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#074 幕間 関白近衛前久の那古野かな一日

 関白近衛前久の朝は早い。

 日が出ずるよりも早く起き、誰よりも早く鍛錬する、それを日課としていたからだ。

 だが、那古野に逗留してからは些か変わった。

 何故ならば、うっかり寝過ごす事が多くなったのだ。

 それは戦地に長く逗留した所為でもあり、長旅とそれに続く環境の著しい変化、の所為であった。

 この日もまたそう。


「いかん、寝すぎた。それもこれも、これのせいよ」


 近衞前久はそう口にし、恨めしそうに自らに掛けられた薄い布を見て独り言ちる。

 それは夏用にと薄く拵えた羽毛布団であった。




 この日の朝餉は卯の刻(午前六時)に摂り始めた。

 屋敷の誰よりも早く頂戴するのが近衛前久の好みであった。

 さて、戦国時代における食事は一日二食、早朝と夕方に摂るのが一般的である。

 その訳は、火を炊いて料理を賄うのが大仕事だからだ。

 だが、朝廷を中心とした公家社会は別である。

 朝食の後は昼過ぎに昼食を軽く摂り、日没後の夜に夕食を摂っていたのだ。

 ただ、どちらにも共通するのは、朝は夜に比べ軽めの食事になる、という事。

 某国の大統領の如く、客である貴人に対して朝からステーキを振る舞う、など有り得ないのである。

 しかし、ここは那古野であった。

 一般常識の通じない地、となって久しかった。

 朝食もまた、その”一般常識”から逸脱した物の一つ、であったのだ。

 その証拠に……

 今、客人である近衛前久に一の膳が供されていた。

 香ばしい味噌ダレの香りが彼の鼻腔をくすぐる。

 それは細長い魚の身を焼いた代物から立ち昇っていた。


「これは……もしや武奈伎か?」

「はい、信行様はウナギと申されておりまする。それを”味噌ダレ”に軽く漬けた後に焼いた物、と聞き及んでございまする」


 配膳した従者が答えた。

 彼は京の都より共にしてきた者の一人である。


「どれ? ……ほう、これはまた。口の中で武奈伎の身が溶けるかの如く! いや、至極美味である!」


 ここ那古野では、京はもとより日の本の何処でも見た事も、聞いた事も無い料理が多く、近衛前久が飽きる事はなかった。




 辰の刻になろうかという頃合いには必ずと言って良いほど、一人の客が近衛前久の許を訪れる。

 それは、


「よう来たな、利益。今日も世話になるぞ」

「心得たでござる!」


 那古野における近衛前久の案内人、前田利益であった。

 この者、何故か和歌や書等をこよなく嗜む、所謂歌舞伎者の一人、それでいて一廉の武人。

 そこが関白殿下の琴線に触れたのだろうか、那古野の地における介添え人に望まれたのだ。


「此度は何処を案内してくれるのだ?」

「本日は清洲にござる」


 那古野から清洲へは馬車を走らせる。

 それも”那古野大路”を使って。

 なお、那古野大路とは織田領内における那古野へと至る”道路”の事である。

 近頃では歩道を有し、幅は六間(十メートル)にも及ぶ。

 屈曲の少ない舗装された街道であった。

 辻には時折、番屋が設けられている。

 不審な者が往来していないか、見張る為に。

 三和土(和製コンクリート)にて造られたそれは、京の都に建つ家屋とは一風変わった趣を呈していた。

 だが今や、織田領内の街中の家屋はこの建築手法で占められている。

 ”織田法度之次第”にて、そう定められているからだ。


 近衛前久が見慣れぬ景色を楽しむ中、やがて馬車が庄内川に差し掛かったのが判った。

 庄内川大堤が見え始めたからだ。

 それは庄内川の氾濫を恐れ、三和土をふんだんに用いた大堤防。

 高さは人の背丈の数倍に及ぶ。

 時折、踊り場の如く広場が造られてはいるが、そこには南蛮製の大筒が据えられている。

 戦場に持ち出すには重すぎ、ここに置かれる事になったのだ。

 大筒の側には高い櫓が聳え立っていた。


「こ、これは……」

「関白殿下におかれましては初めて目にされるかと存じまする。那古野の”総構え”にございまする」

「総……構え? あの、北条は小田原の……か?」

「正しく。信行様の肝入りにございまする」

「……」




 清洲城とその城下もまた、大堤に周囲を守られていた。

 那古野の総構えと同じく、所々に南蛮製の大砲を配置してだ。

 さて、この清洲城。

 嘗ては尾張守護の居城であった。

 それが今では岡本良勝なる鋳物師上がりの若侍に預けられ、様々な取り組みがなされる”学校”に様変わりしていた。

 関白近衛前久の清洲訪問はその学校を見聞して貰う為に、前田利益が計画したのである。


 清洲において、近衛前久一行が最初に訪問した場所は、


「関白殿下、この者が岡本良勝でござる」

「か、関白殿下!? ひぃ!」


 岡本良勝の、雑多な金物で出来た”何か”が散らばる工房であった。

 予定を聞かされていたとはいえ、貴人の訪問である。

 岡本良勝は慌てて、その場で平伏した。


「忍んで参ったのだ。面を上げてくれぬか。尋ねたき事も些かある故にな」


 近衛前久が岡本良勝に言葉を掛けた。

 すると、従者の一人が平伏す若侍に近寄り、


「関白殿下は直答を許された。面を上げられよ」


 助け起こす。

 起こされた岡本良勝は極度に緊張していたのだろう、辛うじて、


「な、何なりと……」


 と声を出すので精一杯、という有様であった。


 岡本良勝が落ち着きを見せるまでの間、近衛前久は工房を見て回った。

 そこには那古野の街中で見た物も、初めて目にする物も様々であった。

 実に興味がある様子。

 だからであろう、近衛前久は頃合いと見るや、矢継ぎ早に問いを重ねたのである。


「早速だが、これは何であろう?」

「せ、千歯扱きにございまする。稲穂から(もみ)を取るのに使う物にございまする。これまで用いられた”こきばし”より遥かに能がようございまする」

「これは?」

「枠まわしにございまする。苗を等間隔に植える際の印を水田に描きまする。苗を等間隔に植えますると、収量が増えまする」

「これは?」

「田車にございまする。水田に生えた余分な草を……」

「これは?」

「押切式刈取機にございまする。押す事により稲穂を……」

「火縄鉄砲用の治具(じぐ)にございまする。これにより火縄鉄砲の一部が壊れ……」

「活版印刷機にございまする。特に危急を要する……」

「手押し喞筒(ポンプ)にございまする。井戸から水を汲み……」


 一通り説明を受け、また、作るにあたり苦労した話を直接聞く事ができ、近衛前久は感じ入ったのだろう、


「流石は太陽熱温水器を生み出した”岡本良勝”である! 身共は感服仕った!」


 岡本良勝を激賞した。

 すると、思いも掛けない事に恐縮至極な当人。

 彼は思わず、


「め、め、滅相もございませぬ。これらは全て信行様が命じるまま作った代物にございますれば、お褒め頂くならば信行様……」


 と零した。


「何を言う、岡本良勝。命ずるも、創意工夫し作り上げたのはその方であろう。なれば、その方の手柄よ。それに、主を敬うは良いが、立て過ぎるのも考えものぞ?」

「へ、へぇ……」


 岡本良勝に関白近衛前久の誤解を解く、そこ程の胆力はなかった。


 近衛前久は最後に、今作りかけの物が何かを尋ねた。


「”おるごうる”でございまする。取っ手を回すと突起の生えた筒が周り、音を奏でる……未だ音は出ませぬが……」

「ほう、おるごうる、とな?」

「南蛮ではそう申すと、信行様が。ですが……」

「ん?」

「トーレス殿は知らぬと申され、ほとほと困っておりまする」

「……」


 近衛前久が次に問うたのは、明らかに鋼で造られた”大弓”であった。


「……鉄の大弓でございまする」

「それは分かる。が、何故……」

「信行様が人を相手に殴りつけても壊れぬ弓を作れ、と……」

「……弓は人を殴る代物ではないぞ?」

「しょ、承知しておりまする……」

「……存外、苦労しておるのだな」

「………………の、信行様には大変得難い機会を頂戴しておりまする」


 岡本良勝の瞳は、近衛前久の目にも淡く輝き始めているのが分かった。

 近衛前久が次の場所に向かう為その場を後にした頃合い、鼻を啜る音が背に当たった。




 次は嘗ての評定の間であった。

 その場所では南蛮人の一人が、地球儀を片手に講じていた。

 斎藤龍興を含む、織田家や国宰を務める者の子らを相手に。

 所謂、次代のリーダーに対するエリート教育の一環であった。


「利益、何故南蛮人が講じておるのだ?」

「はっ! 信行様曰く、”己を知り、相手を知らば百戦危うからず。南蛮人を知って、これからの世に備えよ”と申された次第でござる」

「ふむ、理に適っておるか。されど……なになに? 西暦一〇九六年、十字軍による第一回目の遠征? そも、西暦とは何ぞや? いやまて、騎士と呼ばれる南蛮人の武家だけでなく、民草を含めた数十万の軍勢が異教徒の都エルサレム? を攻囲。七万もの異教の民を根切り、略奪した……。何と恐ろしい事を……」


 近衛前久の額に深い溝が刻まれた。


「近衛前久様、ところが真の恐ろしさはそこではございませぬ」

「まだ他にあるのか?」

「左様でござる。トーレス殿の指し示す地球儀をご覧下され」

「ん? あぁ、何とあれ程の長き道のりを数十万の民草が移動したと言うのか!? あ、有り得ぬ。日の本の数倍はあるではないか。利益、糧食も少なくはあるまい? 一体、如何程の……」

「十字軍に参加した民草が持ち出した糧食は、多くて数日分、であったと聞き及んでおりまする」


 前田利益はそれ以上答えはしなかった。

 その理由は、


「ま、まさか、あれ程の道程を乱取りを行いながらであろうか?」


 であった。


「左様でござる。十字軍とは甚だ恐ろしい存在でございまする」


 近衛前久はゴクリと喉を鳴らした。

 刹那、場違いな事に気付く。


「はて? 利益も随分と詳しいのう。かの南蛮人に教えを乞うたのか?」


 近衛前久のこの素朴な疑問は当然と言えば、当然であった。


「いえ、某を含む織田家の家老衆はその任を拝命する際に一通り教授されたでござる」

「ほう、トーレスとやらにか?」

「いえいえ、信行様から直々に、でございまする」

「……? 信行殿が自ら? はて?」




 その夜、近衛前久は織田信行を尋ねた。

 彼にはどうしても口にしたき事があったからだ。

 小姓が小走りで駆け出す。

 織田信行がいるであろう、彼のお気に入りである書院に向かう。

 ちょどその頃、その書院の中で織田家の棟梁である織田信行が頭を抱えていた。


「うーん、今度は何を書き残そうか? ……石油在り処、とか? でも、枯渇するとそれはそれで困るしなぁ……」


 と独り言を呟きながら。

 そこに小姓が関白近衛前久の訪問を伝える。

 織田信行は「何時ものことか」と思いながら、


「お通ししろ」


 と申しつけた。


 近衛前久は通された書院にて織田信行の顔を見るや否や、


「岡本良勝は鬼才の申し子、いや、神童よ! 身共から何ぞ官位を奏請(そうせい)しようと思う」


 岡本良勝を褒めそやすのであった。

 また、この日那古野で見知った事を熱く語った。

 織田信行は有難く拝聴する姿勢をとりながらも、


(天才、天才、ねぇ。天才といえば……E=mc^2?)


 と一人考えに耽っていた。


(いや、流石に不味いか……。となると……)


 近衛前久の、那古野における和やかな一日、はこうして過ぎ去っていく。

 それは彼の心にいつまでも色褪せる事なく残った。

長らく岡本良勝を田中良勝と誤って書いておりました。

本当に申し訳有りませんでした。

大変反省しております。


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