15:重装令嬢と呪われた王子
「モアネット、まさか僕が三匹に襲われてこの水を飲むことを想定して……」
「それはもはや魔女の領域を超えてますね」
そう呆れつつモアネットが返せば、アレクシスがあっさりと「そうだよね」と苦笑を漏らす。もちろん今の「この水を……」という言葉は冗談でしかなく、その大根役者ぶりと言ったらない。思わずモアネットが茶番に付きあわせないでくれと彼を睨みつけることで訴えた。
それでも砂糖菓子を一つ渡すのは、勝手に水を飲んだのは彼だが、その水を不味くさせたのは自分だからだ。もっとも、彼以外が飲めば不味いと感じることはなかっただろうけれど。
そんなモアネットに対しアレクシスは礼を告げて砂糖菓子を受け取ると口内で数度転がし、落ち着いたのかホッと安堵の息を吐いた。
「ごめんよモアネット、寝ようとしてたところ邪魔して」
「べつに良いですよ、もう寝ますし。あと呪い避けの呪符も用意しておきましたから」
「何から何までモアネットに頼ってばかりだ。……ごめんよ」
ポツリと呟くアレクシスに、モアネットはさして返事もせずに横になった。
迷惑をかけられているのは事実だ。古城から引きずり出され、そのうえ国を越えようとしている。これは迷惑と言っても申し分ないだろう。だが今のアレクシスの声は酷く沈んでおり、さすがにこれに追い打ちを掛ける気にはなれない。かといって「おやすみなさい」等と親しげな言葉をかける気も起きず、ただ沈黙で返すだけだ。
ガタガタと微かな振動と共に響く車輪の音と「ごめん」と繰り返される言葉は子守唄には適していない。
護衛も護衛だが主も主で湿っぽい、そんなことを考え、モアネットは罪悪感の海に溺れているアレクシスを宥めようと半身起こし……、
「ごめんよモアネット、僕はきみの顔を覚えていないんだ」
という震える声に兜の中で小さく息を呑んだ。
アレクシスが背を丸め、両手で顔を覆っている。モアネットより背の高いはずの彼は、どうしてか今だけは随分と小さく見えた。
「……覚えていない?」
「あぁ、どうしても思い出せない。あんな酷いことを言ったのに、その理由さえも思い出せないんだ……」
「ま、まぁ、でも、初対面だったし。あの一瞬だけだし……」
だから仕方ない、そうモアネットが声をかけようとし、ヒュッと擦れた音だけをもらした。喉が震えて声が出ない、息を吸っていいのか吐いていいのか分からない。
辛うじて絞りだした自分の声は酷く掠れていて、妙な息苦しさが胸を占める。
アレクシスは自分の顔を覚えていない。あの言葉の真意も覚えていない。
いや、覚えていないのは本当に彼だけか?
だけどもしもそうならば、この哀れな重装令嬢は何だというのか。
顔を隠し姿を隠し、爪の形さえも知られることを恐れて纏った鎧は何のためだ。
そんなことを考えればモアネットの鼓動が早まり次第に呼吸が浅くなる。湿気を帯びた風が鎧の隙間から入り込み、泥臭さが体に纏わりつく。頭の中ではかつて聞いた幼い声が繰り返され、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。
何一つ思い出せないと震える声で告げるアレクシスと違い、モアネットは鮮明にあの時の事を覚えていた。もちろん、当時の彼の姿も、形良い唇から発せられた残酷な言葉も。嘆き顔を覆って部屋に籠もるモアネットをよそに、彼の婚約者にエミリアを宛がった両親の手際の良ささえも、今でも鮮明に思い出せる。
それと同時に息苦しさが増し、兜の中で粘ついた嫌な汗が伝う。
「……モアネット……モアネット!」
グイと肩を掴んで揺さぶられ、モアネットがはたと我に返った。
深い茶色の瞳がジッとこちらを見つめている。アレクシスはあの時よりもずっと大人になった、それでも髪や瞳の色合いは変わらない。どことなく面影も残っている。
そんな彼の唇が、まるであの時のようにゆっくりと開き……、
「モアネット、ごめんよ」
と、苦しそうな声色で謝罪し、ゆっくりと手を放した。
「嫌なことを思い出させてごめん」
「アレクシス様……」
「悪かった。もう話さないから、ゆっくり眠って」
そう宥めるように告げ、アレクシスがそっと肩を押してくる。
横になれと促しているのだろう。抵抗する理由もないとそれに従い、兜の中で深く息を吐いた。
一定のリズムで続く車輪の音が早鐘状態だった鼓動を落ち着かせる。後ろ暗いような不快でしかない感情が、そのまま居心地の悪い眠気へと変わっていく。
あまり良い夢を見られそうにない……そう考えながらゆっくりと瞳を閉じれば、項垂れるアレクシスの姿が細まっていく視界に最後まで映った。
それから数時間後。
「モアネット嬢、貴女は良い子だ。ぐっすり眠ると良い」
「うわぁ、うざったいよぉ……」
という会話が馬車の中で交わされた。
言わずもがな、パーシヴァルが寝ぼけたのだ。哀れモアネットは再び彼の膝枕で兜を撫でられながら目を覚ました。おまけに、今回は微妙に鼻歌交じりである。これは子守唄なのだろうか、尚のこと腹立たしい。
思わずモアネットがアレクシスに視線を向ければ、彼は申し訳なさそうにこちらを見つめていた。……先程の痛々しいほどの申し訳なさとはまた違っているが、こちらもこちらで疲労感を漂わせている。
「あの重苦しい空気から、なぜこんな状況に……。この人ずっと寝てたじゃないですか……」
「うん。でも窓に寄りかかって寝てたから……それで」
「それで?」
「さっき大きく馬車が揺れて、窓に頭をぶつけて起きたんだ」
アレクシス曰く、馬車の揺れによりパーシヴァルは勢いよくゴッ!と音たてて頭をぶつけ、目を覚ましたらしい。そうしてゆっくりと周囲を見回し眠るモアネットに視線を留めると、徐に近付き兜を膝に乗せて
撫で始めた……と。
そんな話を聞き、モアネットが溜息を吐くと共にいまだ兜を撫でてくる手を振り払った。それでも彼は穏やかに笑い、離れようとするモアネットに手を伸ばしてくるのだから呆れしか湧かない。
「起こしてごめんねモアネット、パーシヴァルもあと五分でもとに戻るはずだから」
「あと五分ですか……え、それってつまり十分くらいあの状態だったってことですか!?」
絶望的すぎる……とモアネットが嘆く。
もっとも、大人しく嘆いてもいられない。なにせ今この瞬間にもパーシヴァルが抱きしめようと腕を伸ばしてくるのだ。それを叩いて避けて、合間に嘆いてと忙しない。
「これ、起こす方法ないんですか?」
「んー、どうだろ」
分からないと苦笑を浮かべて応えるアレクシスに、モアネットが落胆しつつパーシヴァルの腕に捉われた。さすがは王子の護衛、一瞬の隙をついて放たれる一撃の速さは流石の一言であり、いかに魔女と言えど反射神経は他の令嬢並みのモアネットが避けられるわけがない。
油断していた……そう思った矢先にギュウと強く抱きしめられ、彼の大きな手が豪快に兜を撫でてくる。
そんな攻防の果てにパーシヴァルの賢者タイムを経て再び馬車が静まり返った頃には、既に窓の外は明るくなり始めていた。
一人起きていたアレクシスが窓の外を眺め、日が昇り始める光景の美しさに瞳を細める。そうしてチラとモアネットに視線をやり耳をすませて安堵するのは、今度は呻き声も啜り泣きも聞こえてこないからだ。時折漏らされる小さな声も今はなく、緩やかな寝息が続く。
良かった、と、そう内心でごちる。
今の自分に良いことなど何一つないのに。