#082 予期せぬ使者、救国の神託(3)
「あ……」
(しまった。また余計な事言ったしまったか……)
酒を飲んでも飲まれるな、万年平社員時代に何度も痛い目を見ているというのに……
酒の所為で、出世の道を断たれたというのに……
そう、俺は飲むとつい、言わなくても良い事を言ってしまうのだ。
余計な事をしてしまうのだ。
それに加え、目の前の男が〝千年王国〟などと分不相応な事を、出来もしない事を言うものだから。
そう、主任に上がれるかどうかのあの時も。
へべれけに酔った部長が「来期は売り上げ十倍が目標だ、その次も十倍。十の十で百倍だ」とかのたまってつい……
あれは酷い大言壮語だった。
周りにいた者は皆、苦笑いしていた。
またつまらないジョークを部長が口にした、と。
だが、俺は気づいていた。
口調は酔いつぶれているソレだが、目は死んでいない事に。
にもかかわらず、「部長の口癖は出来もしない事を人に言うな、ですから当然、部長も自社の売り上げを二年で百倍にした実績があるんですよね? いやー、さすが部長。いや、それ程の実績がありながら、なぜ未だに部長?」俺は口走ってしまった。
実にうかつだった。
思えば、信長の前で酒を飲む機会がなかったのは良かったのかもしれない。
もし飲んでいたら、「あんた、いつも偉そうな事言ってるけど、信任第一位の部下に裏切られて殺されちゃうんですよ」と口を滑らせていたかもしれないのだから。
……確実に、その場で首を刎ねられていただろうな。
俺は再び、自重、と言う言葉を胸に刻み、深海よりも深く反省した。
その上で、意識を周囲に向ける。
ベネチアの特使ジョバンニは顔が青ざめていた。
今にも卒倒するんじゃなかろうか。
逆にトーレス、「ふぉぉぉお!」と言わんばかりに興奮している。
津々木蔵人と柴田勝家は綺羅星の如く輝く視線を俺に向け、前田利益はニヤニヤしながら美味そうに酒を飲み、料理を摘んでいた。
「ジョバンニ殿……」
俺の呼び掛けに、返事はなかった。
ジョバンニの心はここにあらず。
気持ちが落ち着くまで待つべきだろう。
彼は今まさに、死の宣告を受けたに等しいのだから。
(だがなぁ、問題はこの後だ。うっかり史実を漏らしてしまったからなぁ)
俺はクイっと盃を傾け中を飲み干し、この向こう見ずな異邦人に口走った事をどう活かすか、もしくはうやむやにすべきかと思案する。
空いた盃にぶどう酒が並々と注がれた。
見れば、それをしたのは前田利益。
彼はニッと嗤っていた。
(……チッ。もう、余計な事は言わんぞ)
不幸中の幸いか、それとも失意のどん底に落ちた所為か、ジョバンニは気を取り直すも取り留めのない会話に終始したのであった。
後日、俺は予定されていた遠乗りにジョバンニを誘った。
馬で駆けるのは気晴らしに良いからである。
常歩で進むときなど、考え込むのに最適であった。
お供をするのは親衛隊を率いる前田利益とその配下。
それに俺の麾下である六人衆と僅かばかりの小姓らだけである。
「未だ気分がすぐれぬか?」
「………………いえ、そのような事は決して」
俺の問いにそう答えるも、ジョバンニは見るからに十分な睡眠が取れていない。
目の下の隈がそう物語っていたのだ。
時折、声を掛けても半ば上の空。
俺は仕方なく、道すがらベネチア共和国の地政学的なおさらいを、一人することにした。
大前提としてだが、ベネチア共和国は列強に取り囲まれている。
東にはイスラム国家であるオスマン帝国。
北に神聖ローマ帝国があり、西の現イタリア半島にはその地を抑えたスペイン王国、いや今ではスペイン帝国か、があった。
共にパプスブルグ家に連なる者が支配者として統治していた。
イタリア半島の更に西に行くと、大国フランス王国が存在する。
この様にベネチアの周囲には大国が幾つもあった。
それは国を維持する上では最大の問題であると同時に、最大の利点でもあった。
何故ならば、ベネチアは地中海と言う海原を自由に行き来する、交易国家であったからだ。
結果、巨万の富を得た。
現世に残るベネチアの街並みはそれを証明していた。
だが、そのベネチアを待ち受ける未来は暗い。
史実では一五七〇年、キリスト教同盟の一翼を担い、押し寄せるオスマン帝国に挑んだ。
俗に言うレパントの海戦だ。
しかし、ベネチアの戦略的目標と思われるキプロスの奪還は叶わず。
それどころか、ベネチアは軍船の大きく損なう羽目に。
それがベネチアの衰退に拍車を掛ける事になった。
一七世紀に入ると、ベネチアは同じキリスト教圏の国と戦争を重ねる。
多くの国々が戦争に明け暮れた。
その影響でか、一六三〇年代には黒死病が流行したらしい。
ベネチアは人口の三分の一を失った。
一方のオスマン帝国はその頃には、レパントの海戦における損害を回復していた。
そして、再度の西侵を開始したのであった。
先ず初めに狙われたのはクレタ島。
この島を巡る争いは二十五年も続いた。
ベネチアは益々疲弊していった。
一八世紀初頭、オスマン・ベネチア戦争が勃発した。
ベネチアは抗うも、鮫に狙われた魚の如く、体を酷く食い千切られた。
負った傷は決して癒される事はなかった。
一八世紀末、ナポレオンによりベネチアは征服される。
そして、ベネチア共和国の領土はその殆どがオーストリアに与えられるのであった。
さて、こうまで周辺国家に翻弄される原因。
それはやはり、ベネチア本土の人口が少なすぎる所為ではなかろうか。
オスマン帝国の人口一千五百万人に対してベネチアに住む民は十五万人。
因みにだが、当時のスペイン本土の人口は六百五十万人、フランスは一千万人(黒死病で一千五百万人から激減)、イタリアが一千万人との記録があった。
これからみても、以下にベネチアの国力が〝終わっている〟かが分かろうと言う物だ。
だからこそ、
「千年王国などと、高望みのしすぎよ。無謀なのよ」
なのだ。
やがて、俺達一行は那古野大湊を一望出来る場所に辿り着いた。
眼下に広がるは、何処となくベネチアに似た風景。
だからだろうか、ジョバンニの体に活力が戻った。
「認めましょう、〝千年王国〟は言葉に過ぎた、と」
張りのある声が響いた。
「ですが、我らが、いや私が祖国ベネチアを思う気持ちに偽りはありません。そもそも、フランス王国にベネチアが併合されると言うのは本当なのでしょうか?」
対する俺の答えは簡単である。
「それが御主らが欲し、御主の訪問に合わせて下された神託だ。信じるも信じぬも御主と御主を遣わした者らの勝手よ」
ジョバンニの顔色が先日同様、いや幾分ましな程度、青く変わった。
強く結ばれた唇が、黒い一本の線のようだ。
だが、暫く後、それは再び開かれる。
まるで、警戒を緩めたムール貝かの様に。
「……し、神託に」
その貝は恐る恐る、舌を伸ばすのであった。
「……さ、先の神託に……続き……はございませんでしたか?」
「続き?」
「はい、続きでございます。言い方を変えるならば、その間のベネチアの事、でございます。」
「あった様な……」
「何と! 是非とも教えて頂きたい! お礼に我が祖国に出来る事であれば、如何なる事も惜しみません!」
「ほう? 何でも、と申すか?」
俺の胸は初めて体験する時の如く、期待に高鳴った。
更には喉がゴクリと鳴った。
喉の渇きを異常なほど覚えた。
刹那、頭によぎったのはジョバンニを歓待した宴。
久方ぶりに飲んだ、ほのかに酸味のあるワインの口当たり。
それを、俺は渇望した。
(叶うならワイングラスで飲みたい所だがな……ん? んんん?)
その直後、俺は天啓を得た。
これこそ正しく、神託であると言えた。
俺は押し寄せる歓喜に塗れ、その喜びは思わず破顔する程であった。
顔を隠す為、天を見上げる。
大砲を発したかの様に、体が震えた。
「い、いかがでしょうか?」
不安の所為だろう、ジョバンニの声が硬かった。
決して、俺の奇妙な振る舞いの所為ではない。
俺は冷静な顔を作り、ジョバンニに向けた。
「ジョバンニ殿、熱田様の神託はおいそれと外に出せぬ」
「そ、それは!?」
「漏れ出たそれは、常々なる世を大いに歪めるやも知れぬ故にだ」
「しかし、そこを何とかお願いします! 国許のベネチアには私の妻が、家族がいるのです!」
「その結果、ジョバンニ殿の友やその家族が、それどころか他国の民がいたずらに傷つくやも知れぬのだぞ?」
「構いません!」
「その行為はキリストの言う、悪魔(異端者)に魂を売る、のと同義ではないのか?」
「ベネチアの民にとって、その程度の事は些事にございます! 我らは、求められるならば改宗すらも躊躇いません!」
「その心意気や良し。なればその証を見せて貰おうか」
俺は目の前の、獲物となった男を凝視する。
前田利益らが示し合わしたかの様に、周囲を囲んだ。
その動きはまるで、借用書に判子を付かせる、堅気でない方々の如くであった。
「な、な、な、何なりと、お、お命じ、下さ、い……」
俺はその言葉に一言、
「ガラス技術……」
と答えた。
「が、ガラス! そ、それはベネチアの門外不出! そもそも、何故その事を!?」
俺は彼の言葉を無視し、更に紡いだ。
「造船技術……」
「そ、その事までも!?」
産業革命以前にライン生産方式をベネチアは確立していた。
それにより、たった一月で一隻の軍船を造り出す事に成功していたのだ。
海洋国家日本としては、その技術、ノウハウは一日でも早く、喉から手が出る程欲しい。
そしていずれは、ここ那古野の地に産業革命以降の日本に最大の利益を齎した会社の代名詞とも言われる、カンバン方式を産み出すのだ!
(だが! その前に産業革命だ!! 島国イギリスに出来て、日本に出来ぬ訳がない!!!)
俺の瞳は遥か未来を見据えていた。
「革の加工技術、彫金、縫製に絵画、それに石膏。いや、有りとあらゆる技術が欲しい!」
「そ、そんな!? そもそも人を連れてくるのは無理でございます!」
「戯言を申すな!」
「な、何を!」
「その方が如何にして参ったか、忘れたか!」
「くっ、イ、イエズス会を使えと……」
「他に手があるなればそれで良い。だが、神託の続きは人が参ってからよ!」
「ですが、男には家族が、女子供がいる者も多いのです!」
俺は思わず、ニヤリと笑った。
「日の本にはおらぬが、御主らの地には修道女なる、敬虔なキリストの徒が居ろう? 中には小間使いに子供を使う者もいる。そうであろう?」
そして、細めた目でジョバンニの顔を覗き込む。
蒼白な顔が土気色に変わった。
「わ、わ、わ、私が国許に帰りたいと申したなら?」
「ふふふ、何を申される。その方は我が国に駐在するベネチア共和国の大使である。やすやすと帰る訳にはいくまい?」
「と、特使や大使は、つ、妻や子を連れて赴任出来ぬ決まりなの……で……」
「裏切らぬ様、人質か? なれば、誰かを身代わりに立てよ。人質と申しても良い生活が送れるのであろう? なれば、何とかなるであろう」
ジョバンニは言葉を失った。
いや、深く閉ざした心の中で素早い思考を行っていたのかもしれない。
やがて彼は目を閉じ、深い吐息を吐いた。
「……本国と、いえ、本国にいる家族に計る必要があります」
「こちらは幾らでも待てる。時に追われてはおらぬ故にな」
「う、う、う……。わ、分かりました。つきましては先の神託は本国にお伝えしても宜しいでしょうか?」
「構わぬ。が、職人が届かなければ、それで終いだ」
「あ、ありがとうございます!」
(よし! 第一関門クリア! 問題は次の神託だな。思い切って、オスマン帝国に服属し尖兵となれ、と伝えてみるか? 税を納めれば自治を認められる、緩やかな属国制度があった筈だ。その後は、船を使った輜重を請け負う事が出来れば最高だな。上手くいけば、大戦による力無き者の犠牲者が減るし、猛威を振るった黒死病も防げるかも知れん。問題はベネチアの国力、人口をどうするかだが……。同じ言葉を話せないと連帯感が醸成されないしなぁ……。となると、イタリア本土に散らばる大小様々な国々、その親族の替え玉を常に用意しておくようにして、あわよくば入れ替えて……。イタリア本土を平和裡に併合し……。叶うなら、影響力を増したベネチアにオスマン帝国に働きかけて貰い、運河の脇にある、今はただ砂にまみれただけの土地を……。ふふふ、神託を何処まで鵜呑みにするのか判らんが、夢が膨らむな! 紡績に使う飛び鉾? 良勝が何とかするだろ!)
俺の胸が軽やかなステップを刻む。
それに合わせて、顔が僅かに綻んだ。
◇
ローマの中心に建つ、巨大な長堂形式の大聖堂。
内部に設けられた、人の身幅よりも遥かに太い石柱が連なる柱廊、それが荘厳な空気を生み出していた。
中は人払がされているのだろう、数名の人影があるのみである。
彼らは中央に集い、明らかに血色の良い顔を向けあっていた。
それぞれが、見るからに豪奢な衣装を纏っている。
王侯貴族か、それに準ずる地位にある事は一目瞭然であった。
その中の一人が、
「ベネチアが〝異端の預言者〟に使者を出したと聞いたが?」
よく通る声で言った。
すると、人影らは順に口を開き始める。
「ほう? 狙いは〝神託〟か?」
「恐らくはそうでしょう」
「ふん! 下らぬ!」
「大方、金になるか見極めに行ったのであろう。彼の国は香辛料に代わる新たな金脈を見出すのに、心血を注いでいる故にな」
「しかし、余の下には本物やも知れぬ、と口にする者も参ったぞ?」
僅かばかりの静寂。
人影は互いの間合いを探り合うかの様に、視線を巡らしあった。
やがて、最初に口火を切った男が別の話題を俎上に乗せる。
「この千年期、今この時まではそのあらかたを、パプスブルグが思いの儘にしてきた、そう言っても良かろう」
「しかし、預言者が現れたと噂が広がるのは困り物です」
「紛い物であろう? 異端の下に預言者が生まれるとは思えぬ」
「ふふふ、イエス様がありし時、カソリックなどおらなんだ。貴様のは詭弁よ」
「なら、どうする? インカ帝国と同様、攻め滅ぼすのか?」
これより以前、スペインはインカ帝国を文字通り滅ぼしていた。
結果、二千万人いた人口が百万人にまで減ったのである。
つまり、聖書に記されたどんな悪魔よりも遥かに多くの命を奪ったのがキリスト教、その一宗派であるカソリック教徒、なのであった。
これは紛れもない、歴史的事実である。
「それもまた選択肢の一つ、だ。だが……」
「はい、まずはベネチアの動きを見てからです。取り越し苦労であれば良いのですから」
「ふん、総長殿は悠長よな。余には真似できぬ。それにポルトガルの馬鹿をいつまでも押さえつけては置けぬぞ?」
「その時はそのときよ。それに、何かあった方が皇帝陛下には都合が良いのであろう?」
「違い無い」
刹那、どす黒い笑いが柱廊に響き渡った。




