17:宿にまつわる王子の呪いⅡ
アレクシスが見事なまでに顔面にパイを受け、そのまま硬直する。
そんな廊下の冷え切った空気と言ったらない。先程の陽気なサプライズの掛け声もどこへやら、重苦しい静けさが漂っている。階下から食堂の賑やかさが聞こえてくるが、それだってどこか別次元のように思える。それ程までなのだ。
絶妙なバランスでアレクシスの顔にパイが張り付いたままなのがまた空気を悪化させている。
そんな沈黙が破かれるや一転して騒々しくなったのは、パイを投げた者達が人違いに気付いたからである。一瞬にして顔を青ざめさせ、アレクシスの顔からパイを取り除くと――この時まで見事に張り付いていた――タオルやハンカチで拭いて謝罪する。
麗しく聡明さを見せる彼の顔にはべったりと生クリームがつき、見れば髪にも飛び散っているではないか。そんな状態でも「気にしないで」だの「君達が悪いわけじゃないから」と彼等を落ち着かせるアレクシスのなんとおもしろ……優しいことか。
「アレクシス様、ざまぁみろですか?」
「モアネット、本音が隠しきれてないよ」
「アレクシス王子、大丈夫ですか? お怪我は?」
「心配しないで、どこも痛めてないから」
「アレクシス様、美味しかったですか?」
「興味津々だねモアネット。あえて言うなら、もう少し甘さを控えめにしてほしかったかな。食後にあの甘さは堪えるものがあるよ」
そう顔面の生クリームを拭いながらアレクシスが答える。この状況下でなかなかの余裕ではないか。人違いでパイを投げつけられたのだから、呪いに掛かっていようがいまいが誰だって怒鳴りたくなるだろうに。
元々の器の大きさか、もしくは不運に見舞われすぎて達観したか。この程度ではもはや彼の心は傷一つ付かないのかもしれない。
逞しくなっている……とモアネットが心の中で彼を憐れみ、次いでそんなアレクシスに促されるまま部屋へと入った。
中はさして広くもない、いかにも簡素な宿の一室という造りをしている。
二つのベッドに、一応置かれている程度の小さなテーブル。浴室はあるにはあるようだが、部屋の造りを見るに期待は出来ないだろう。
そんな浴室に、いまだ髪に生クリームをつけたアレクシスが向かう。その表情には若干の疲労が見え、そしてこめかみには生クリームが見える。あれは確かに早く洗い落としたいだろう、そんなことを考えつつモアネットが見送れば、対してパーシヴァルが徐にベッドの確認をしだした。
足は折れないか底は抜けないかと強度を確かめ、布団をバサバサと仰ぐ。次いできっとベッドの下を覗くのだろう、それが分かって、簡素な椅子に腰をかけたモアネットが肩を竦めた。
「心配性ですね。そんなしょっちゅう人が隠れてたりしませんよ」
「念には念をだな…………。そうか、お前もサプライズ狙いだったんだな。だが聞いてただろ、残念ながらパーティーは隣の部屋だ」
「居るの!?」
ひゃっ!とモアネットが悲鳴を上げれば、ベッドの下からピエロがゆっくりと這い出てきた。これは怖い。どんなサプライズを考えていたのかは知らないが、ちょっとしたトラウマになりかねない光景だ。
だがそんなピエロは申し訳なさそうに身を竦め、そそくさと部屋を出て行ってしまった。そうして数秒すると隣の部屋から「サプラーイズ!」の声と共に歓声が上がるあたり、どうやら今度は成功したようだ。良かったよかった……とはさすがに思えない。
不運を甘く見ていたとモアネットが改めてアレクシスの呪いのたちの悪さを実感していると、手早く入浴をすませたアレクシスがタオルを首から下げながら戻ってきた。
彼の髪が濡れて水滴を垂らしている。纏っているのは宿に用意されていた安っぽい寝間着だというのに、彼が着ているだけで一等の部屋着のように見える。
そんなアレクシスは己の髪を拭きつつ、不思議そうに首を傾げた。
「何かあった?」
「いえ、ちょっとピエロが」
「あぁ、そっか」
パーシヴァルの「ちょっとピエロが」という掻い摘んだ説明に、それだけで察したのかアレクシスが苦笑と共に肩を竦めた。
どうやら「ちょっとピエロが」だけで通じているようだ。動じるでもなく詳しく聞くわけでもないその落ち着き払った態度に、過去どれだけベッドの下に忍び込まれていたかが窺える。
そんな二人を眺めつつ、モアネットがそういえばと立ち上がった。入浴を済ませたアレクシスは特に異変もなく、震えている様子も無ければ青ざめてもいない。てっきり狭い浴室のうえ水しか出ない……なんて不運に見舞われているのかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。
モアネットがそれを確かめに浴室へと向かい、そして……、
「あの、水しか出ませんでしたけど」
と戻ってきた。
本当に水しか出なかったのだ。「見た感じは古いけど作りはしっかりしてるんだなぁ」なんて油断していたモアネットが、手甲の隙間から襲う冷たさに見を震わせてしまう程だ。
だというのにモアネットの訴えに対し、髪を乾かしていたアレクシスは平然と、
「うん、水しか出なかったけど?」
と返してきた。
震えもせず、青ざめもせず。
「あの……水ですよ? 寒くないんですか?」
「寒いも何も、ここ一年水しか浴びてないから」
あっさりアレクシスが返す。
どうやら水しか出ない状況に慣れきり、それどころか元より水しか出ないものと考えるようになってしまったらしい。これには思わずモアネットもどう答えていいか分からず「お強いんですね」とだけ告げた。
考えを改める必要があるかもしれない。アレクシスは確かに不運に見舞われているが、それに比例して化物じみた適応力がある。この旅の結末として『アレクシスの不運死』はかなり可能性が低そうだ。
「それでモアネット、僕の不運は満足しっ……」
満足した?と聞きかけ、アレクシスの言葉が止まる。簡素な椅子に腰掛けた瞬間、椅子の足後ろ二本が盛大な音を立てて折れたのだ。哀れ彼は悲鳴もあげられず後方に倒れこみ、パーシヴァルが慌てて助けに駆け寄る。
そうして改めて話を始めようとし、ワァッと上がった歓声に三人揃えて一斉に視線をやった。声がしたのは壁から…正確には隣室。パーティー会場である。
どうやら相当盛り上がっているようで、歓声に続いて音楽が流れ、果てには踊りだしたかドタバタと足音が続く。なんとも楽しそうで、そしてなんとも迷惑ではないか。
「これは一晩ですね」
「明け方には少しくらい収まるかな……。一時間寝れれば良いほうかも」
アレクシスとパーシヴァルが疲労感いっぱいに壁を見つめる。
その哀愁漂う姿と言ったらなく、モアネットが仕方ないと溜息をついてポシェットから羊皮紙を取り出した。サラサラっと描くのは今夜も可愛いにゃんこ。眠りながらお魚の夢を見る、なんとも夜に適した絵だ。
それを見せれば、呪い避けと察したか二人の表情に安堵が浮かんだ。そのうえ、呪符を枕元に置いた瞬間、先程まで騒いでいた隣室の集団がやれ酒が切れた酒場に行こうと部屋から出て行ってしまったのだ。途端に静かになるのだから呪符の効果は抜群である。
「モアネット……」
「魔女は気まぐれですが約束を違えたりはしませんからね。それに、もうそろそろルームサービスが来ちゃうし」
「ありがとう、モアネット。可愛いにゃん……ウミウシ?」
「可愛いにゃんこ!」
「お、これなら俺は分かるぞ。猫が三匹はねてるんだな」
「可愛いにゃんこが一匹!!」
なんて失礼な! とモアネットが怒りを顕に席を立つ。
去り際に掛けられた「おやすみ」という言葉はなんとも親しげで、仲間意識をもたれたら堪ったもんじゃないとツンとそっぽを向いて少し強めに扉を閉めて部屋を後にした。