#061 第二次加納口の戦
永禄五年(西暦一五六二年)、五月一日 美濃国 加納口付近平野部
夜が明けた。
東の空に朱色が差し、辺りを覆う霞を露わにする。
側にある丘の頂きから見下ろせば、旗指物が霞を突き破り、そこかしこで旗めいているのが見えたであろう。
そう、遂に美濃国一色と尾張国織田が雌雄を決する日が訪れたのだ。
一色勢七千と織田勢の五千、総勢一万二千による戦いが。
それも稲葉山城が在る山の麓近くで。
戦の後の乱取りに怯えたのだろう、田植えで忙しない筈のこの時期に、付近の集落から煙が立ち上る景色をこの日は終ぞ見る事がなかった。
さて。
ここで改めて、双方の軍勢に関して記しておく。
一色勢は先に述べた通り、七千。
米野の戦における敗残兵を収容、再編成した二千五百(内、長柄衆千八百、弓衆五百、馬廻衆二百)。
付近の国人衆による五百(主に長柄)。
そして、一色龍興が率いる四千(内、長柄衆二千五百、弓衆千、鉄砲衆二百、馬廻衆三百)である。
対するは織田勢は五千。
長柄衆の二千五百に始まり、弓衆二千三百、そして残るは馬廻衆。
加えて、遠征軍ならではである、荷駄という編成であった。
但し、幾分数が多い。
ちなみにだが、一色勢の陣内には西美濃三人衆の旗印が見当たらない。
それだけで、先の米野の戦が如何に一方的な戦いであったかを物語っていた。
◇
朝靄が晴れ、辺りを見渡す。
まず目に映るは、
「守る側である一色勢の方が兵は多い」
「左様ですな、津々木殿」
殺気に満ちた兵らの姿であった。
「一色勢は魚鱗をとったか。順当だな、利久殿」
「左様ですな」
兵数の少ない方が両翼を広げ、敵方を迎え撃つ。
おかしな話である。
そもそも、織田方が攻め込んでいる筈なのだから。
一方の一色勢は織田方の陣形に合わす形で魚鱗の陣形を選んだ。
先程述べた通り、寡兵の織田方が鶴翼の陣を敷いたが故に。
世の常識に照らし合わせるならば、それは愚策である。
故に、一色勢の総大将である一色龍興が訝しんだのも道理であった。
「重治……」
「はっ!」
「兵数で我が方を下回る織田が両翼を張り出しておるな。思うに何かあるのではないか?」
「その通りに御座いまする。織田勢は自らの本陣前をやや下げる形で鶴翼の陣を敷き申した。明らかに我らにその点を突かせるのが狙いかと思われまする」
年若き総大将は「やはりそうか」と首肯した。
竹中重治は満足げに目を細め、
「龍興様、ご明察に御座いまする」
素直に褒める。
すると、一色龍興は少し鼻を膨らませた。
「……フフフッ、義龍様によう似ておられる」
「ん? 如何した、重治?」
「いえ、何でもありませぬ。それよりも、此度の戦における”織田の狙い”で御座いまする」
「それよ。織田は鶴翼における要、本陣前へと我らを誘っておる。しかるに、あれは……」
「あからさま過ぎる……で御座いましょう?」
「左様。となるとだ」
「はい、薄く広げられた両翼のいずれか一方を叩くのが宜しいかと」
竹中重治は試す様な目付きで、主君の目を見つめ返した。
それを受けてか、一色龍興の頬に童の如き笑窪が浮かんだ。
「ふん、此の期に及んで我を試すか、重治」
「はて、なんの事やら」
「成る程、そう思わせる事すらも織田の、軍略衆筆頭である前田利久の策だと申すのだな!」
友の悪戯を見抜いたかの如く、瞳を輝かせる一色龍興。
対して、竹中重治はまたも、
「如何にもその通りで御座る。この竹中重治、感服仕り候」
慇懃に応じた。
それだけでなく、一色龍興にだけ聞こえる声音で、
「ご存知かと思われまするが、加納から東に一里(約四キロメートル)程の地は葦が鬱蒼と茂った湿地で御座いますれば、甚だ行軍に向かぬ場所に御座いまする。さればこそ……」
と何やら囁く。
すると、
「まったく、その方はとんでもない智慧者よな!」
一色龍興は一頻りカラカラ笑ったかと思うと、
「良かろう、我が一色勢の全軍で織田の本陣に乗り込んでやろうぞ!」
竹中重治に対して言い放ち、その上で、
「矢盾、竹束を構えい!!! 良いか皆の者!!! 狙うは敵総大将がそっ首一つじゃ!!! 掛かれ!!!!」
大音声を発した。
それに応えるは、
「うおーっ!」
「はぁあああ!」
「おおおおおっ!!」
足軽らの雄叫び。
続いて数多の乱れた、大地を踏みしだく重い足音であった。
それから間も無く、一色勢の足軽大将が声を張らす。
「鉄砲衆構え! ……撃て!」
乾いた音が幾重にも重なり、火花が戦場を彩った。
火縄銃の火薬は一間にも及んで爆ぜ、放った幾人かの鉄砲衆の面には新たな火傷が生まれた。
硝煙がもうもうと立ち込めた。
その煙を切り裂き、長柄衆が我先に駆け出る。
彼らの血走った瞳には、織田勢の掲げた矢盾とその後ろにすっぽりと隠れ、時折見え隠れする首しか映してはいなかった。
織田方の最前列、矢盾を構えていた足軽が後ろに下がる。
代わりに前に出たのが、弓衆。
七尺三寸(二メートル二十センチ程)の長弓を引き絞り、
「放て!」
ついで射掛けた。
鏃が風を切り、音を響かせた。
目の前の景色が一瞬にして暗く変わった。
数多の矢が空の光を遮ったからだ。
一色勢の掲げた矢盾に矢が生える。
刹那、兵により押し出された風に乗り、血の匂いが織田勢を包んだ。
暫し後、槍の刃先が打ち合う音が轟いた。
「始まったな」
津々木蔵人が呟いた。
その声に、
「左様ですな」
前田利久が応じた。
その間にも、前線から届く音が激しさを増していく。
「竹中重治、若いが中々やる」
「ええ、軍略大会優勝は伊達ではありませぬな」
土と汗と血が混じり、辺りが息苦しくなる。
一色勢の模る鏃が、織田勢の肉に食い込み始めた。
互いの足軽大将やら組頭が躍起になり、押し合い圧し合いを繰り広げる。
それから暫くすると、織田方の鶴翼の陣、その右翼が俄かに騒がしくなった。
状況を伝える為だろう、使番が織田勢の本陣に駆け込む。
「申し上げます! 稲葉良通らに率いられた一軍が突如現れ、お味方苦戦!」
その報せに、津々木蔵人は、
「相分かった。手筈通り|に散り散りとなりながら、下がらせよ」
と使番に述べた後、彼は前田利久に顔を向ける。
津々木蔵人の顔には苦笑いが浮かんでいた。
彼はその理由を此度の戦に際し、織田信行により付けられた軍監に語る。
「やはり、竹中重治はまだ若いな」
「はい、若過ぎまするな」
「加えて、信行様を相手にするには、悲しい事に経験が足らぬ」
「それに、些か賢さが邪魔しているようですな」
「左様。米野の戦の結果、竹束を直ぐに用意した事は評価出来る」
「が、そこまででしたな」
「何故、斯様な結果となったのか、何を持ってそう成らしめたのか、まで考えが至っておらぬ」
「それは致し方なきやもしれませぬ。我らとて、生まれ落ちた地が尾張でなければ、左様になっていたでしょう。ええ、この一件に関しては竹中重治が力不足とはいえますまい」
「されど、信行様はこうなるやも知れぬと申されておった。オッカムの剃刀の罠にハマるやも知れぬとな」
「大噛む? はて、聞きなれぬ言葉?」
「何、賢き者は兎角無駄をそぎ落とされた真理、定理を求めがちとなり、幹だけを見て枝葉や根の張り具合を忘れがちになる、とな」
「なるほど。確かにそうですな。されど……」
「うむ。そもそも、信行様と竹中重治では戦っている土俵が違う」
「左様ですな」
「例えばだが、戦を仕掛けるに農繁期を選ぶこともそう」
「はい。銭侍を多く抱える我らは兎も角、美濃も甲斐も伊勢も十分な兵を要して我らに対抗できませなんだ」
「”道路”を那古野から遍く場所に張り巡らせようとしているのもそう」
「はい。我らの軍勢の速さに何処も敵いませなんだ」
「更には、南蛮人を那古野に誘ったこともだ」
「はい。我らだけでしょう、あの者らと対等に商い、望みの品を得られるのは」
「火薬、大砲に加え黒人、その対価にワイン、聖書、エリクサー、手押しポンプに絵巻物」
「あらかじめ彼らが何を望むのかを知っていたかと思える程ですな」
「間違いなく、知っておられたのよ。その術はいかなるものかは別にして」
津々木蔵人の瞳が潤み始めた。
「のみならず、信行様の頭の中には余程正確な地図が描けておる」
「それも日の本に限らず、大洋を隔てた場所までも、で御座いまするな」
「これより先の御代に何が起こるかも」
「ええ、実に明確に知り得ておられるようで」
津々木蔵人は武者震いをし、
「あぁ……たまらん」
と零した。
前田利久は何故か、半歩退いた。
「……はい、実にたまりませぬ。あの方がこの先我らに見せようとするものが一体何なのか」
「私はな! 常にあの方の側に侍り、あの方の進む道を私も歩みたい! あの方の背を、後ろ姿を間近で見続けていたい! あの方が至る頂まで!」
「この前田利久もまた、日々死ぬのが惜しく感じておりまする」
「ふふふ、武家にあるまじき心持ちよ」
「左様で御座いますな」
二人は静かに笑い合った。
すると、何かを思い出したのだろう、津々木蔵人がハッとした表情を浮かべ、その後、ニヤリと笑った。
所謂、”思い出し笑い”である。
「話のついでだが、以前、信行様に何故農繁期を選んで戦を仕掛けるのか訪ねた事がある。返ってきたのは意外な答えであった」
津々木蔵人の予想外の言葉に、
「ほう、興味深いですな」
前田利久が思わず食いついた。
「あの方は”農繁期であれば全ての百姓が戦に出る事は出来ぬ。それはつまり、田畑を維持する必要最低限の百姓が村に残るという事だ。故に、勝っても負けても民は必要最低限食っていける”と申された」
「面白い考えですな。特に敵方の民の暮らしにまで配慮されているところが」
「つまり、我らとは捉えどころが違うのだ!」
「はい」
「見えている景色が違うのだ!」
「はい」
「だからこそ、竹中重治は中央突破を選んだ!」
「はい」
「それが我らの、織田信行様の思う壺だと思いもせずに!!」
「左様ですなー」
前田利久の受け答えに、津々木蔵人は僅かに顔を赤らめつつ、冷静さを取り戻す。
彼が慌てて目を戦場にむけると、散り散りとなった右翼が再び隊列を整え、先程現れた稲葉良通らをも包み込む形を成していた。
「……竹中重治は”軍略比べ”という盤上において、いや、同じ力の兵、同じ強さの武具を用いた戦の上では我らよりも上手くやれるやも知れぬ」
「如何にも」
刹那、津々木蔵人がこの加納口における戦において、初めて軍配を大きく振った。
後ろに控えていた小姓らが慌ただしく動き出す。
やがて、荷車が幾台も本陣前に整然と並んだ。
既に掛けられた布が取り払われ、荷台の上が露わになっている。
そこにあるのは鈍い薄緑色をした、臼の如き代物。
織田信行により命名された”那古野砲”であった。
その傍には立てられた梯子に登った、林弥七郎が難しげな顔をして佇んでいる。
津々木蔵人はその林弥七郎に対して、
「始めよ!」
命を下した。
林弥七郎は大きく頷き返すと、大音声を発した。
「那古野砲、発射用意!!」
「発射用意!」
「発射用意……」
各那古野砲を預かる砲頭が次々に復唱する。
全ての砲頭が答えを返すとみるや、林弥七郎は更に大きな声で、
「撃て!」
叫んだ。
直後、戦場をこの世の物とは思えぬ大音が襲った。
それはまるで、間近に雷が落ちたかの如く。
一色勢の将を乗せた馬が驚きの余り後ろ足で立ち上がり、ある者は振り落とされ、ある者はそのまま馬と共に倒れ、下敷きとなる。
戦場が騒然とした。
刹那、更なる不幸が一色勢を襲う。
巨大な石礫と思わしき代物が、彼らの頭上から降り注いだのだ。
大地が瞬く間に血塗られていく。
突如起こった出来事、そのあまりの恐怖に泣き叫ぶ者が現れる。
血の匂いになれぬ者は、その場で嘔吐した。
その模様はさながら、阿鼻叫喚の地獄絵図。
ふと見ると、魚鱗の陣の一部にぽかりと大穴が穿たれていた。
「一色勢の足が止まったぞ! 弓衆! 弓を射掛けよ!!」
津々木蔵人の号令が加納口に響き渡った。
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2016/09/23 サブタイトルの#を半角に修正。サブタイトルに「第二次」を追加。脱字修正




