#069 将軍足利義輝
永禄五年(西暦一五六二年)五月某日、山城国 八幡 男山八幡宮
ぱらぱらという音と共に、五月雨が降り始める。
雨は忽ち、社を囲う木々を濡らした。
乾いた石庭をも黒く染め始めた。
特有の匂いが立ち込め、辺りを覆った。
そんな景色を一人の偉丈夫が笑いながら見ていた。
縁側に腰掛けながら。
傍には武士が一人、平伏しながら控えている。
その武士が、
「公方様……」
恐る恐るといった声を発した。
が、公方様と呼ばれた偉丈夫、足利義輝は何一つ答えはしない。
何故ならば、足利義輝は自らの過去を顧み、嗤っていたからである。
足利義輝は天文一五年(西暦一五四六年)、父である足利義晴から幕府将軍職を譲られた。
僅か十一歳での事である。
しかも、場所は京の都ではなく、近江国は坂本の日吉神社(現日吉大社)において。
何故ならばこの当時、足利義晴親子は幕府管領である細川晴元により度々都を追われ、逃れていたからだ。
同時に、些か早い元服も執り行われ、名を菊童丸から義藤と改めた。
烏帽子親は事ある毎に多大な支援をしてくれる六角定頼。
子供心にもその式は見事な代物であり、足利義輝は甚く感激したらしい。
天文一七年(西暦一五四八年)、父である足利義晴と争っていた相手、細川晴元との間で和議が成り、漸く京の都へ戻る事が叶った。
ところがである。
細川晴元の家臣、三好長慶が主に対して反旗を翻した。
有ろう事か、細川晴元の政敵であり、何度も矢を交えた相手でもある細川氏綱に付く形で。
翌天文一八年(西暦一五四九年)、細川晴元は三好長慶との間で起きた”江口の戦い”に敗れ、京の都から近江坂本に落ち延びた。
足利義晴とその嫡男である義藤も共に。
将軍には最早、独力で抗う力は無かった。
致し方の無い事であった。
天文一九年(西暦一五五〇年)、失意のまま、父である足利義晴がこの世を去った。
足利義藤は今際の際の、父の無念を噛み締めながら、人知れず幾夜も泣き明かした。
しかし、時勢は留まる事を知らなかった。
この機を逃さぬと、三好長慶が近江坂本へ攻め入ってきたのだ。
致し方なく、足利義藤は居城を焼き払い、堅田へと逃げ延びた。
そここそが、新たな安住の地だと信じながら。
だが、その思いは簡単に打ち砕かれた。
堅田衆と呼ばれる者達が商いの邪魔になると暗に述べ、朽木へと更に落ちざるを得なくなったのだ。
正に忸怩たる思い。
歳十五の、将軍職に着く若武者にとって、この出来事は忘れ難い思い出となった。
「この恨み、晴らさでおくべきか!」
と勢い余ってか、近江坂本へと追い立てた張本人、三好長慶の暗殺を図るも事を仕損じた。
それどころか、大事な家臣の一人を失う事となる。
足利義藤は自らの短慮をたいそう嘆いたのであった。
足利義藤は、不幸とは度重なるものであると知った。
天文二一年(西暦一五五二年)、永らく足利義藤の後ろ盾であった六角定頼が亡くなったのだ。
すると、後を継いだ六角義賢が掌を返す事にしたのか、足利義藤に三好長慶との和睦を勧め始める。
後の無くなった足利義藤は致し方なく受け入れた。
父の仇である、憎っくき三好長慶との和睦を。
それも、細川氏綱を新たな管領として認めるなどと言う、条件を付けられた上でだ。
最も、この条件は認めるも何も、既成事実であった。
言うなれば、追認、である。
齢十六の、力の無い若者にとっては如何にもならぬ”現実”であった。
再び入洛が叶った足利義藤。
が、彼に待ち受けていた”現実”はより酷な代物であった。
それは、三好長慶とその家来である松永久秀の傀儡に成り下がる事、家来の家来のそのまた家来の操り人形へと落ちる事であったのだ。
そんな足利義藤に微かな光明が差した。
天文二二年(西暦一五五三年)、下克上を果たした大名共(斎藤義龍、織田信長、長尾景虎ら)が足利義藤に対して、相次いで謁見を申し込んできたのだ。
「ついにこの時が来たか!」
足利義藤は京の都から落ち延びた間も、再び入洛した後も、将軍権威の再興を目指し、諸国の戦国大名間の修好に励んでいた。
その成果が表れたと、殊の外喜んだのである。
それどころか、有頂天にすらなったのだろう。
力を取り戻した、と思い上がった足利義藤は密かに通じていた細川晴元と共に反細川氏綱、反三好長慶を旗印に挙兵し、そして、敗れ去った。
また、京の都から落ち延び、朽木へと下ったのである。
以来、足利義藤は自らの力の無さを痛感したのだろう、武芸に明け暮れる事となった。
そう、日々武芸に没頭したのだ。
まるで、現実から逃避するかの様に。
事実、数年間は目立った動きを見せる事が無かった。
永禄元年(西暦一五五八年)、足利義輝(改名した)は改元された事を知らされず、長らく古い年号”弘治”を使い続け、赤っ恥をかかされた。
その所為か否か、足利義輝は長い雌伏の時を経て、新たな戦端を開いた。
再び支援の手を差し伸べて来た六角義賢と共に。
足利義輝の優勢に進む戦局。
しかし、やがてこう着状態に。
最大の後援者である六角義賢が渋り始めたからであった。
「義賢! 如何いたした!」
憤懣遣る方無い足利義輝。
だが、兵の大半が六角勢とその取り巻きである。
幕府将軍職に就く彼が何を言っても、何一つ動く者はいなかった。
結局の所、後ろ盾であり、最大の兵力を擁した六角義賢が”足利義輝と三好長慶との間を仲介する”と形で和議が成り、足利義輝は五年ぶりの、京の都への凱旋が実現された。
この事もまた、足利義輝は自らの力の無さ、将軍としての権威の無さを痛感する事となる。
それもあったのだろう、この年、足利義輝は公家である近衞家の娘を正室を娶ったのであった。
その翌年、足利義輝にとって俄かに信じ難い事が起きた。
足利家に連なる名門中の名門、今川家が窮地に陥ったと言うのだ。
それも織田と言う、尾張を統一したばかりの出来星大名に。
「尾張の織田? 確か……織田、……織田信長であったか?」
足利義輝の知る織田はその名前だけであった。
「何、違う? 信行? 知らぬな。まぁ、何にしろ、和議を取り持てば良いのであろう? 下克上を果たした大名は兎角、権威を欲しがるものよ」
彼は請われたまま、御内書を認めた。
これは自らの威光を試す為でもあった。
だが、この試みは不首尾に終わる。
父の代から使える家臣の一人、和田惟政を遣わすも体良く躱され、それどころか、今川家を瞬く間に取り込まれたのだ。
しかもこの直後、織田信行が自らと同じ年の生まれと知り、これまでに無い、訳の分からぬ苛立ちを足利義輝は覚えたのであった。
永禄三年(西暦一五六〇年)、足利義輝は諸大名の力を取り込む為、相伴衆の拡充を図った。
具体的には毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、三好長慶、三好義興、武田信虎らに対して打診し、斎藤義龍以外が応じ、その者らを任じた。
聞く所によると、斎藤義龍が断ったのは織田信行、かの者の存在を恐れた為だという。
この時、足利義輝は織田信行に対し、明確な怒りを覚えた。
表向きは友好な関係を築いている三好長慶、その者以上に腹立たしい、と足利義輝が唸り声を上げる程に。
が、所詮は遠く離れた東国の出来事。
足利義輝は一時の怒りを忘れ、自らの権威を高める為、将軍の権勢を取り戻す為、政に邁進する。
永禄四年(西暦一五六一年)、足利義輝は前信濃守護である小笠原長時の信濃復帰、その支援を長尾景虎に命じ、快諾された。
同年三月には三好長慶の実弟である十河一存が齢三十で急死した。
傍に三好長慶の家臣である松永久秀がいたらしく、その者による暗殺であると噂が流れた。
足利義輝は三好勢の弱体化を感じ取り、細川晴元、畠山高政、並びに六角義賢に通じ、兵を集めさせた。
そして同年夏、彼らに三好攻めを行わせるのであった。
「うむ、でかした!」
永禄五年(西暦一五六二年)、足利義輝、望外の喜びに震える。
久米田の戦いにて仇敵である三好長慶の実弟、三好実休が畠山勢の手により討ち取られたのだ。
これに先立って、三好長慶が連歌に耽り、政を顧みない有様、と足利義輝は聞き及んでいた。
そして、その実権が緩やかに嫡男である三好義興と三好長慶の実弟である三好実休とに移される最中であった。
「これで、いよいよ三好勢は弱体化するであろうな!」
後日、更なる吉報が足利義輝の耳に届いた。
僅かばかり前、とある策を成すが為、彼は新たに美濃国国主である一色龍興を相伴衆とした。
その美濃国が、瞬く間に織田信行の手により陥落したと言うのだ。
周りの者は口々に言う、この時ほど公方様の御気分が優れられた時はなかった、と。
そして、足利義輝は日をおかず、幾つもの御内書を認めたのであった。
そして、今より数日前の五月一九日。
河内国教興寺付近で三好勢六万の軍勢と、畠山四万の軍勢が対峙した。
当日は忌々しくも、那古野瓦版に記された通りに雨が降った。
三好勢は畠山の鉄砲を恐れていた。
何といっても、三好実休はその一発により命を落としたのだから。
当初優勢であった畠山勢ではあったが、日が落ちる直前三好勢が反転大攻勢を掛けた。
崩れ始める畠山勢。
そこを助けたのが遅れて戦場に辿り着いた六角勢二万であった。
その刹那、戦局が一変した。
崩れかけていた畠山勢が盛り返し、逆に三好勢が崩れ始めた。
それもその筈、三好勢は横合いを突かれた形なのだから。
だが、三好勢も強かであった。
三好勢の盟主である三好長慶、その者が至近にある飯盛山城に在城する為、戦場から離れる訳にはいかない。
その為、決死の反転を辛くも行い、多大な犠牲を払いつつ、畠山勢と六角勢を正面に相対する位置を取ったのであった。
畠山勢・六角勢からして見れば、正面に三好勢、横に飯盛山城。
三好勢に大きな損害を与えたとは言え、決して有利になったとは言えなかったのである。
時折、互いが矢を交わすが大局は微動だにしない。
こうして、総勢十二万を超える戦は袋小路へと入り込んだのであった。
足利義輝はこの一連の出来事を直に眺める事すら出来ないでいた。
何故ならば、彼は松永久秀の手により身柄を抑えられていたからだ。
山城国の男山八幡宮において。
幕府将軍職に就く者として、実に不甲斐ない有様であった。
故に彼は自らを嗤ったのである。
「惟政、将軍とは京の都にあってこそ。そうは思わぬか?」
「正しくその通りに御座いまする!」
和田惟政は力強く応じた。
彼の返す言葉には、皮肉めいた色は一つも無い。
ただただ、そうあるべき事を愚直に答えたまで、であった。
足利義輝は小さく笑った後、更なる問答を続けた。
「京の都は山城国にあるな?」
「左様に御座いまする!」
「なれば、余が山城国を有して何が悪い?」
「寧ろ、そう有るべきで御座いまする!」
「されど、余には力がない。力を借りて戦を生みはしたが、この有様よ」
「それもまた、必然に御座いまする!」
「だが、何時迄も他力のままでは不味かろう?」
「某ども、奉公衆が御座いますれば!」
「そうだな。余には奉公衆がある。……が、足らぬ。三好長慶を見てみよ。彼奴は此度の戦に兵を六万ばかし集めておるぞ?」
「そ、それは……」
答えに詰まる和田惟政。
足利義輝はこの時初めて、振り返った。
「思えばこの世は戦国乱世。力無き者は討たれ、いずれは消え去るのみ。それは将軍家を世襲する足利ですらその例外では無い。なればな、和田惟政」
「な、なれば?」
「我らも下克上して見せようではないか!」
「は? 、いや、ははっ!」
自らの言葉が如何に馬鹿げた言葉であったか、目の前の忠臣の顔が如実に物語っていた。
齢二十六の若武者は思わず、生まれたばかりの赤子が初めて笑うかのように、大いに笑った。
◇
永禄五年(西暦一五六二年)六月某日、山城国
この日、尾張から偉丈夫の一行が京の都に足を踏み入れた。
その彼らが今、しげしげと眺めたるは六角氏が掲げたる高札。
そこには、都で三好の家人ならびに兵を見つけた者には褒美を取らせる、と記してあった。
「又左衞門殿、何がそう楽しいので?」
「いや、何。半兵衛の手を煩わせる類ではない。が、一つ腕試しにやってみても面白いかと思うた」
「……ふむ、金は幾らあっても困らぬ物。それに、意外な伝が広がるやも知れませぬな」
「なればやってみるか。尤も、定宗殿が頷けば、だがな」
二つの影が意気揚々と、その場を後にした。
--更新履歴
2016/11/08 誤字を修正
2017/01/13 誤字を修正
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