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#007 那古野城の攻防(4)


「皆殺しにせよ!!!!」


 織田信長がそう叫んだ時、東の空は仄かな桃色が差していた。

 俗に言う”ビーナスベルト”。

 沈む太陽の光が東の空に届き、低い空を淡い色で帯状に染める。

 地平線との間には黒い、地球の影が浮かび上がっていた。


「急げ!! 一刻も早く勘十郎めの首を落とせ!!!」


 夜の闇が直ぐそこにまで近づいて来ていた。

 そうなっては全てが水泡に帰ってしまう。


(まだか!? まだ現れぬのか!?)


 騎馬の群れが一塊となり城門を目指す。

 地面が揺れ、馬蹄が地を打つ音が轟く。

 しかし、彼の目は騎馬を捉えてはいない。


(勘十郎の手が上か、それとも余の手がそれを上回れるか……)


 彼はただただ、北の地平を睨みつけていた。






  ◇






 俺の耳に、馬の群れが立てた地響きが届いた。

 それは、始めは微かにだが地の揺れを伴っていた。

 やがては、はっきりと感じる程の揺れ具合に変わる。


 聞こえて来る音に、馬の(いなな)きが加わった。

 更には人の怒声までが入ってきた。

 城の塀越しに、舞い上がった土埃を見た。

 それは砂漠の砂嵐のようであった。


「馬廻衆! その数二十! 二列縦隊でござる!」

(遂に来たか……)


 既に味方の三割が戦闘不能と思われる。

 つまり、満足に戦えるのが、残すところ五十名前後しかいない状況なのだ。

 その五十名も、自軍の数倍の数を要する敵軍と一時間以上に渡る戦いで疲労困憊。

 ただの足軽相手ですら、迎え撃つのは困難である。


(……流石だな、信長)


 最も効果的なタイミングで自軍最強の手駒、馬廻衆を出して来た。

 それも攻城戦、城への突入にだ。

 恐らく、常識では考えられない手だろう。

 が、ここは平城。

 大手門の前には階段どころか、坂すらもない。

 信長は躊躇なく、騎馬での突撃を選択した。


 味方の兵の多くが希望を失いつつあるだろう。

 現に、俺の間近で指揮を執っている津々木蔵人(つづきくらんど)ですら、親の死を目前にしているかの様だ。

 言葉がない。

 心が麻痺して、表情が変えられない。

 目に光が宿っていない。

 体が動かない。

 ……人はそれを”絶望”と名付けていた。


「しっかりせい! この戦! まだ終わりにあらず!! さぁ、この織田勘十郎信行をば見てみよ! 戦を諦めた将がこの様な事をしてたまるか!!」


 俺は信長ばりに声を張り上げた。

 大弓を構え、引き絞った。

 矢の先には、赤々とした火が灯っている。

 俺はその体勢を維持しつつ、体を空に向けた。

 目にオリオン座が映えた。


(神話の狩人が見えるとは、これは僥倖! 我に無事、獲物を狩らせたまえ!)


 その直後、


「信行様! 目印を越えました!」


 合図が鳴った。


「南無八幡大菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神! 我一芸を御照覧あれ!」


 俺は大弓の弦を離した。

 風切り音が鳴った。

 放たれた火矢は一筋の放物線を空に描いた。

 その白き線は場外からも見えたのだろう。


「馬廻衆!! 用心せい!!!」


 信長の声が轟いた。

 が、


「遅いわ!!」


 既に信長の馬廻衆はトップスピードで城門を(くぐ)ろうとしていた。


 重力に導かれるまま、火矢は落ちていく。

 やがて、光は地面に吸い込まれた。

 穴の中に埋めた瓶に落ちたのだ。

 刹那、強烈な爆発が起こった。

 空気が激しく震えた。

 土が高く吹き上がった。

 そして何よりも、人の背丈の数倍の高さにまで、火柱が立ち上がった。

 埋めてあった火薬と、同じくその周囲に埋められた油が、そうならしめたのだ。


 爆発音に驚いた馬が、乗り手を振り落として逃げた。

 止まる事が出来ずにいた人馬は、火柱に突っ込み、そのまま火に塗れた。

 阿鼻叫喚が幾つも起こった。

 城門の周りはつい先ほどまで行われていた戦闘以上の、喧騒に包まれた。


「な、何事だ!」

「おっと、森可成殿! 勝負の最中ですぞ?」

「ぐっ……おのれ小癪なっ!」


 二人の武将の具足が燃え盛る炎により、茜色に彩られていた。






  ◇






 あの信長ですら、高く昇った火柱を見て、目を丸くして見ていた。

 だが、直ぐ様、


「チッ、勘十郎めが!」


 平静を取り戻した。

 そこに一人の小姓が馬を寄せた。


「信長様! お伝え申します!」

「……犬か。申せ!」

「はっ! 岩倉勢が庄内川を越えたとの事。その数、五十。全て騎馬となります」

「遅かったな。して将は?」

「はっ! 林弥七郎様に御座いまする」

「ほう、あの”隠れなき弓達者”の弥七郎か。ちょうど良い」

「では……」

「うむ、今暫く待つ。岩倉勢を目にする事が……」


 その時、あろう事か信長の言を遮る者が現れた。

 それは周囲の警戒の為に放っていた者の一人。

 彼は肩で息をつき、疲労困憊としていた。

 一見して、余程の事があったと思えた。


「何事か貴様! 信長様の御前な……」

「構わぬ! 申せ!」

「はっ! も、申し……上げます! 守山、末森、古渡から……軍勢の……姿これ有り! その数、少なく見積もって……」


 使い番(伝令)の男は口ごもった。

 余りに有り得ない数だったからだ。


「構わぬ! 伝えられた通りに申せ!」

「はっ、ははっ! その数、少なく見積もって千! 多くて三千に迫りまする!」


 その言葉に声を荒げたのは、


「馬鹿を申せ! 有り得ぬわ!」


 小姓の前田犬千代であった。

 しかし、信長は平伏する男をマジマジと凝視しただけ。

 その間、僅か数秒。

 やがて、ゆっくりと馬の向きを反転させた信長は、


「清洲に戻る」


 とだけ口にした。

 その時、信長の顔は誰にも伺えなかった。






  ◇






 戦場に鐘の音が鳴り響いた。


「何だ?」


 俺は素直な疑問を口にした。

 すると、


「退き鐘に決まっておりまする!」


 津々木蔵人が答えた。

 暫く前に気を取り戻したのだ。

 もっとも、顔色は酷く悪いままだがな。


(退き鐘という事は……退却! そうか、俺の策が成ったか!)


 ならば最後の一手を指すのみ。


「誰ぞ、馬を曳けぃ!」

「の、信行様! まだ城内には大将首の森可成がおりまするぞ!?」

「放っておけ! 馬廻衆の馬が離散した今、恐らく兄上は数騎のお供のみで清洲に向かっている筈だ! ここで追えば庄内川の渡し場で追い付ける! この機を逃せるか! 十騎程度で構わぬ! 支度をいたせい!」

「ははっ!」


 それは”王手”であった。




 俺は急いていた。

 織田信長を逃すまいと。

 俺は興奮していた。

 あの歴史上の覇者、”織田信長”を追い詰めんとしている事に。

 大弓を携え、馬を走らせる。

 俺は自覚していた、自身の顔が醜く破顔している事に。

 俺は楽しくて仕方がなかったのだ。




  ◇




「信長様! 追っ手に御座います!」

「数は!?」

「十騎程かと!」

「将は誰か!?」

「信行様に!」

「であるか! このままの渡し場に向かう! ついて参れ!」

「はっ!」


 信長もまた、高揚していた。

 自らの後を追う者がいる事に。

 それが実弟、織田勘十郎信行であることに。

 彼にはそれが、堪らなかった。


「げにも楽しいのう、勘十郎。のう、お主もそう思うておるであろう?」


 信長はチラリと振り返り、追っ手の姿を垣間見た。

 その先頭にある男の顔を見て、更に顔を歪ませる。

 剥き出しになった歯茎の間から音が零れた。


「さぁ、余に追いついてみよ、勘十郎! 見事追いつかば、お主が欲した物を馳走してやろうぞ!」


 その音は、風切り音に掻き消され、後に続く前田犬千代にすら聞き取れなかった。




  ◇




 俺は庄内川の渡し場の直前で、信長を完全に捉えた。

 川岸に追い詰めれば俺の勝ちだ、そう信じて止まなかった。

 馬上の俺の鼻に、水の香りが届いた。


(後少し、もう少しで、俺があの信長に……)


 その時、俺の鼻が違和感を感じた。

 いや、妙な香りが風に乗って鼻をついたのだ。

 川に近づけば近づくほど、その香りは強くなった。


(これは一体? いや、どこか懐かしい……。夏の思い出が蘇るかのような……)


 刹那、俺は理解した。


「止まれ! 者共止まれ! これ以上は決して進むな! 馬から降りよ! 馬を盾にしろ!」


 思い出したのは線香花火の香り。

 それが意味するところは、


「この先に鉄砲衆が待ち構えておるぞ! 降りて馬を盾にせよ!」


 であった。

 俺は瞬時に悟った。


(ま、まさか! ここまでが信長の策だったのか!? 俺が信長を策に嵌め、逃げる信長を追うまでが策だったと言うのか!!)


 その証拠に、俺達が馬を降りた途端、信長も馬の足を止めた。

 その顔には忌々しそうな色が大いに現れていた。


(あっ、危なかった! 西高東低の冬型の気圧配置じゃなかったら、俺は今頃……)


 俺は戦慄した。

 戦国時代に俺の意識が現れて、一日ももたずに死にかけた事実に。

 そして、その原因となった織田信長に対して。




 僅かの間その場に留まっていると、土手の影や川岸に繁茂している葦草の合間から、鉄砲を構えた者達がゾロゾロと這い出てきた。

 彼らは信長の左右に並び、銃口を俺達に向けた。

 その数およそ、


「の、信行様。少なくとも五十はおりまする……」


 俺達の五倍。

 相手の得物は鉄砲。

 こちらの得物は槍と俺の大弓のみ。

 互いの距離は二百メートル前後。

 これ以上近づけば、俺たちは圧倒的に不利であった。

 この時代の鉄砲、つまり火縄銃の殺傷距離は百五十メートルと聞いていたからだ。


(さて、どうしたものか……)


 すると、


「一益! 鉄砲を寄越せ!」


 信長が鉄砲衆の棟梁と思わしき男から火縄銃を受け取るのが見えた。

 日は完全に暮れ、空には月と満天の星空。

 濃尾平野の西方、養老山地の真っ黒な影との対比が此の世とは思えぬ、幻想的な景色を描いている。

 人馬の吐く息が白い靄を生んでいた。


 信長は鉄砲衆の隊列の前に出ようとした。

 小姓の一人に止められるも、強烈に叱責して下がらせた。

 やがては現れ、構えた銃口を俺に向けた。


「ようも、止まりおったな、勘十郎!! 今日、お主を仕留め損なったのはこれで二度目よ!!」


 俺も信長に合わせ、一歩、もう一歩と前に出た。


(……二度? 三度目ではなく?)


 と考えながら。

 大弓に矢を番え、引き絞りながら。

 冬の凍てつく空気が、指先をかじかませた。


(大弓の最大飛距離は四百メートル、だが殺傷距離は百メートル前後……)


 嫌な汗が、俺の頭から滲み出てきた。


「如何にして分かった、勘十郎!!」


 場違いな問答。

 俺はニヤリと笑った。


「風、ですよ兄上! この季節は北から風が吹きまする!」


 信長の足がじわり、じわり、と前に進んだ。


「であるか!!」


 静寂が戻った。


(おいおい、聞きたいことはそれだけか? ならば……)

「兄上に伺い申す!」

「許す!!」

「これはありがたき! さて! 兄上におかれ! いやさ、織田上総介信長におかれ、己の命すら預けられる、信の置ける者はどなたであろうか!? それとも誰もござらんか!?」

(さぁ! どう答える!)


 しかし、俺の興味本位の問いは、


「オォォォノォォォレェェェ…………勘十郎ぉぉおおおお!!!」


 憤怒で返された。

 銃口がピタリと止まり、俺に向けられる。

 俺の額から汗が一条、流れた。

 刹那、


(待ってました!)


 俺は引いていた弦を矢羽と共に、そっと放した。


 月明かりの青白い光の下、矢は白く輝いていた。

 矢は風を切り、百五十メートルはあった距離を一瞬で無に帰していった。

 矢は一点のみを目指して飛びすさっていた。


「あっ!」


 誰もが口を揃えて叫んだ。

 信長方の鉄砲衆も俺の率いた騎馬達もだ。

 俺は自ら射た結果に満足し、大きく破顔した。

 大弓を天に向けて掲げ、二本の指を前に突き出した。


「お! おのれ!! 余に対して味な真似をしおってからに!! それに何じゃその二の指は!! これで二度、余を殺められたのに殺めなかった、そう申したいのか!!!」


 信長はそう叫び、銃口に矢が突き刺さった鉄砲を投げ捨てる。

 そして、鉄砲衆の前にまで戻ったかと思うと、傍にいた者から鉄砲を取り上げ、


「勘十郎如きに遅れは取らぬわ!!!」


 信長は間髪入れずに構え、引き金を引いた。

 それは瞬きをする程の、一瞬の事であった。

 信長の構えた鉄砲が火薬を爆ぜた音を鳴らした。


「なっ!?」


 俺はこの距離で鉄砲を撃つとは思ってはいなかった。

 鉄砲衆のいる所に迄戻ったことで、直線距離で百五十メートル以上。

 玉が当たったとしても、鎧を打ち抜ける筈もなく、また怪我を与えられるにしても浅い。

 それにも増して、正確に狙った相手に当てるなど不可能、な筈だった……


 俺の掲げていた大弓が突如、手の中で大きく暴れた。

 思わず、俺は落としてしまった。

 落とした大弓は形が崩れている。

 張っていた弦が切れてしまったようだ。


「はっ! まさか!」


 俺は慌てて信長に目を向けた。

 すると、彼は三本の指を俺に突き出していた。

 歯茎を剥き出しにして、俺を笑っていた。


「どうじゃ、勘十郎!! 余の勝ちであろう!!!」


 勝ち誇っていた。

 やがて、満足したのだろうか、


「興醒めじゃ!! 戻るぞ!! 余の後に続けい!!」


 信長は一人馬に乗り、川のある方、清洲城のある方へと向かう。

 残された信長方の鉄砲衆は、構えた鉄砲の銃口と自らの目を俺達に向けながら、ゆっくりと後ずさりし始めた。


 残された俺達は唖然とし、その様を見送り続けたのであった。

--更新履歴

2017/10/31 誤字修正


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