嬢」と優しく告げてくる。
いわゆる腕枕だ。
だが今のモアネットにはそれに文句を言ってやる余力もなく、せいぜい十五分後に苦しめと心の中で悪態をついて眠りについた。
そうしてもちろん、十五分経つとパーシヴァルが盛大に自己嫌悪に陥るわけだ。
「またやったぁ……」
とは、きっかり十五分後に我に返ったパーシヴァルの第一声。
サァと波が引くように意識が戻り、それと同時に自己嫌悪が一気に湧き上がるのだ。思わず盛大に溜息をつき己を罵り、そして同時にチラと視線を落とす。
そこには勿論、鉄の鎧。もといモアネット。
寝ていたところを一度起こしたうえで寝かしつけ、更に腕枕までしてしまったのだ。これはさぞや怒っているに違いない……。そう考え、パーシヴァルが恐る恐るモアネットの名前を呼んだ。
はたしてどんな罵声が返ってくるか。もしくは冷ややかに鋭い一撃を放ってくるか。予定変更だと呪ってくるかもしれない。たとえその全てだとしても、この状況下なのだから甘んじて受け入れよう。
そう覚悟して「モアネット嬢……」と再び声をかけたのだが、どういうわけかモアネットは返事どころかピクリともギシリとも動かない。ただジッと、パーシヴァルの腕に頭を預けている。
「……モアネット嬢?」
まさかそこまで怒っているのか……とパーシヴァルの額に冷汗が伝う。
だがそんな声にもモアネットは反応せず、体を寄せたまま動こうとしない。……怒っているというより、これはまるで。
「いや、でもまさか」
そう小声で呟きつつ、パーシヴァルがそっとモアネットの兜へと耳を寄せた。
起こさないよう気を使いつつ、仮に起こしていた場合を考え僅かに身構えつつ――起こしていた場合、迂闊に近付けば頭突きの一つでも食らいかねないからだ。この頭突きは相当応えるだろう――
そうしてそっと兜に耳を触れさせれば、微かに聞こえてくるのは……、
スゥ……
という緩やかな呼吸の音。
それを聞き、パーシヴァルが碧色の瞳をパチンと瞬かせた。
てっきりぼやかれるかと思っていたが、まったく違うものが聞こえてきたのだ。緩やかで、小さく、少し高い、穏やかな寝息。
「……寝てる」
ポツリと呟き、モアネットを見つめる。
銀一色の鎧では中がどうなっているのかは窺えず、傍目には全身鎧が横倒しになっているようにしか見えないだろう。それでも鎧の中にいるモアネットは眠っているのだ。
それも声を掛けても起きないあたり、だいぶ深く寝入っているのだろう。
自分の隣で。
腕枕で。
身を寄せて。
「……っ!」
その瞬間、パーシヴァルが息を呑んだ。いや、息を呑むどころか声に漏れ出てしまっていたかもしれない。
なにせモアネットが眠っていると理解した瞬間、一瞬にして体の中に熱が沸き上がったのだ。鼓動が痛いくらいに早鐘を打ち、呑み込んだ息すらも熱をもっているように感じられる。
己の中で何か音がした。それはもうはっきりと。まるで何かがどこかに落ちるように。いや、何かがどこかにではなく、はっきりと理解したからこそ意識もろとも全身に熱が湧き上がったのだ。
今の音は、自分が恋に落ちる音だ……。
それはドキンだのキュンだのといったいかにもな音ではなく、
ギシッ、
と鉄が軋む音であった。
言わずもながモアネットが身じろいて鎧を軋ませたのだが、その動きすらも湧き上がる感情に拍車をかけるものでしかないパーシヴァルがそれに気付けるわけがない。




