#081 予期せぬ使者、救国の神託(2)
ベネチア、正式にはベネチア共和国と言う。
東地中海を中心とした貿易を主要な産業とする、海洋・商業国家である。
十五世紀後半の最盛期においてはキリスト教国家における最大の権益を有していた。
だが、それ程の国家であっても栄枯盛衰、盛者必衰の理が及んだ。
それは地中海の東岸から、ベネチア史上最大の脅威として訪れたのだ。
その脅威の名は、〝オスマン帝国〟。
人口一千五百万人を有する、この当時最大、最強を誇る国家の一つによる侵攻であった。
オスマン帝国の西侵は瞬く間にベネチアから領土を奪った。
それにより、ベネチアは多大なる利益を得ていた東地中海、その制海権を失ってしまったのだ。
追い打ちを掛けるかの様に、ポルトガル海上帝国による東回り航路の発見。
ベネチアが独占し、巨万の富を齎していた香辛料がその手から零れ落ちていった。
そのベネチアから使者が訪れた。
イエズス会の宣教師に扮してまで。
あろうことか、極東の島国である日本の、これまた一地方領主の本拠地でしかない那古野にだ。
(訳がわからん。だが、わざわざ遠方から来た者を理由も聞かずに追い返すのもなぁ……)
俺は仕方なく、後日日を改めて会う事にした。
その間、取り次いだトーレスには那古野を案内をさせつつ、理由を探る様に申し伝えた。
そして、その当日。
那古屋大湊一望茶屋にて俺達は面会した。
「織田信行である。使者殿、この様な遠方までようこそ参られた」
「ベネチア共和国特使、ジョバンニ・コルナーロにございます」
北部イタリア人らしい、青い目と明るい髪をした好青年が顔を強張らせつつ、挨拶を述べた。
さて、何故城ではなく、この場所を選んだのか。
理由の一つが、小高い丘の上に建つ茶屋故に人の出入りが容易に制限される事であった。
異国からの特使とはいえ、ジョバンニ・コルナーロはイエズス会の宣教師に扮して来た。
故に、城で大っぴらに謁見するのも憚られたのだ。
また、それ以外にも幾つか有るのだが、特に留意したのが食事である。
城の賄いではどうしても和食が中心となってしまう。
だが、この茶屋であれば南蛮人の口に合う料理を出す事が出来るのだ。
何故ならば、南蛮船が那古野大湊に訪れる度に、その高級船員らを持て成す場に用いていたからであった。
そうこうしている内に、二十名以上が食事を共にできるテーブル、その上に様々な南蛮料理が並ぶ。
主賓であるジョバンニ・コルナーロは勿論の事、俺や織田家の主だった家老の前に置かれたワイングラス(を模した漆器)には当然、ぶどう酒が注がれていた。
「どうされた、コルナーロ殿?」
ふと気がつくと、ジョバンニ・コルナーロが隣席するコスメ・デ・トーレスに何やら話し込んでいる。
幾つかの料理を指差していたのだ。
俺の問いに答えたのは、コスメ・デ・トーレス。
此度の通訳であった。
「コルナーロ殿曰く、ベネチア人が那古野を訪れた事があるのか、と尋ねておりまする」
どうやら、その原因はベネチア人という事で作らせたピザ(っぽい何か)やベネチアの名物料理として有名な海鮮リゾットと小魚や海老の揚げ物の所為らしい。
(……客人を持て成す為、俺が知る限りのベネチア料理を作らせてみたのだが。喜ぶどころか、逆に身構えさせる事になるとは。いや、そもそも会談の主導権を得る為にやった事なのだがな。やり過ぎはいかんか……)
俺は仕方なく、
「……以前参った南蛮船、その料理人から南蛮料理を教わった者がおってな。此度はその者に任せたのだ。その教わった料理の中にベネチア料理があったのやも知れぬな」
嘘をついた。
すると、何やら考え込むジョバンニ・コルナーロ。
俺はそんな彼に構わず、
「その様な事よりもだ、特使コルナーロ殿のお国では酒を飲む際に乾杯の音頭をとるのであろう? なれば、此度はわざわざ参られたコルナーロ殿に倣おうではないか」
盃を掲げた。
続いて、手筈通りイタリア語による乾杯の掛け声を皆で唱和する。
前田利益の声が一際大きく鳴り渡る。
ジョバンニ・コルナーロは口をあんぐり開けた。
軽く喉を潤した俺は、恐る恐るぶどう酒を飲むジョバンニ・コルナーロに話を振った。
「コルナーロ殿、トーレスに那古野を案内させたが如何であった?」
トーレスには那古野における庶民のオーソドックスな一日を身を以て体験させるという、現代で言う所の体験型観光を頼んであった。
主な内容は、熱田神社への参拝と富くじの購入に始まり、庄内川河川敷で行われる競馬の観戦、那古野大舞台での観劇、万松寺が営む湯屋での入浴などなど。
最後には那古野大湊に建つトーレスの教会を訪れ、ぶどう酒とパンを頂くのである。
(ここ那古野を初めて訪れた者は大抵辿る道らしい。競馬に勝った者は大湊の花街にも行くらしいがな)
それは人を堕落させる道でもあった。
だからであろう、その道中は那古野でも有数の賑わいを誇っている。
俺はその感想を彼の口から聞けると思っていた。
そう、俺はベネチアという世界有数の商業都市から来た者から見た、感じた第一印象を知りたかったのだ。
だが、ジョバンニ・コルナーロは思い詰めたかの様に盃の中を覗いたまま、答えようとしない。
(……おいおい、特使って外交官だろ? 問われた事に答えない、その態度はどうなのよ?)
ベネチアから見れば日の本は最果ての辺境。
しかも俺は一地方領主でしかない。
とはいえ、その主の問い掛けに対し一向に答えぬ使者。
それは極めて非礼であった。
俺の隣席にいた津々木蔵人がぬらりと立ち上がった。
(これは不味い! あの尾張一の美丈夫と名高い津々木蔵人が今や鬼の形相に!)
俺は、何とかしろ、とトーレスに視線を送るも、その彼もまた予想外の出来事に酷く狼狽していた。
そもそも、トーレスはジョバンニ・コルナーロなる宣教師を見知ってはいなかった。
それもその筈、ジョバンニ・コルナーロはイエズス会の正会員ではなかったからだ。
言うなれば、ただのキリスト教徒でしかないのだ。
その彼が何故、イエズス会の宣教師に扮していたのか。
それはイエズス会発足時にまで遡る〝訳〟があったらしい。
実はこのイエズス会、ベネチアのさる商人から莫大な額の支援を受ける事によって立ち上げられた、歴史的に見れば新興の会派である。
なんでも、庶民からすれば天文学的な資金を元にローマに働きかけ、時の教皇に認めさせたらしい。
それも僅かな期間と、全くと言って良いほど無い活動実績を元に。
全ては、金、の御力であった。
以来、イエズス会は今に至ってもベネチアからの多額の資金を受け、宣教師派遣を含む宗教活動に勤しんでいると言うのだ。
(……て言うか、ベネチアがカソリックにそこまで入れ込む理由が分からんのだがな)
ジョバンニ・コルナーロはその大口スポンサーとしての力を使い、イエズス会の宣教師と成り代り、ポルトガル船を乗り継いで日の本は那古野に来たのだ。
そこまでして訪れた那古野で、自ら望んだ国主との会見の最中、上の空となる。
これは言うまでもなく〝事案〟であった。
「おのれ下郎……、信行様に対し不届き千万! 異国からの使者とて、容赦はでき……」
と、津々木蔵人が大見得を切り始める。
直後、惚けたままであったジョバンニ・コルナーロの顔に変化が表れた。
青い宝石のごとき瞳が潤み始め、やがて二粒の滴が各々一筋の線を顔に引いたのだ。
「!?」
思わず呆気に取られた俺とその他。
意表を付く筈の俺が完全に意表を突かれた瞬間、であった。
「コ、コルナーロ殿?」
俺の呼び掛けに、ジョバンニ・コルナーロがようやく答える。
「お見苦しい所を見せてしまいました。どうかお許しください。ですが、余りの事に思わず……」
更には、涙を流すに至った自身の胸中を語り始めた。
「私の属するコルナーロ家は、ベネチアでは知らぬ者もおらぬ程に名を馳せる、貴族家の一つにございます。その末席に連なる私は……」
それは聞くも涙、語るも涙の物語であった。
が、話の大筋はロミオとジュリエットに良く似ていたので、ここでは割愛させていただく。
「……なるほど。苦難の末、ようやく結ばれた嫁御を国に残し、わざわざ日の本にまで参られたか」
「はい。失礼ながら絶望を感じていた折、これ程のお心遣いを受け思わず……」
俺は同情を禁じ得なかった。
何故ならば、俺も僅かな期間であったが駿河に単身赴任した事があったからだ。
あの時は那古野に残してきた家族が殊の外心配だった。
加えて、二十代の健全な身体での男のやもめ暮らしは大変辛かった。
……その所為だろう、帰り際に新たな嫁を娶ったがな。
「いえ、先ほども申しました通り、それが私達の婚姻が認められる条件でしたから。ただ、失礼ながら日の本の国は我がベネチアに比べれば……」
「ああ、皆まで言う必要はない。充分承知している故な」
「…………はて、承知しておられる?」
ジョバンニ・コルナーロは小さく首を傾げる。
(ん? 俺が知っているのがおかしいか? いや、そんな事は無いよな? 何故ならば……)
「南蛮の華やかな町並みは、そこなトーレスより聞き及んでいる」
俺は差し障りのない理由を述べ、先の言葉を補足した。
「ああ、なるほど。そうでしたか」
「ベネチアと言えば、サン・マルコ広場が有名よな。世界で一番美しい広場、と聞き及んでおるぞ」
事実、ベネチアのサン・マルコ広場の周囲にはイスラム文化の影響を多分に受けたサン・マルコ寺院やドゥカーレ宮殿が建ち並び、更には世界の高層建築に影響を与えた鐘楼が天を衝くかの様にあるのだ。
その素晴らしさは文字通り、
「ベニスを見てから死ね、と言われる程らしいのう」
であった。
俺の言葉に、ジョバンニ・コルナーロが再び小さく首を傾げる。
「…………はて、それもトーレス殿が?」
コスメ・デ・トーレスは生粋のスペイン人、それもバレンシア出身であった。
彼は若くして司祭となり、まずはメキシコへ、更にはスペインの艦隊に同行して現代で言う所の東南アジアに渡る。
その地でかの有名なフランシスコ・ザビエルと相見え、インドのゴアへと至ったのだ。
つまり……ベネチアのベの字もない経歴であった。
「……左様である!」
俺は強気に、押せるだけ押す事にした。
「して、インドのゴアには様々な国から参った交易商人が集うと聞くが、やはりベネチアからも多くの商人が集まるのか!?」
「い、いえ、残念ながらベネチアの商人の船はそこまで参りませぬ……」
「ほう? 何故か!?」
無論、俺自身はその理由を知っている。
世界史の授業で習ったからな。
だが、俺は敢えて惚けて見せた。
ジョバンニ・コルナーロを試すに持ってこいの話題だからだ。
しかし、
「トーレス殿からお聞き及びかと思いますが……」
俺の思惑は見抜かれていたらしい。
「ポルトガル海上帝国とスペイン王国による新たな航路開拓並びにその独占により、我らベネチアは没落の一途を辿っております」
ジョバンニ・コルナーロは苦々しく答えた。
地中海中心の交易から大西洋沿岸へと様変わりした、所謂〝商業革命〟である。
「だからこそ、イエズス会の宣教師を装い、日の本に参ったのです」
「ふむ、左様であったか」
俺は一旦首肯してみせる。
だが、当然ながら、全くと言って良い程納得はしていない。
それは、
「だが、やはりまだ分からぬ」
であったからだ。
「はい?」
「コルナーロ殿がわざわざ日の本に参った訳が、な」
俺はそう口にした後、軽く盃を傾ける。
ぶどう酒の香りが口に満ち、落ち着いた渋みが舌を刺激した。
(恐らくだが、船を日本にまで廻せればベネチアは交易により利を得る事が可能だろう。だが、それは不可能だ。ポルトガルが東回り航路を抑えているからな)
俺は喉を鳴らし、酒精を胃の腑に落とす。
その上で、ジョバンニ・コルナーロをまじまじと見続けた。
(つまり、ベネチアは日本との交易を望んでいる訳ではない。となると、何が彼らの興味を引いたか、なのだが……)
果たして、その答えはジョバンニ・コルナーロの口から静かに語られた。
「ベネチアは長年、周辺国の勢力拡大を抑える為、様々な手を打ってきました」
「ほう、例えば?」
「時には神聖ローマ帝国とフランス王国との紛争を煽り、時にはオーストリア大公国に住む異端者の指導者に対して巨額の資金援助などを致しました」
通訳するトーレスは驚きの余り、口籠った。
イエズス会はカソリックにおける対異端の尖兵でもある。
その大口の支援者であると知ったベネチアが同じ様に異端者を支援していた。
驚くのも当然であった。
「その他には?」
「過分な力を得た異端者を削る為と称し、……………………教皇庁による異端者の弾圧を計画致しました」
束の間、トーレスが絶句したのだ。
「そ、そうか」
(マッチポンプ、か……やる事がほんと、えげつないのな)
「ですが、それは未然に防がれてしまいました」
「ほう、何故に?」
「我らは憤りました。周到に準備した計画を潰された事に」
(俺の質問を無視かよ……)
「そして、調べました。その原因を」
(はいはい。で? 原因は何だったの?)
「分かったのは……熱田様と名乗る者の神託によって我らの計画が白日の下に晒され、結果妨げられた、という嘘の様な事実でした」
(あちゃー、それって俺じゃん……。って言うか、ユグノーの虐殺ってベネチアが青写真を描いていたの!? マジで!?)
それは、俺が異国の民とは言え、虐殺されるのは忍びない、と思い行った小細工であった。
那古野大湊から輸出される聖書に記したのだ。
その事実を知るのは、この場ではトーレスのみ。
気不味い空気が三者を包む。
前田利益がぶどう酒をガブ飲みする、その音が耳に響いた。
(って事は何? ベネチアは俺に対して怒り心頭? さては俺の口封じが目的でわざわざ那古野まで来たのか!?)
「……改めて問おう、コルナーロ殿は何を望む?」
その問いに、特使ジョバンニ・コルナーロはニンマリと笑った。
「その預言者様から神託を賜る許しを頂きたい」
聞かされた答えは、予想外の文字を連ねていた。
「……神託? 何が為に?」
「はい、ベネチア共和国を千年王国と成すべく……」
だがそれは、
「はぁ? ベネチアなんぞ後二百年もすればフランスに併合され、挙げ句の果てにはオーストリアに割譲されるのだぞ」
「えっ!?」
不可能であった。
お読みいただきありがとうございます。
これからも引き続き、よろしくお願いいたします。




