#063 井口
稲葉山城。
長良川沿いに聳え立つ、標高三百二十九メートルを有する稲葉山(現代の金華山)の山頂に築かれた城である。
その稲葉山を中心に幾つかの山々が峰続きに存在し、北東の山を西山、南東の山を洞山、そして、南の山を麓に建てられた寺に因んで瑞龍寺山と呼んでいた。
空から見下ろせば、深く三裂した楓に見えなくもない。
その場合、葉の基部が稲葉山城であろうか。
葉脈の如き尾根を伝い歩いたとしても、端から稲葉山山頂までの距離は一キロメートル以上離れている。
また、稲葉山城へと至る道は限られていた。
加えて、稲葉山の麓から伸びる九十九折の山道を使ったとしても、少なくとも四十分は掛かるのだ。
他の山々から続く道を行けば、当然ながらそれ以上の時間が必要であった。
興味のある方は是非とも金華山登山道を参照されたし。
なお、この当時それらの山々の山頂付近は大半の木々が伐採され、地肌が剥き出しとなっていた。
現代の様に、金華山の語源ともなったツブラジイ(ブナ科の常緑樹。春に金色の花をつける)に覆われてはいないのだ。
その理由は、この辺の最高峰でもある稲葉山に近付く者をいち早く見付ける為である。
故に、山に生い茂る木々に隠れて人知れず稲葉山城に接近するのは不可能。
それどころか、至る所に櫓やら山門が設けられていて、攻城を難しくしていた。
正に稲葉山城は難攻不落の山城だったのである。
◇
永禄五年(西暦一五六二年)、五月三日 美濃国 稲葉山城城下 井口 織田陣内
明け方、東の空が白む。
土や草花の香りに満ちた冷えた空気、それが日の光を浴びた事により温まり、辺りに融け広がっていく。
ふと耳を澄ませば馬の嘶きに混じり、火を焚く音が聞こえる。
長良川の水を煮沸してから使うのだろう。
生水をそのまま飲むと病になり、やがては死ぬ可能性があると兵らには伝えてあるからだ。
その長良川へと目を向けると、対岸に無数の人集りが映った。
城下町を追い出された者達だ。
彼らは俺の命じた町の焼き討ちをほうほうの体で逃れ、何とかして長良川を渡ったのであった。
俺はそんな彼らを不憫に思いつつ、
(許してくれとは言わぬ。兄、信長の遺志を俺なりに継ぐと決めたのだから……)
戦評定の行われる陣幕を潜る。
中には鎧を着た者達が緩やかな楕円形を描き、腰を下ろしていた。
俺の家老達である。
「待たせたな」
俺の言葉に彼らは、
「おはようございまする!」
首を垂れた。
俺は軽く言葉を返し、上座に設けられた床机に座る。
そして、
「苦しゅうない。面をあげよ」
下げた頭を上げさせた。
そして、
「さて……」
と呟いた後、
「動勢を確認しようではないか。蔵人、頼む」
「ははっ!」
俺は腹心である津々木蔵人に対し、一夜明けた現状を検めさせる。
それも、
「先ずは北伊勢からで御座いまする。滝川殿によりますれば三重郡の国人衆も悉く恭順を示し、千種城の千種忠基も父である忠治と甥の又三郎を質に差し出して参ったとの事。後は神戸家の神戸城とその支城を残すのみに御座いまする」
全ての方面に関して。
此度の美濃侵攻は複数経路からの同時侵攻であるが故に、各作戦の成否をいち早く、それも正確に知る事が肝要であった。
「ふむ、余り神戸を追いつめるな。窮鼠猫を噛む、と言うからな」
「はっ! 其の様にお伝え致しまする」
俺は頷き返し、先を続けさせる。
「佐久間信盛殿は揖斐川にて浅井勢を追い返したとの事。予定通り、大垣城を攻囲に向かいまする」
「うむ、大義、大義」
「織田信清殿が堂洞城を救援に参った長井道利の軍勢と対峙するも、織田信次殿が背後から強襲。長井道利を討ち取ったとの事。それを目にしたであろう堂洞城の岸信周に降伏を迫るも回答が御座いませぬ」
「先に長井を討てたか。なれば、堂洞城は攻囲するに止めよ。その間、信次には関城を落とさせる」
「柴田勝家殿は岩村城に入城! 未だ武田の軍勢が東美濃に入る兆しが見えぬとの事で御座いまする」
この報せに、俺は思わず声を上げ、
「でかしたぞ、勝家! 流石は”掛かれ柴田”よな! 一兵も損じる事なく、武田の足を止め、戦を制したか! 実に見事よ!!」
大袈裟に褒め称え、いや激賞した。
いずれ今の言葉が柴田勝家の耳に届く事も狙って。
何故ならば、ある意味此度の北伊勢侵攻から美濃侵攻に至る一連の動きで一番貧乏くじを引いているのが彼だからである。
この戦国時代、戦に勝つ、敵の兜首を取る、のが一番評価されるのだから。
が、俺はそれを変えたい。
そう、理想を言えば、兵を動かす事なく相手を捩じ伏せる、その様な戦争をしたいのだ。
井口の如き、人的、物的被害を出し続けるのは、俺の趣味に合わぬ故に。
(そう、心の痛みが過ぎるのだ……)
しかしそれは、今ではない。
「武田は神出鬼没ぞ。三河の信広兄者、遠江の信包には警戒の手を緩めぬよう、重々伝えよ。地の利があるとは言え、国境は我らよりも武田の方が詳しいでな」
「ははっ!」
「そしてそれは一色にも言える。故に、稲葉山に至る登り口は十全に抑えよ!」
「はっ!」
「山窩衆は既に山に入っておろうな?」
「簗田広正が率いておりまする!」
「河原衆は?」
「蜂須賀利政と共に長良川を抑えておりまする!」
「良い! 鼠一匹逃すでないぞ!」
「ははっ!」
そして最後に、
「信行様、米野、加納口における一戦にて討ち取った首級を検めて頂きまする」
首実検が行われる。
作法として俺は具足を身に纏い、軍扇を携えた。
そして、熊の毛皮を床机に敷き、其の上に腰を下ろす。
すると、若い侍が首板に一つの首級を載せ、俺から数メートル離れた場所に片膝を着いた。
首級と俺の間には完全武装した鎧武者が太刀や槍を構えている。
これも作法の一つであった。
首級を持った若侍が生首の髷を持ち上げ、血の気の無い顔を俺に向ける。
俺が左目尻でその生首を捉えると、左側に控える奏者が討たれた首の名を皆に聞こえる様、声に出すのだ。
「斎藤利み……」
(はぁあ……何度やってもこれはキツイ。俺が慣れる事は無いな。別のことを考えつつ、気を紛らわせるか……)
「……うむ」
それが、幾度も繰り返される。
やがて、首実検も終盤に差し掛かったらしい。
何故ならば、生首を乗せる首板が脚の着いた代物に変わったのだ。
俺は人知れず意識を改め、身を律した。
直後、奏者の声がこれまでより一際大きな物になった。
「安藤守就に御座いまする!」
それもその筈、西美濃三人衆の一人である。
史実においては斎藤六宿老が一人。
美濃国を土岐氏が守護として治めていた頃からの重臣中の重臣であった。
俺は作法通り、チラリと見る。
安藤守就の生首は右目を閉じ、歯を食い縛っていた。
(凶……か)
ちなみにだがこの首実検、吉凶を占ったりもする。
本来なら凶兆を表す首は大将である俺に見せたりせず、お祓いをしてから首塚に納める。
が、安藤守就は敵将首の為、俺が検分するのである。
俺は心の中で合唱し、成仏を願った。
続いて、
「氏家直元……」
美濃国の三分の一を有する、美濃国において最大勢力を誇る一族、その当主。
大垣城の城主でもある。
彼もまた、
「天眼(黒目が上を向く白目)……」
凶相であった。
最後に首を検めたのが西美濃三人衆筆頭と目されていた、
「稲葉良通に御座いまする!」
である。
俺は思わず、
(あれ? ”頑固一徹”が消滅するのか!?)
動揺した。
が、
(なんて文化、歴史改変……って言うのも今更だな)
と俺は考え直し、心を落ち着かせる。
そして、
「名だたる将の首は丁重に弔い致せ。……いや、稲葉山に届けてやれ。身内がいるであろうからな」
と命じた。
無論、言葉通り”親族が可哀想だから”と思った訳ではない。
そうした方が、城に籠る者達の心を挫けると考えたからだ。
戦の常道である。
(はてさて、俺の意のままに進むだろうか?)
俺は陣幕から下げられた生首とそれを抱える若侍の背を見送りつつ、そう思った。
◇
織田信行が首実検をしている頃合い、稲葉山城内は重い空気に包まれていた。
日が昇る前に届いた、間者の一人が携えた報せの所為である。
「長井殿が討ち死に……」
「結果、堂洞城も陥落寸前」
「それどころか、関城が落ちたとか」
「浅井の軍勢が国許に帰ったとか」
「何でも浅井新九郎殿が鉄砲傷を負うたらしく……」
「大垣城も風前の灯らしいぞ」
「嘗ては龍興様の覚えめでたき斎藤殿が城を抜けられたとか」
「主君を捨てて逃げ出したか」
「浅ましいのう」
「だが、このままではいずれ龍興様の首を狙う者も……」
「登り口が全て塞がれたらしいぞ」
「馬鹿を申すな! 幾つあると思うておる!」
「そのまさか、だ。七曲り口はおろか、百曲、馬の背、水手道、更には岩戸に妙見宮もだ」
「それに麓の林には見慣れぬ風体の者がわんさかおるらしいぞ」
「織田の素っ破か?」
「……恐らくはそうじゃろう」
一方、一色龍興はどうしているかというと、
「飯が喉を通らぬらしい」
「湯漬けでも駄目か?」
「ああ」
「然もありなん。寡兵の織田勢を相手に二度も負けた故にな」
「義龍様がご存命なれば……」
「しっ! 無体な事を申すな! 日根野弘就様や竹中重治様に聞かれたら何とする!」
「然るに、あの有様ではなぁ。美濃はもうしまいじゃと思いとうなる……」
「……左様。しかも、あのお顔。まるで寝ておらぬのでは無いか?」
心が折れ、塞ぎ込んでいるらしい。
つまりは、美濃の危機を知り、自らの役割を全うしようとしたは良いが、その無理が祟ったのである。
十代の若者であるが故に、勢いのまま勝てば全てが丸く収まっていただろう。
しかし、そうはならなかった。
強大な壁に、いとも容易く跳ね返されたのだ。
突然当主に祭り上げられた彼に、十二分な人生経験を有さぬ青年に、立ち直る術は皆無であった。
故に、如何に新たな信頼関係が結ばれようとした相手が彼の、一色龍興の許に訪れようとも、
「失礼致しまする。竹中重治殿が見えられておりまする」
「……下がらせよ。今は誰にも会いとうない」
つれない返事をするばかり。
家臣らはほとほと困り果てていた。
「弱りましたな、日根野殿。ここに来て龍興様があのご様子では……」
「うむ。竹中重治殿、龍興様はそれ程までに?」
「ええ、このままでは城内で万が一の事が起きるやもしれませぬ」
「万が一? それはもしや……」
「はい。当主の命と引き換えに、自らの本領安堵を願う者が現れましょう」
「しかし、この様な状況で織田が……」
「認めるとは思えませぬ。が、人は見たい景色を夢に思い描く生き物。追い詰められれば尚の事に御座いまする」
「何か手を打たねばならぬな」
「はい。では、今一度浅井や郡上、更には武田にも人を送ってみるのが宜しいかと」
「郡上の遠藤は兎も角、あの者らが兵を出すであろうか?」
「分かりませぬ。ですが、織田の兵が稲葉山に釘付けである今、彼の者らが兵を動かすまたと無い好機。可能性は御座いましょう。あぁ、それに加え、公方様にも和議の仲立ちを働き掛けて貰えませぬか?」
「成る程、良いかもしれぬ。では、急がねばならぬな」
打つ手が限られ、自らの力では状況を覆すには力が足りないからである。
竹中重治は急ぐ日根野弘就を他所に、
「注意を逸らすには十分でしょう。斯くなる上は、私自らが……。久作が残る限り、竹中家が潰える事も無いでしょうし」
決意を胸に秘めるのであった。
運営様からメッセージを頂いた事は先に述べた。
そのタイトルは何と、「書籍化打診のご連絡」だったのである!
と言う訳で、まさかの展開が拙作「織田信行として生きて候」に訪れました。
ええ、大変嬉しいです。
今思い返してもニマニマしてしまいます。
が、これもひとえに、読んで頂ける皆様、感想を残して頂けた皆様、ブックマークして頂けた、評価して頂けた皆様、そしてレビューを書いて頂けた方々のおかげでございます。
後書きという場であれなんですが、心より御礼申し上げます。
今後、話がより具体的に進んだら、改めて活動報告にて正式にアナウンスさせて頂ければと思います。
以上、先ずはここまで読んで頂けた方へのご報告でした!
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