10:前途多難な出発
「しばらく家を空けるから、留守をよろしくねロバートソン」
そうモアネットがロバートソンに告げれば、天井から糸を垂らして視界の高さにとどまっていた蜘蛛がカサッと動いた。
その姿はまるで「俺に任せろ!」と言っているかのようではないか。そんな友情がまた別れの悲しみを増させるが、この古城を彼が守ってくれると考えれば胸に安堵も湧く。
なにより、帰りを待ってくれる人――蜘蛛――が居るというのは何とも励みになる。
「森で迷った人が入ってくると思うけど『蜘蛛は殺さないで』って注意書きをしておいたよ。でもあんまり人の前に出ないようにしてね」
約束だよ、とロバートソンに告げる。
モアネットがどれだけ友情を感じていようが、彼は蜘蛛だ。ふっくらとしたお腹に長い八本の足、全体に短い毛がびっしりと生えていて、インパクトは十分すぎるほどにある。誰だって悲鳴をあげ、勝手に危機感を覚えるだろう。
とりわけロバートソンの隣にいるファッショナブルな友達は見るからに毒がありそうで、噛まれる前にと退治にかかる人は少なくないはずだ。追い払うならまだ良いが、潰そうとしてくる可能性だってある。
注意書きをしたが不安は残る。だからこそ気を付けてくれと訴えれば、天井から垂れていたロバートソンがツイと上に上がった。
了承の意味だ。こうやって意思を返してくれるところもまた友情を感じさせ、別れを悲しくさせる。
だが出発せねばならない。
そう決意し、モアネットが扉に手を掛けた。
ギィと音をたてて扉を押し開き、最後に一度名残惜しそうに振り返り、
「じゃぁねロバートソン、雌蜘蛛との交尾はくれぐれも気を付けてね……」
と声をかけるのは、旅を終えて帰ってきたらロバートソンが食べられていた……なんて悲劇を避けるためである。
げに恐ろしきは野生の蜘蛛の世界。
「ロバートソンの友達が雌だったら?」
というアレクシスの質問に、モアネットがその可能性はないと首を横に振った。
静かな森の中、カシャンカシャンというモアネットが歩く音に、ギコッギコッと首を振る音が重なる。
「異性を連れ込まないようロバートソンと約束したんです」
「健全だね」
「目の前で捕食とかされたら辛すぎるし」
「……あぁ、蜘蛛だもんね」
なるほどと頷くアレクシスに、モアネットもまた頷いて返す。
ロバートソンは友達だ。唯一の友達ともいえる。
だが蜘蛛なのは事実で、雌と交尾をすれば捕食される可能性もある。それが蜘蛛の定めであり生態なのだと分かってはいるが、目の前でその光景を見せられたら生涯のトラウマになるだろう。只でさえコンプレックスを拗らせてこんな状態なのだ、そこにトラウマまで加わったらどうなることか。
悪い雌蜘蛛に騙されなきゃいいけど……とモアネットが心配そうに古城を振り返れば、この旅の原因であるアレクシスが罪悪感を感じたのか謝罪の言葉を口にしてきた。パーシヴァルは言葉にこそしないが、出発の時点で何も言わずワインとトランクを持って歩き出している。
いっそ首輪でもつけて引きずってくれた方が割り切れたかもしれない、そんなことを考えつつ、モアネットがポーチから羊皮紙を一枚取り出してペンでサラサラとにゃんこを描いた。
もちろん獣除けだ。ちょっとだけにゃんこをワイルドな顔つきにしてみる。うん、これなら他の獣は寄ってこれまい。
「森を抜けたらひとまず獣除けは終わりにしますよ」
羊皮紙がなくなっちゃう、そうぼやきつつモアネットがポシェットを覗く。
古城にあった羊皮紙をありったけ持ってきたが限りはあるし、そもそもモアネットが扱える魔術は永続的なものではない。効果が切れれば呪符も只の可愛いにゃんこが描かれた紙になってしまう。
古城で生活し古城で生涯を終える気でいたモアネットにとって、永続的な獣除けの魔術など不要だったのだ。あの古城にかけた獣除けだって効果が切れれば掛けなおしていたし、持続性の強い魔術といえばこの鎧の軽量化か。
それだってたまに切れて、一人古城の中で鎧の重みに負けて倒れることがある。――そういう場合、鎧の重さに負けて地に臥せったまま助けを呼んで、駆けつけてくれたロバートソンに作り置きの呪符を取ってきてもらう。あぁなんて素晴らしい友情か――
とにかく、モアネットの呪符には威力も枚数も限りがあるのだ。
それを話せば、アレクシスが真剣な面持ちで頷いて返してきた。
「ずっと呪いを弾いていたら相手に気付かれるかもしれないし、常に呪避けしてるわけにはいきません。なんだかんだ言って今日まで生き延びてるんだから、多少の不運は我慢してください。例えば、今アレクシス様の腕に噛みついてる蛇とか」
「……分かった。地味に痛いけど我慢するよ」
「王子、そういうのは普通に振り払ってください」
「大丈夫だパーシヴァル。この蛇は毒がないから、噛まれてもただひたすら痛いだけだ」
「いや毒が有るか無いかの話ではなく」
アレクシスの腕から蛇を払い落とし、パーシヴァル溜息をつく。
そんな彼と、噛まれた腕を擦りつつまたも別の蛇に噛まれるアレクシスを眺め、モアネットがふととある事を思い出した。
「獣除けはあくまで獣だけです。毒のある虫には効果が無いので気を付けてください」
「ここいらに毒のある虫は出るのか?」
「前に泊まっていった旅の人が、毒のある蛾がいるって言ってました。まぁでも、今は出る時期じゃないし大丈夫だと思いますけど」
「……モアネット嬢、それは大きくてピンク色の蛾か?」
「えぇ、そうです」
「羽が分厚くて、ふかふかして、触覚が黄色い……」
「そうです。パーシヴァルさん、見たことあるんですか?」
「今、徐に飛んできて王子の肩に……」
疲労感いっぱいに話すパーシヴァルに、モアネットがまさかと思いながらもアレクシスへと視線を向ける。
いつの間にやら、彼の両の肩にはふかふかしたピンクの蛾が一匹ずつ乗っているではないか。
思わずモアネットが、
「なんてお洒落な肩パット!」
と叫んでしまう。
その瞬間アレクシスが倒れたのは言うまでもなく、彼の腕に噛みついていた蛇がピャッと逃げていった。
「アレクシス様って茶色の髪だから、色鮮やかなピンクがよく映えますね」
「言ってる場合か! 王子、大丈夫ですか!?」
慌ててパーシヴァルがアレクシスに駆け寄る。どうやら痺れているらしく「大丈夫だ」と返すアレクシスの声は随分と震えていて、到底大丈夫そうではない。現に、言葉こそ返してくるが倒れたままピクリともしない。
そんなまさに『前途多難』といった光景を眺めつつ、モアネットは溜息をつき、再び噛んでやらんと構えていた蛇を手で追い払った。
もちろんアレクシスを助けるためではない。
「あんなの噛んだらお腹壊すよ」
という蛇への優しさである。
「虫の毒は長く続くから嫌だね。その点、噛まれる瞬間は痛いけど爬虫類の方がまだマシかな。でも一番厄介なのは魚だよ、体内から毒が回る感覚はなんとも言えない」
「ソムリエか」
そう話しながら再び森の中を歩く。
といってもいまだ毒蛾の痺れに犯されているアレクシスは歩くことが出来ず、パーシヴァルに担がれている。
「パーシヴァルごめんよ、重いだろ」
「いえ、お気になさらず。痺れが残っているとはいえ大事無いようで何よりです」
「大事無いってさ。蛇君、もう一回噛んでおやりよ」
ほら、とモアネットが煽れば、それを聞いた蛇がピョンと飛びかかってアレクシスの腕に噛みついた。
なんとも言えない情けない悲鳴があがり、パーシヴァルが慌てて蛇を追い払おうとアレクシスごと振り回しだす。それがまた痺れを悪化させるのかアレクシスが更に悲鳴をあげ……と、目の前で繰り広げられる無様としか言いようがない光景に、モアネットが兜の中でクツクツと笑った。




