#058 美濃侵攻(2)
美濃国。
現代の都道府県で表すならば岐阜県の南部である。
上空から眺めれば凸型にも見えなくはない。
国名の由来は飛鳥時代(西暦五九二年から七一〇年)にまで遡り、広大な平野を南部に三つ抱えている事から”三野国”と名付けられ、やがては美濃国と記されるようになったと伝えられている。
一方、凸型の突き出た部分、北部は山岳丘陵地帯が続く。
北に向かう程、飛騨国に近づく程に標高は険しくなり、その最高峰は千八百メートルを優に超すのである。
故に、集落は美濃国の南部に多く設けられていた。
その南部には東山道(現中山道)が東西に走っている。
西は近江国から街道が続き、その国境には畿内を守る為に”不破関”が古来より設置されていた。
東は信濃国へと通じ、街道沿いの国境には木曽山脈を形成する山の一つ、美濃の最高峰である恵那山がそびえ立っていたのだ。
東山道はそれら山間の急峻な道、所謂”仙道”を通り抜け、信濃国は伊那谷に辿り着くのである。
南は三カ国と接していた。
西からその国名を挙げると伊勢国、尾張国、三河国の順にである。
当然ながら、それぞれの国との間には大なり小なり幾本もの道が作られていた。
◇
永禄五年(西暦一五六二年)、四月下旬 美濃国 稲葉山城
織田の軍勢が美濃に攻め寄せる兆しを見せたが為、美濃国は竹中重治に三千の兵を与え、尾張国との国境に配した。
ところが、意外な事に織田の軍勢が向かった先は北伊勢。
それを知った美濃の主だった者らは皆「そ、それは誠か!?」夏に雪が降ったかの如く驚いた。
それから、更に数日が経過したある日。
時は夜。
月明かりの灯らぬ新月の所為か、城の彼方此方には篝火が赤々と焚かれている。
城内の壁が赤く彩られる中、評定の間には多くの家老らが詰めていた。
無論、美濃国主である一色龍興を上座に配して。
彼らは皆、四方の壁が押し寄せ空気が圧されたかの如く、息苦しさを覚えていた。
「えぇい! 一体如何なっておる!」
喘ぐかの様に、家老の一人が喚いた。
だが、それに答える者は皆無。
冷ややかな眼差しだけが彼に返されていく。
それもその筈、自らの主君を前にして、国難を前にしているとは言え、醜態を晒すなど武家にあるまじき行いであるからだ。
しかし、この家老にはそれが分からない。
「……うっ、お、御主らは如何も思わんのか!? 織田が伊勢を併呑すれば、次は美濃ぞ!? 万の軍勢で攻め寄せると言うのだぞ! それとも御主らは腑抜けたか!? 一戦も交えぬまま、織田の前に膝を折ると申すのか!?」
勇ましい物言いをしていれば、周りからは一端の武人に見えるであろう、そう勘違いしていたのである。
「安藤殿! 御主の娘婿である竹中重治! かの者が三千の兵を率いてから如何程経ったとお思いか! そも、何故、尾張を攻めぬ!?」
「長井殿! 佐藤忠能は何故稲葉山に参らぬ!?」
「稲葉殿も、稲葉殿で御座る! 西美濃衆を……」
刹那、
「もう止さぬか」
家老を諌める声が起こる。
その声の主は一色龍興。
彼は齢十五でしかない、所謂ところの”若武者”であった。
しかし、若いながらも父親似の体躯を誇り、面は眉目秀麗。
その身体から発せられる空気は、既に一廉の武将然としている。
「さ、されど!」
「斎藤、それ以上の醜態は見せてくれるな」
一色龍興の瞳には憐憫の情がはっきりと表れていた。
それは、重用していた重臣の無様な姿を見るのが辛い所為でもあった。
斎藤と呼ばれた家老は途端に顔を青ざめさせる。
「も、申し訳ありませぬ……」
「良い。御主が国を思う気持ち、痛い程よう分かった故にな」
そう口にしても、若き国主は家老に対する視線を改める事はなかった。
それから半刻ほど後、一つの報せが評定の間を震撼させた。
それは、
「申し上げます! 織田の者と思われる軍勢が東美濃は岩村城に入ったとの事!」
であった。
「な、何じゃと!?」
中でも最も驚いたのが長井道利。
彼は斎藤道三が美濃国を盗るに当たり長井姓を乗っ取った際に生まれた庶子であり、故に美濃前国主斎藤義龍の腹違いの弟であった。
何故かは不明だが、兄義龍の信頼を利用して斎藤道三と義龍による親子相克を唆した張本人でもある。
だが、斎藤義龍が美濃国主として権勢を振るう身になると、義龍からは逆に警戒され遠ざけられる事に。
身の危険を感じた長井道利は甲斐武田の下に移った。
そして、義龍が身罷った直後に帰参を許され捲土重来、再び美濃入りし、斎藤義龍の子である龍興に仕えたのだ。
今では金山城を預けられ、東美濃を任されている。
その彼が声を荒げた。
実は未だに武田信玄と通じており、織田の軍勢が美濃に攻め入った暁には武田に救援を求めようと画策していたからであった。
東美濃の岩村城が織田方に落ちたと言う事は、それが潰えた事を意味していた。
しかし、凶報はそれだけでは無かった。
矢継ぎ早に届いたのだ。
「尾張犬山城から出たと思われる軍勢が猿啄城を攻囲!」
「猿啄城が一刻も持たずに落城!」
「猿啄城を落とした軍勢が鵜沼城前に滞陣!」
「加治田城の佐藤忠能が織田に下り申した!」
評定の間は更なる喧騒に包まれた。
「な、何故猿啄城に!? ここ稲葉山城を目指すのでは無かったのか!?」
「猿啄城が一刻も持たずに!? 戯けた事を申すな!」
「佐藤忠能が織田に!? 彼奴の娘が堂洞城の岸信房に嫁いでおる筈であろうが! 何かの間違いでは……織田方の奸計では無いのか!?」
「織田の兵は如何程か!?」
「いかんぞ! 織田の軍勢は既に堂洞城に及んでいるやも知れぬ!」
家老らは次々に飛び込んで来た使番相手に口々に問うも、そもそも使番には述べた以上の報せを授けられてはいなかった。
彼らは唯々平服するだけである。
すると、その有様を見兼ねたのか一人の男が口を開いた。
「慌てるでない!」
驚く程の大音声。
その刹那、評定の間は落ち着きを取り戻した。
「……た、龍興様?」
「が、最早悠長にしてはおれぬ。稲葉良通、今すぐ動かせる兵数は如何程か?」
「はっ! 七千程に御座いまする!」
「なれば、長井道利」
「はっ!」
「兵三千を預ける。まずは関城に入り、堂洞城の岸信房を援けよ」
「ははっ!」
「次に稲葉良通、安藤守就、氏家直元。その方らには自らの手勢を率い、竹中重治を支えよ。恐らくは那古野に至る街道を北上して参った織田の本隊がいる筈だ」
「はっ!」
「武井夕庵!」
「はっ!」
「その方は浅井へ参れ!」
「ははっ! 浅井新九郎殿が率いし五千の兵を引き連れて参りまする!」
「お、お待ち下され! 浅井の軍勢を入れるは危険に御座いまする! あの者らが居座るやも……」
「浅井は我の親戚筋ぞ? 案ずるな斎藤! それに奪われたなら奪い返してやれば良い!」
「なっ!?」
目を見開いて驚く家老を前に、一色龍興はニヤリと笑った。
「我は残る四千の兵を率いて出る! 皆の者、支度を致せ!」
「そ、それは!?」
「ふっ、新九郎殿は我と同じ歳で六角が万の軍勢を退けた。彼の者に出来て、我に出来ぬ道理など在ろう筈も無いわ!」
覇気を漲らせ、一色龍興が立つ。
威風堂々とした、見事な益荒男。
その有り様は史実における酒色に溺れたものとは一線を画していた。
同刻、木曽川を背に佐久間信盛が率いし織田の軍勢と竹中重治が率いし一色の軍勢が相対していた。
木曽川沿いに生い茂る林を間に挟んで。
月明かりの無い新月の夜にも関わらず、互いの軍勢は顔を朱色に染めていた。
「佐久間殿、思い切り良う燃やされましたな」
そう、織田の軍勢が林に火を放ったのだ。
「信次殿か。いや、これは致し方ありますまい。木々に覆われた道を行けば、伏せた兵に襲われるは必定。故に火を放ち、一色勢が身を隠すであろう木の葉を焼き払い、枝を落とした次第」
佐久間信盛は織田信次に対して淡々と答え続ける。
「そも、某が役目は信行様が参られるまでに稲葉山城への道を掃き清める事に御座る」
「成る程。つまり林を燃やしたのは……」
「左様、掃き集めた落ち葉や枯れ枝、塵に火を点けるは至極当たり前の事で御座るが故に」
「されど、些か順序が逆に思われるが……」
「何の、結果は同じで御座る」
佐久間信盛はニコリと笑った。
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2016/09/05 指摘事項の反映