#079 男山八幡会盟(3)
「さぁ、飽くまでとくと見よ」
と、足利義輝は言った。
抜きはなった太刀の刃、それを俺の首に当てたまま。
色のない瞳が俺を見据えている。
俺は白銀色に輝く刃を凝視しつつ、一つ鼻で深く息した。
そして、意を決した。
「これは……三日月宗近。刀工、三條小鍛冶宗近が作。日の本一の美剣と歌われ、ただ、三日月と呼ばれる事もある。されど、反りが大きい故に三日月と呼ばれる訳ではない。刃縁に打ち除けが多く、それが三日月に見立てられるが故、三日月と呼ばれる所以である……でしたかな?」
一息に述べた。
足利義輝の片眉が吊り上がった。
「……ようも知っておるな」
どうやら、興味を引いたらしい。
俺は安堵の色を現さぬ様、緊張を解かぬ様、言葉を返した。
未だに刃が、首元に添えてあるからだ。
それはまるで、俺が偽りを述べた瞬間差し込んだ手が噛み砕かれる〝真実の口〟の如くであった。
「訳あって学びました故に」
故に、俺は嘘はつけなかった。
「ほう? 他に何を知る?」
何故か更なる感心を示した足利義輝。
彼の、刀剣マニアとしての血が疼いたのだろうか?
「されば……これが作られしは今より千……いえ、四百年程前、鎌倉に幕府が開かれし頃合い。以降、どのような道を辿ったかは不明でございましたが、まさか公方様が有しておられるとは……」
「いや、御主は知っておったのではないか? 先に名を挙げた童子切と鬼丸。その二振りも足利家の宝剣であるぞ?」
はい、知ってました。
因みにですが、いずれも足利家滅亡の後、豊臣家、徳川家と渡り、行く行くは皇室に献上されたり、博物館に寄贈されたりします。
とは言えないよね。
なので前言撤回。
「まさか!」
流石に嘘をついてしまった。
すると、そう答えた俺の目を、細くした目で覗き込む足利義輝。
俺もまた、瞳を瞼で薄く覆う。
目の玉がその裏で、バサロを泳ぎ始めた。
「今のは真とは思えぬ……が、良いだろう。都でも知れ渡ってる故にな」
足利義輝は漸く太刀を引いた。
蛇に睨まれた蛙、それが死の凝視から逃れられたかの様な境地。
俺は息を静かに吐き、胸を撫で下ろした。
ところがである。
足利義輝は新たな標的を見出したのであった。
「しかるに、御主の連れて参った従者は何故動かぬ。恐らくはそれなりに剛の者であろう? 直答を許す故、答えてみよ」
それは前田利益。
彼の力量を一目で看破したのは流石である、と言わざるを得ない。
問われた前田利益はなんら臆する事なく答えた。
「しからば、答えさせて頂きまする。公方様にその気が無いのは明白でありました故に」
一瞬、足利義輝の目が大きく開いた。
「……名を、聞いておこうか」
「尾張荒子、前田宗兵衛利益と申しまする」
不思議と場が和み、やがて和田惟任が気を持ち直した。
それ以降、何故か会談が滞りなく進み、終わった。
そして書院を後にする間際、再び会話が弾む。
「しかし、先ほどは驚きました。音も気配もなく抜刀なされるとは」
「言うほど驚いてはおらぬようだったが?」
「その様な事は決してありませぬ。これに控える前田利益は兎も角、某は手も足も出なかった次第。寧ろ、この信行も見事な抜刀に見惚れたぐらいで。のう、利益」
俺は話を振りつつ、アイコンタクを送った。
足利義輝の機嫌を損ねる事なく、いや、可能な限り上機嫌のまま書院を後にしたかったからだ。
正直、この短時間で分かったのは、目の前におられる御方は躁鬱の気が有りそうな剣豪将軍様であらせられる、という事。
故に、最後まで気の抜けない相手なのだ。
「信行様の仰るとおりでござる! 公方様は兵法家としても日の本随一でござりまするな!」
「(良い事言ったぞ、利益)左様、左様!」
「……誠に、そう思うか?」
「思う、思う!」
「ところがだ、余が師事する当代随一の兵法家が、先日訪ねて参ってな」
「ほう! もしやそれが剣聖と名高い上泉秀綱、それとも塚原卜伝でござるか!?」
「左様、上泉秀綱が曰く……」
上機嫌で応えようとしていた足利義輝、その眉間に深い溝が生まれた。
「まて……何故、余が二人から剣を学んでいる、と知っておる?」
「……」
沈黙は金なり、その言葉を俺は心の底から信じ、祈った。
だが、少々遅かった様だ。
時の経過と共に、足利義輝の目が険を帯びていった。
和田惟任が青ざめ、酸欠の金魚よろしく、口をパクパクし始めた。
俺はゆっくりと瞼を閉じる。
その下では目の玉が背泳ぎし始めていた。
刹那、
「ヒュー」
あからさまに嘘の口笛が鳴った。
足利義輝が音の出所、前田利益をキッと睨めつける。
和田惟任が一転して、オロオロし始めた。
「貴様、余を愚弄するか?」
「滅相もございませぬ。古来より口笛は邪気を払い、目覚めを促しまする。翻って今のは我が主の気を覚ます為でござる。見ての通り、深き眠りに入り込んでいた信行様には効果覿面であった申させて頂きまする」
ニカっと笑ってみせた、前田利益。
足利義輝のこめかみがピクピクと脈動していた。
(取り敢えず、一難去った……のか? 偉いぞ、利益!)
俺はこの機を、逃してはならない。
「某の邪気を払い覚ますとか……いやはや、誠に申し訳ありませぬ。この者、つい先日まで黒き茂みの中ばかりを駆け回り、穴掘りに励んでいた次第で……して、剣聖とも称される上泉秀綱が何と!?」
大きく脱線した話を元に戻す様、強く促した。
「……………………塚原卜伝の秘剣……それを幾度か受け、勝った上泉秀綱はこういった、塚原卜伝の秘剣は」
〝天の時、地の利、人の和を活かした一撃必殺の、秘剣中の秘剣〟
「戦国大名がその秘剣を、理を極めれば天下を獲れる。だが、儂が死ぬまで見られぬであろう、そう思うておった。が、まさか、まさか現れるとは。もっとも当の本人は知らぬであろうがな。知っておったら、それこそいよいよ大事。足利の世の終わりが来るであろうよ。無意識の使い手よりも意識する使い手の方が手強いのは世の道理であるが故にな、と御主の事をそう評しておった」
「いやはや、嬉しいやらなんやら、兎に角恐縮する限りで」
「もっとも、流石の御主であっても、秘剣の名までは知らぬであろうがな! 先ほどの御主の様を見て余は安心したぞ!」
ふははと笑う足利義輝。
俺は追従とばかりに、剣の才無き事、剣への無知を晒してみた。
「はてさて、某はどちらかと弓が得意でして。剣術はとんとご無沙汰故、剣の技など……そうですな、一の太刀、の名以外はとんと知りませぬ」
〝一の太刀〟
居室の空気がガラリと変わった。
直後、甲高い音が耳に届いた。
と同時に視界に映ったのは、抜刀した後の姿で静止している足利義輝。
彼が振るった三日月宗近は俺の首を打つ、その間際で止まっている。
そして、それを抜いた刀の切っ先で止めた前田利益。
彼は冷や汗を垂らしながら真顔で、
「ご無礼、平に御容赦を。何分、少々剣気が膨れ上がったものですから」
と息絶え絶えに述べた。
足利義輝は鬼の如く口を大きく開けて笑い、
「見事、褒めてつかわす!」
と言い放った。
◇
織田信行が書院を辞した後、和田惟任は渋い顔を作り、自らの主に問い掛ける。
「公方様、予定より少々早い終わりですが宜しかったので?」
「御主の無駄話で時を稼ぐ、それでも良かったが途中で飽いてしまった。許せ。結果、彼奴の肝を寒からしめる事が出来たのだ。良しとしようではないか」
足利義輝はカッカと笑い返した。
「しかし、明智めらが……」
「織田勢の兵の配置、それを洗う時間は十二分に与えた。それで足りぬと言うのであれば、十兵衛らに能が無い証よ」
「されど、此度の会盟は織田を釣り出し、討つが為の策。それが果たせぬのでは……」
「勘違いしておるぞ、惟任」
「それは如何なる……」
「彼奴を討つは山城国不可侵の約定を確たる物にする、言わばその〝ついで〟よ」
「そ、それでは十兵衛らが!」
「捨て石、よな。しかし、彼奴めはなかなかに賢い。恐らく理解しておろう。そして、それを知って尚、織田をこの機会に討つ為、鉄砲を担いで行ったのだ。余の信を得る為にな」
「……」
「惟任、余もこの機会に討つのがゆくゆくは最善だと知る。なれど、如何に将軍であっても、和議を望んだ余が手を汚す訳にはいかぬ。故に浪人同然の十兵衛めらに任せたのだ。それは何故か? 余が口にせずとも御主ら幕臣は理解してみせよ」
「は、はは!」
「無論、余も上手くいった暁には報いるつもりでいる。それでもやはり、余の手が及んだと世に勘ぐられたくない」
「それは……」
「余の振るう〝一の太刀〟が浪人風情を使った襲撃だと思われるのは、些かしゃくであるからな」
足利義輝はそう言った後、届いたばかりの書状を検める。
中身を一瞥した彼は楽し気に嗤った。
◇
男山八幡宮会盟は紆余曲折を経て、成功裏に終わった。
(……本当、良く纏まったよなぁ。二度程死ぬ目にあったんだがな)
その去り際、三好長慶が松永久秀を連れ、陣幕にいる俺を訪ねてきた。
「勅使の任、上手くいきましたね。それもこれも、織田殿が力を尽くされたからでしょう」
「いやはや。三好殿にそう言って頂けると来た甲斐があったでござる」
「しかし、三年ですか」
「約定と言う物は期限を定めた方が守り易いですからな」
「ふふふ、確かに仰る通りです。我が子を躾けるのと同じですね。それに……」
「それに? 何でござろう」
「三好はその間、西に目を向けれます。これが実にありがたかったのです」
「さ、左様でございましたか」
三好長慶の目があざとく笑う。
境内の鹿威しが高らかに鳴った。
「時に織田殿」
「な、何でございましょう」
「此度は結構な品々を頂きました」
品々とは会盟を開くにあたり、各陣営に届けた贈り物の事である。
所謂、那古野土産であった。
「何、那古野であれば簡単に手に入る、珍品の類でござる。三好殿にはお目汚しの品々でござろうが、家臣に配る際にでも使って頂ければと思った次第で」
「那古野と言えば、曲直瀬道三が那古野解体新書を大いに褒め讃えていましたよ。この書により医術が大いに進む、と」
「あの医聖、曲直瀬道三がでござるか? ありがたい事です」
「もし、新しいのが出るのなら、必ず手に入れて欲しいとも」
「あぁ、それなれば、我が本陣にあるのを届けましょうぞ。加えて、〝別冊家庭の医術〟も」
「宜しいのですか? 随分と貴重な書物かと思うのですが……」
「何、構いませぬ。ただの写しでござる。それに、別冊家庭の医術は那古野城下の家々に常備するよう配っている代物でござる故に」
「ですが、人の手により写した書物であれば、それなりに時間を要しているでしょう」
「いえいえ、人か書き写した訳ではござらぬ」
「……それは一体?」
「薄い木版やらに字や絵を彫り、紙を敷き、色を重ねる故、一度作れば大した手間もなく写せましてな。色の少ない書であれば、一冊写すに一日も掛かりませぬ」
その事に一番驚いたのが、
「な、何ですと!」
三好長慶の付き人然としていた、松永久秀であった。
「えっ?」
「……どうしました、久秀」
だが、松永久秀は答えない。
「そう言えば、近衛前久様が貴重な歌集の写しを多くの者に譲り渡す等して勢力を……。それなれば、儂の……指南書も……」
彼は深い思考の海に落ちた様だ。
「失礼しました。あの者はああなると、しばらく戻らないのです」
「……左様でござるか」
するとそこに、予期せぬ使いが現れた。
しかも、随分と急を要するらしい。
(えー、もう少し三好長慶と語らいたいのに。もしかしたら、日の本の副王との、今生の別れとなるかもしれないのだから)
俺は仕方なく、多少の機密が漏れる可能性を留意しつつ、急使をこの場に呼んだ。
「その方、又左衛門の使いと聞くが、名は何と申す」
旅装の侍が面を上げた。
「はっ! 新介と申しまする!」
その途端、自らの世界に閉じこもっていた松永久秀が現世に戻った。
「ん? ……き、貴様は、柳生の!?」
「ん、某の臣に何か?」
「い、いえ、滅相も……ござい……ませぬ……」
「左様ですか。良かった」
(しかし、柳生? って言ったな。という事は、この若造、柳生の出なのか……。マジかー。京の都で前田利家と遣り合い、気に入ったので配下にした、としか聞いてないんだが……)
俺が繁々と多田野新介を眺めていると、彼は懐から薄汚れた布を取り出し、俺に突き出した。
「それに、一切が記されておりまする!」
多田野新介の顔が強張る。
余程の大事が起きた様だ。
そして、それには確かに、危急が記されていた。
「成る程、これは確かに……」
目にした俺の顔が見る間に曇っていく。
「織田殿、一体何が……。差し支えなければ教えて頂けませんか?」
大事を察知した三好長慶、彼はずいっと首を伸ばし、俺に問うた。
俺はそんな彼に対し、
「ええ、構いませぬよ」
事実を晒す事にした。
ともすれば、彼の方が命の危険が迫っていたからだ。
そして、その危機とは、
「どうやら、野分(台風)が畿内に迫っている様で」
であった。
「それは……本当なのでしょうか? 野分が現れるのを事前に知るなど……」
「何、種あかしをすれば、某が銭を貸し与えた商家、船問屋、等等が気を利かして(本当は強制的に)日の本各地の日々の天気を送って寄越すのでござる」
それらを纏めれば、台風の行き先を事前に知るのも容易。
そして、何故その様な事をしているかと言うと、全ては商いの為である。
米の取引で確実に勝つ為にな。
三好長慶と、その傍に控える松永久秀が、まるで化け物に合ったかの様に顔を青ざめさせた。
「あぁ、大丈夫でござる。今すぐここを立てば雨に降られる前に飯盛山に戻れると思われまする」
「……さ、左様でございますか。では……これにて辞させて頂きます」
「ええ、それが宜しいかと。それでは、また会える時を楽しみにさせて頂きまする」
「…………………………こちらこそ」
後日聞くところによると、三好長慶ら一行は雨に降られる事なく、飯盛山城に入れたらしい。
対する俺はと言うと、
「利益! 前が、前が全く見えぬぞ!」
「息が! 雨で息がしづろうござる!」
「……ーーン! パン! パーーン!」
「何? 何処の阿呆だ、こんな野分の中、鉄砲を撃ったのは! 火薬が勿体ないではないか!」
「わはは! 金の心配とは! 流石、信行様でござるな!」
散々な目に合いつつ、何とか京の都に帰り着いた。
その様はまるで、大敗した兵の如くであったらしい。
--更新履歴
2017/02/10 大風を野分に修正。あと他の誤字も。




