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#090 征夷大将軍足利義輝、天下に号令せん!

 永禄七年(西暦一五六四年)四月。

 幕府による経済制裁が敷かれた中、尾張国那古野は活況を取り戻していた。

 何故ならば、そもそも織田家は五カ国の大太守。

 石高にして百八十万石もの大領を有していた。

 一時の、幕府による経済制裁と言う名の突風さえ凌げば、広大にして独立した経済圏が息を吹き返すのは時間の問題であった。

 その様はまるで、冬枯れした枝に付きし桃花の蕾。

 一寸前迄は堅く閉じられていたソレは瞬く間に芽吹き、この世の春を祝うが如く我先に競って咲いた。


 ところがである、幕府が出した新たな布告により、那古野は再び震撼する。

 それは——


「幕府の許しなき湊における南蛮船の寄港を禁ずる……か」


 つまり、南蛮人による上陸は勿論、水および食料の補給も禁ずるとの事。

 そして禁を犯した際の罰則が極めて苛烈であった。


「はっ! 令に反した湊は打ち払うと、斯様に伝えられておりまする!」


 ただし、何事も例外があるのが世の常。


「当座の間、南蛮との交易は次に挙げたる湊に限り許す。一、博多湊。二、平戸湊。三、横瀬浦湊。四、鹿児島湊。五、境湊。六、……」


 いや、なんのことはない。

 既に南蛮貿易の実績がある湊のうち、那古野湊だけが挙げられなかっただけであった。

 陰湿にして非道な遣り口。

 どうしても織田を誅したい、その様な意図が透けて見える。

 それでも、俺は表向き従う素振りをした。

 何と言っても、相手は織田家に及ばぬとも百万石をも有する大名にして武家の棟梁たる足利義輝。

 瞬く間に数カ国を切り取った、今や名実ともに最強の征夷大将軍である。

 流石の俺も、開けっぴろげに南蛮貿易をする事は躊躇われたのだ。


(それに、領内に入った乱波者の仕業であろうが、密事が思いの外漏れやすくなっているからな)


 だが一方で懸念すべき事があった。

 それは、例年四月に南蛮船を那古野大湊に寄こす、とポルトガルと交わした約定だ。

 かかる事態でなければ、諸手を挙げて歓待した相手。

 いや、幕府からの圧力が日増しに強くなる織田家としては寧ろこれまで以上に、是が非でも、南蛮船が齎す品々を必要としていた。


(幕府に対して秘密にしておけるならば。何故ならば、火薬は兎も角、大砲が一本でも多く欲しい。あれが有ると無いでは拠点防衛の難度が段違いだからだ)


 そう、織田信行こと俺は幕府との一戦を半ば覚悟しているのだ。

 だからこそ、幕府の禁を破る事にはなるが、何とかして伊勢湾に入った南蛮船にいち早く接触し、江戸時代の抜け荷よろしく人里離れ廃れた嘗ての湊に誘う、そんな手筈を整えていた。


 それから暫く経った頃合い、俺の目論見を妨げる、いやそれとも見ぬふりをしてお零れに預かろうとしてなのか、那古野に二人の貴人が訪れた。


(実に間が悪い、いや、彼らにしてみれば、丁度良い時期に、か)


 無論、その二人とは、


「関白近衛前久様、それに山科言継殿。この様な時期の那古野によう参られましたな」


 である。


「なに、公方様より直々にな、那古野湊にて南蛮船寄港の有無を確認して欲しいと承ってな」

「勅使のついで、じゃよ」

(勅使のついで、ってなんだよ、ついでって。明らかに不敬じゃね? それにしても、目的を誤魔化す事もなく、堂々と言い放つとはな)


 俺は思わず、顔を顰めた。


「探られたくない腹を探られたといえども、その様な顔を致すでない。まるで身共が織田殿を虐めているみたいではないか」

(いや加担してるよね? ……って、あれ? 尾張殿ではなくなった?)

「左様、左様。関白殿下も儂も、天子様の遣い。それ以上でも、それ以下でも無い故にな。織田殿にはそこの所を確と理解して頂きたい」

「……ははっ」


 そして、俺は低頭する。

 それが、最高権威を盾にした貴人に対する処世術としては、極普通の振る舞いであった。


「しかし……未だ南蛮船は訪れておらぬ様じゃのう……」


 と言って首を傾げたのは山科言継。

 これは事実であった。

 決して、既に隠し湊に誘導した訳でもなく。

 今年は本当にただの一隻も、南蛮船が来ていなかった。

 もう、四月も終わりに近い。

 日々、そろそろ来るだろう、と首を長くして待ちわびていた。

 なのに、何時迄も地平線の先に船影は見受けられなかったのだ。


「織田殿、何故か知らぬか?」


 知るか! と言える訳もなく。

 俺は、


「……推測で宜しければ」


 と断った上で、思い当たる節がある旨を示す。


「構わぬ、身共に申してみよ」

「しからば、昨年の十月に大元の原因があると思われまする」

「そ、それはなんじゃろうか?」


 山科言継が身を乗り出して問うた。


「その折、かつてない程の大船団が那古野湊を訪れましたが、その陣容はスペインとポルトガルの二ヶ国合一の船団にございました」

「………………些かもわからぬのじゃが?」

「そもそも、それら二ヶ国、スペインとポルトガルは新たな土地を見出した折、その土地に住まう者の意思に関わらず領土を分割する約定があるらしく(トルデシリャス条約の事だ)。今はその約定を踏まえ、いずれの国が日の本を自らの領土に編入するか、交易を独占するかを話し合っているのではないかと愚考する次第にございまする」

「随分と手前勝手な話じゃのう」

「天子様に断りもなく勝手に自領扱いなどもってのほか。商いをするにしろ、売り手と買い手が互いに相手を選ぶ、それが身共の知る〝世の道理〟であろうが」

「何分、南蛮人の多くが日の本の民を蛮族と蔑み、同じ価値の命を有する人と認めておりませぬ故に」


 俺は「嘆かわしい事です」と口にしつつ〝本当の理由〟を(つぐ)む。

 その情報の出処はベネチア共和国特使であるジョバンニ。

 最新にして最後に届けられた手紙、それに記されていた。

 内容は、史実を知る俺からしたら驚天動地の代物。

 何と、キリスト教を国教とするヨーロッパ諸国が一同に集い〝真なるキリスト教同盟〟を発足した、と認められていたからだ。

 その仮想敵国はオスマン帝国。

 レパントの海戦、いやマルタ島への侵攻を未然に防ぐ為と称し、オスマン帝国の主要港ならびに軍船への先制攻撃を計画、その実行に必要となる船をかき集めている、とあったのだ。


(まさか、かつて北方十字軍を構成した国々まで加わるとは思わなかった。ベネチア本国は「オスマン帝国に降ったのは早計だったか!」と蜂の巣をつついた様な騒ぎになっているらしい。ジョバンニは家族を呼び寄せた後で良かった、と胸を撫で下ろしていたがな。……それにしても何でオスマン帝国相手に”真なるキリスト教同盟”なのだろうか?)


 加えて、銀の高騰と奴隷貿易の禁止により、日本との貿易は旨みが無くなったからとも。


(それにより、貿易商とそれを支援していた金貸は随分と立腹しているらしいがな)


 が、俺はそれを二人に伝えたりはしない。

 ユーラシア大陸の果てでの出来事など、ここ日の本に大した影響はないと思えたからだ。


(それを知る理由を説明するのも面倒くさいしな)


 偽らざる本音である。

 そもそも、そんな事よりもだ、俺には遥かに優先すべき事案があった。

 それは、


「時に、天子様による公方様へのお口添えの件、如何相成りましたでしょうか?」


 であった。

 那古野時計もとい、世界初の鳩時計を献上したのだ。

 にもかかわらず、何一つ効果が現れる兆しが見受けられない。

 それは、一体どういう事なのか?

 確かに一戦を辞さぬ覚悟をしているとは言え、戦時を想定した避難訓練まで実施したとは言え、戦争は行わなぬ方が良いに決まっている。

 その訳はただ一つ、戦は七飢を上回る、の言葉通りだからだ。

 一度戦場になったが最後、その地の田畑は荒れ、回復するには数年を要する。

 そんな土地では人は新たな子を産み、育むなど不可能。

 それどころか、間引く事すら起こり得る。

 故に俺は、戦争を避ける術があるならば、ぎりぎりまで模索し続け、戦争を起こすならば一度で済む様、仕込みを幾重にも施してきたのだ。


 山科言継の返事は、実に頼り甲斐のない言葉であった。


「天子様直々に書状を認めるも、公方様からは色よい返事がこぬらしい。柳に風、よな」

「とは言え、それでは困りまする」

「なれど、公方様へは織田殿も様々な伝を駆使し、働き掛けているのであろう?」

「無論にございまする。されど……」

「梨の礫、か。なれば、身共が今一度働き掛けようぞ。身共には公方様に嫁ぎし血を分けた者がおる故にな。とは言え、空手では行けぬ」


 近衛前久はそう言い終えるやいなや扇を開き、口元を隠す。

 その縁に沿うかの様に、目尻が大きく垂れ下がっていた。


(公卿を動かすなれば、それ相応の物を用意して見せよ……か)


 戦国の世においては至極当然である。

 故に俺は、事前に用意していた物を近習の一人に持って来させた。

 それは、


「那古野懐中時計にございまする」


 であった。

 つまり、国産初の懐中時計だ。

 以前献上した地球儀と同じく、螺鈿細工を施している。

 それも日本列島を模した。

 日の本の王を自称する足利家に送るに相応しい意匠と思い、指示したのだ。


「素晴らしい出来映えよな。これなれば、必ずや公方様も耳を傾けてくれるであろうぞ」

「よしなに、お願い申し上げまする」

「とは言え、心変わりを約す訳ではない。それは分かっておろうな?」

「……存じ上げておりまする。なれど、公方様がお心変わりされぬ折は、是非とも織田を支持するお言葉を賜りたくお願い申し上げまする!」


 俺はその場で居住まいを正し、大袈裟に頭を垂れた。

 いや、「どうか、どうか」と這い蹲った。

 戦を避ける為に。

 朝廷のお導きに、仲裁に縋たのだ。

 しかし、近衛前久と山科言継は顔を見あわせた後、


「身共らを勘違いされては困るぞ」


 と俺に冷たく言い放った。


「そも、天子様は言わずもがな、身共を含めた朝廷は武家の棟梁たる足利家を認めておる。そして、その足利家に対し、日の本の遍く武家に対する下知を託しておるのよ。それはつまり、武家の中の揉め事は武家の中で治めよ、と同義。無論、貴人故に口添えはするがな。そしてそれは、朝廷への貢献を加味して行う。改めて言わずとも、御主なれば存じておろう?」

「関白殿下の仰られた通りぞ。朝廷は武家の棟梁に対して幕府と言う名と権を与え、幕府は天子様のご威光を日の本の隅々にまで行き渡らせるのじゃ。それ以上でも、それ以下でもないのう」


 ぐうの音も出ない、とはこの事であった。

 そして俺は、最早引き返せぬ所まで辿り着いていた事を知った。

 幕府を軽視する事により、朝廷をも蔑ろにしていた事になるからだ。


 俺は体を折り畳んだ形で固まる。

 そんな俺の頭に、近衛前久が言葉を投げた。


「今更なれど伝えるが、実は公方様に彦が御生れになられた」

「早速幼名を竹若丸と名付けられたそうじゃ」

「何ぞ、祝いの品があれば、身共が預かろうぞ?」


 俺は声を振り絞り、答える。


「……今ひとつ、那古野時計を送らせて頂きまする」

「何もせぬよりは、それが宜しかろう」


 束の間、部屋からは音が途絶え、春とは思えぬほど肌寒く感じられた。

 山科言継が「これはかなわん」とばかりに、口を開いた。


「時に織田殿、昨晩は何やら城下が慌ただしかったようじゃが?」


 俺は部屋の空気が変わるのを有り難く思い、飛びつく様に答えた。


「長らく薩摩に止まりし者らが、那古野に戻りました故にございましょう」

「それだけではなかろう? 身共の耳には捕物があったと聞こえたぞ?」

「お耳が早うございまするな」


 そう、前田利家ら一行総勢二百余名が薩摩から戻ったのだ。

 そしてその結果、彼らが齎した情報により城内にまで入り込んだ〝甲賀者〟の捕縛を行うに至った。

 表向きは、


「祝いの隙を突き、賊が入り込んだ次第」


 と答えるがな。

 まさか、歩き巫女の組織に潜り込まれ、織田の禄を食むその者らが織田の悪評を流布し、時には秘密情報を流していたとは思わなんだ。

 しかも、その様な間隙が生まれた原因が、成果を出した歩き巫女らを武家に集団就職(養子縁組の上での婚姻)したからだとはな。


(薩摩に幽閉されていた者が偶然その者らを目にし、織田に関するある事無い事を吹聴していたのを聞いたから判明したものの。それが無ければ如何なっていた事やら。思いつきを実行に移す際には今少し注意しないと駄目だな)


 俺は湧き上がる後悔を押し留め、貴人二人に愛想笑いを向ける。


「さて、随分と時が経ち、そろそろ日も暮れる頃合い。関白殿下と山科殿を歓待致したく特別な品をご用意させて頂きまする」

「ほう、身共らに特別な品とな?」

「何でございましょうなぁ?」

「これ、勿体振るでない。早う教えよ」

「しからばお答え致しまするが、魚の最高位と名高い〝鯨〟にございまする」


 この時期、尾張近海の沖合では鯨がよく見受けられていた。

 鯨は北太平洋からユーラシア大陸ならびに日本列島に沿って回遊しているからな。

 ところがである、何の弾みか、先日伊勢湾の奥にまで鯨が迷い込んだのであった。

 それも十数頭の群れで。


(恐らく、鰯やら何やらを追いかけて入り込んで来たのだろう。テレビでそんな風景を観た事がある。が……)


 放置すれば湾内の漁場を著しく荒らされる事に。

 加えて、一早く南蛮船を見出そうとして出した船の邪魔となり得た。


(わざと転覆させるらしいからな)


 だからと言って、無理に追い込み捕えようとしても船を転覆されて多くの犠牲を強いられる。

 この戦国時代の捕鯨は命懸けであった。

 船上から銛を担ぎ、追い込んで突き刺す、所謂ところの突き取り式捕鯨であったからだ。


(ある意味、原始人がマンモスを狩るに等しい。いや、流石に見た事ないけどさ。もうちょっと、スマートな方法無いの? って感じだ。だって十六世紀だよ!? 現代ではさぁ……)


 そして俺は思い至った、「太陽熱温水器の銅管を改良した野砲を用い、離れた場所から銛を打ち込めば良いのでは」と。

 結果、その目論見は上手く行き、新鮮な鯨肉が多く獲れたのである。


「それは良い。身共は思うに、天子様も〝鯨桶〟を献上されるなれば、殊の外喜ぶであろう」


 鯨桶、貴人に鯨肉を贈る際に用いられる、進物用の大桶の事である。


「一人でも多くの彦を望まれし公方様には〝鯨のたけり(男性機能を強化する漢方薬の素。常飲すると常に下半身に熱を感じるが如く、全身に力が漲る)〟も含め、お包みするが宜しかろう」


 勿論俺は、


「天子様ならびに公方様には鯨一頭分の鯨肉を鯨桶にて、献上させて頂きまする」


 と快く応じた。

 何故ならば、俺が望みし部位は他に、〝油〟にあったからだ。

 幕府との一戦を改めて念頭に置いた今、切り札は多ければ多いほど良いのだから。




  ◇




 山城国 京 二条御所武衛陣の御構え


 夕日が差し込む中、評定の間には時を刻む規則正しい音が響いていた。

 やがて、一人の男が、


「ついぞ那古野湊に南蛮船が現れなかったとか……」


 と零した。

 近頃、日に日に貫禄の増した和田惟政である。

 かつては貴人然とした髭を蓄えていたが、今はまるで達磨大師の如き様相。

 夕日を浴びている所為もあるが、寧ろ足利義輝を支えし立場が、そう成らしめたのであった。


「不思議な事よ、博多にも来ておらぬらしい。泡を吹いた大友宗麟めが書に認めて参ったわ」

「されば……」

「左様、次の手を打たねばならぬ」


 足利義輝はそう呟いた後、


「光秀! これへ!」

「は!」


 近頃特に重用する重臣、明智光秀を近くに呼んだ。

 足利義輝は一言命じる。


「申せ!」


 それだけで全てを解した明智光秀は、スッと額ずいたかと思うと、


「はっ! 甲賀の働きにて、尾張の虎が浅知恵は、その底が明らかになり申した! 竹の櫓然り! 那古野筒然り! 火薬玉然り! 南蛮砲然り! いずれに対する策が、この光秀にはございまする! 加えて今や、公方様の下知に従わぬ大名はおりませぬ! 三好然り、畠山然り! 故に、時は今!、と申し上げまする! 我らに大命をお与えくだされ!」


 一息に言い放った。

 すると、足利義輝ゆるりと立ち上がり、居並ぶ重臣らを視界に納める。

 途端に辺りに満ちる張り詰めた空気。

 重臣らは居住まいを正した。


 足利義輝の口から低くともよく通る声が発せられた。

 それには、羅生門に住まう幽鬼すらをも奮い立たせるかの様な、漲る力(・・・)が籠められていた。


「聞けよ、皆の衆! 足利家が天子様に日の本の政を託され二百余年。図らずも足利家は力を損ない、世は乱れ、幕府の権勢は地に落ちてしもうた。その結果、何が起きたかは皆も知っておろう。三好某や織田某の如き何処の馬の骨とも知れぬ輩が京の都を我が物顔でのさばり、得た力に物を言わせ幕府を蔑ろにし始めたのだ。更にはあろう事か、幕府に納むるべき税を私掠せしめ、あまつさえ朝廷に持ち込み、幕府を介す事なく官位を得た。挙句の果てに、(いたず)らに神託を騙り、世を乱す輩までも出て来る始末。正に末法の世! まるで幕府など存在せぬが如き! まるで幕府など歯牙にもかける程の価値もないと言うが如き! まるで幕府に変わり、天下を望むと露わにするが如き! 余は積年、忸怩たる思いで堪えた! 都を幾度も終われても堪え、幾度も恥を忍んで帰洛を果たした! なれど今なお、堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、膝を地に着け、頭を垂れておる! しかし、それも終わりぞ! 余は、今こそ余は! ここに立ち、白地の二引両を持って再び天下に号令せん!!」


 何かが頬を伝い落ちる、そんな音が幾つも重なる。

 それほど、幕府再興を夢見た男がいた証、であった。

 足利義輝は小さく頷き、言葉を続けた。


「今、敢えて皆の心に問おう。余は一体何者であったろうか? …………左様、余は征夷大将軍。但し傀儡、のな」


 重臣の一部が否定の動きを見せるも、足利義輝はそれを手で制した。


「無用じゃ、天下万民が知っておるでな。なれど、余の名は足利義輝に違いなく、前将軍・足利義晴の嫡男に違いなく、今代の征夷大将軍に違いない。違うか、惟政?」

「違いありませぬ!」

「余は……武家の棟梁であるか、光秀?」

「一点の曇りもなく!」

「なれば、余こそは幕府! 余は、幕府は再び乱れし世を! 今一度足利の名の下に平定せん! それは、幕府を軽んずる輩を悉く討つ事により果たされるものなり!! 余は自らこの太刀を振るい、その者らのそっ首を刎ねてくれよう!!」


 言い終えるや否や、足利義輝は太刀を抜き床に突き刺す。

 その銘は三日月。

 天下五剣と称される名刀の一つであった。

 今それは夕日を浴び、血に塗れたかの如く、赤く染まって見えた。


 刹那、


「如何にも!」

「公方様万歳!」

「幕府万々歳!!」


 大音声が重なり、屋敷全体が大きく揺らいだ。

 古くから詰まっていた塵すら舞い散らす程に。

 だが新たに吹いた一陣の風が、そんな埃を一掃する。

 その様まるで、乱世である日の本の縮図、であった。


「和田惟政! 告げる!」


 足利義輝が叫んだ。


「は!」

「北畠具房を伊勢国の守護に任ずる! 申し伝えよ!」

「はは!」

「武田信玄を美濃・駿河両国の守護に任ずる! 申し伝えよ!」

「はは!」

「今川氏真を三河・遠江両国の守護に任ずる! 申し伝えよ!」

「はは!」

「斯波義銀を尾張国守護に任ずる! 申し伝えよ!」

「はは!」

「守護を下ろし、その位を簒奪せしめた織田某には御教書にて伝えよ! 卑しき身でありながら神の言葉を騙り余を乱すなど言語道断! 切腹を申し渡す! また、一族郎等は流罪! 国府明け渡しの上、八月末日までに刑を処するものと致す! 明け渡しの立会は関東管領上杉輝虎ならびに執権北条氏政が行う、とな!」

「はは!」

「最後に、三好にはこう伝えよ! 幕府への恭順を示すに兵はいらぬ! 代わりに糧食とその担い手を任せる、とな! あの者らには国が傾く程の銭と米を吐き出させよ!」

「ははーっ!」


 言い終えた足利義輝は、満足気に嗤った。




  ◇




 相模国 小田原城 評定の間


 後北条先代当主・北条氏康。

 甲相駿三国同盟を結んだ立役者にして、扇谷上杉(おうぎがやうえすぎ)を関東から追い出し、北条の版図を武蔵国にまで伸ばした関東一の実力者でもある。

 その彼が極僅かな家臣を前に、届いたばかりの書状を一瞥するや否や破り捨てた。

 透かし模様の織田木瓜が散り散りとなり、やがて風に吹かれ舞い散る。

 一部始終を目にした現当主・北条氏政が、苦悶の声を上げた。


「ち、父上!」

「もう、決めた事よ」


 それもその筈。

 幕府が旗を振り、越後の上杉輝虎と甲斐の武田信玄すらもが加わった織田包囲網、北条が織田を援けねばその滅亡は必死、と言える情勢であった。

 そもそも、尾張の織田とは甲斐の武田と共に三国同盟を結んでいた。

 それ以前は織田に降った駿河の今川との甲相駿三国同盟を。

 各々の、後顧の憂、を断つ為に。

 が、北条氏康はその破棄を今まさに決めたのである。


 北条氏政は座したまま、にじり寄った。


「ですが! 風間からの文にも、織田は未だ健在なり、と! ……今ならまだ間に合いまする! 執権など言う虚名は捨て、考え直すが宜しいと……」

「くどい!」

「な! な、長綱(ながつな)様からも言ってくだされ!」


 困り果てた北条氏政から藁をもつかむ思いで話を振られたのが、北条長綱。

 史実では北条幻庵として名を知られている。

 この北条長綱、後北条の祖である伊勢宗瑞、現代で言うところの北条早雲の男子における末子であった。

 つまり、後北条の生き字引と言えた。

 それだけでなく、弓馬に優れ、有職故実や古典的教養も嗜む、当代随一の武士と目されていた。

 北条宗家ですらも頭が上がらぬ唯一無二の存在、なのである。

 その北条長綱は熟慮の上、


「誠によろしかったので?」


 北条氏康に問うた。


「幕府が自らの武威を示した今……もう、覚悟の上よ」

「なれば何も申し上げますまい。北条総出にて取り掛かりましょうぞ」


 北条氏康は深く目礼した。

拙作をお読み頂き、誠にありがとうございます。

先日、拙作「信長の弟 織田信行として生きて候1」が皆様のお力により、無事発売されました。

重ね重ね御礼申し上げます。


さて、いよいよ第3部のクライマックスです。

至らぬ点が多々出てくるとは思いますが、これからも引き続き、何卒よろしくお願い申し上げます。

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