#005 那古野城の攻防(2)
尾張清洲城 奥の間
「ときに母上殿。信行殿は如何なるお子でございましたか?」
帰蝶の言葉に土田御前が首を傾げ、目当ての記憶を探しつつなのだろう、ゆっくりと答えた。
「信行殿ですか? あの子は……そうですね、幼き頃から他人の目を、身内以外の者の目を気にする子でしたねぇ。言葉悪く言えば、内弁慶のような。家臣の見たがっている姿を見せる……そう思わせる子でした」
「おやおや、信長様とは正反対な性格の様子」
しかし、土田御前は鷹揚に首を左右に振った。
「それが妙に似ていましてなぁ。顔形も然り、背格好も然り。それをあの子は悪ふざけによう利用しておりましたわ」
「ほう、面白い。して如何様に?」
「ある時、兄の信長殿がふざけた格好で城下町を忍び歩いたと聞いたら、信行殿も寸部違わぬ格好をして城下町を練り歩き、信長殿の振りをして悪戯をして回ってな」
「あらあら」
「それも、信長殿が兵法やら弓やら鉄砲やらを学んでいる時分を何処からか知り得たのか、見計らって行う周到さを見せて」
「ふふふ、怒りましたでしょうな、信長様は」
「それはまぁ、烈火の如く」
土田御前は頭の上に両手の人差し指を立て、鬼の真似をした。
帰蝶はさっと顔を隠し、顔を赤く染めながら笑いを堪えていた。
「平手殿や林殿、柴田殿や佐久間殿に対して信行殿へ諫言するように申しても、”信行様がその様な事を為さるはずがございませぬ”と聞いてもらえず、大層憤っておりました」
「おやまぁ、何故にでしょう?」
「それこそ、信行殿が”内弁慶”たる所以です。信秀様や家臣らの前では素直で愛らしい子として振舞っておりましたから」
「まぁ、なんと! それでは尚の事、信長様はお怒りになったでしょうに」
「ええ、本当にお怒りでした。我が子ながら恐ろしいほどに」
土田御前はまた、鬼の真似をした。
奥の間に、姦しい笑い声が響いた。
◇
弘治三年(西暦一五五七年)一一月二日 午後三時
那古野城の僅かに残っていた城下町。
それが焼き尽くされようとしていた。
二百名近い侍達が放った業火によって。
それはまるで、咎人を焼く、地獄の炎のように見えた。
突然の出来事に、家屋の中にいた人々が蜘蛛の子を散らすように何処かに去って行った。
だが、逃げ遅れたのだろう、子供の泣き声が響いていた。
家屋を焼いた炎は黒い煙を産み出し、空をどんどんと覆っていく。
それは空だけに非ず。
那古野城内にも及んでいた。
焦げた匂いが鼻をついた。
煙が目に沁みた。
そして何よりも、心を翳らせていた。
俺の心を……
「これが”戦”か……」
思えば初めて見る光景だ。
人が泣き叫び、その中を荒くれ者が時には馬を駆り火をつけて周り、時には逃げ惑う人々を追い散らし、刀や槍を振るう姿なんてものは。
しかし、不思議だ。
如何に敵の篭る城下とはいえ、信長自身が治める、領内に住まう民なのだ。
何故、火を付け、追い回すのだろうか?
それとも、これは戦国の世の習いなのだろうか?
食料の少ないこの時代、少しでも食い扶持を減らそうと考えて。
または、浮浪児や河原者を見境なく殺め、治安を維持するかのように。
「……酷い時代だな」
俺は改めて思った。
やがて一人の侍、いやさ武将が那古野城の大手門前に現れた。
数名のお供の侍を後ろに引き連れて。
その男は一見して威風堂々としていた。
彼の跨る馬は、他の馬よりも一回りは大きく見えた。
彼の身にまとう鎧は、煙の満ちた中でも輝いて見えた。
兜の立物が鬼の角の如く、天を突き刺そうとしていた。
「誰かがいった”王は来る筈だ”と」
「は?」
「だが、私達は笑って言った”そんなことがあるものか! ”と」
「はぁ? 信行様、今のは一体……」
「なに、唐国に伝わる詩の一節よ。智者の声に耳を傾けず、その結果、酷い結末を暗示した詩の一節だ。ふと思い出してな」
「それはまた……」
黒い煙のたち込める中、覇者然とした強者が俺の目に見えたのだ。
兵を怯えさせるつもりは無かったのだが、思わず口にしてしまった。
その男は馬上から大声で俺の名を口にした。
「織田勘十郎信行!!!!」
この時の彼の声は那古野城の何処にいても、どんなに奥まった所にいても聞こえたらしい。
「我こそは織田上総介信長である!!!!」
(なっ、何という大音声!! こ、これが、かの織田信長か!!!)
「一度謀反を企み! 一戦の後! 我に許されたというに! 未だ謀反を企むとはな! この上総介!! 勘忍袋の尾が切れたわ!! 共に城に篭る者共々、皆殺しにしてくれる!!!」
天地を揺るがす程の怒声が、俺の体を貫いた。
余りの迫力に、圧死するかと思えた。
隣にいた若い侍など、今にも倒れ伏しそうである。
(これは如何! 戦う前に勝敗が決してしまう!)
そう思った刹那、俺の体は動いていた。
まるで、俺の意思ではないかの様に。
大手門の櫓門から颯爽と、屋根に上がった。
そして、あらん限りの声を張り上げ、
「やあやあ!! 我こそは織田勘十郎信行でござる!!! 兄上!!! 御健勝でなによりでござるな!!! 一時は言葉にも不自由しておったと!!! 柴田勝家より聞いて心配しておりましたぞ!!! 大うつけにはつける薬がござらんからな!!!!」
言い返した。
大音声。
加えて、信長を小馬鹿にしたかの様な物言いが不思議と俺の口から出てきた。
城内の空気が確かに変わった。
しかし、信長は一向に構わず、大鐘の音の如く遠方にまで響き渡る声を張り上げた。
「笑止千万!! 大うつけとは勘十郎!! その方の事よ! 家臣の顔色を常に伺い!! 自らの言を持たぬ大うつけ!! それが御主よ!! 勘十郎!!!」
彼にとって、敵方の士気など一顧だにする価値も無いのだろう。
……いや、違う!
信長は今この時を楽しんでいる。
俺が屋根に上がる前は怒り狂っていたにもかかわらず、今ではバカ笑いを必死に堪えている。
その証拠に、可笑しそうに目尻を下げ、口角をひくつかせているでは無いか。
ならば……俺も楽しもう。
稀代の英雄信長との、口上合戦を。
「これは如何にも愚者らしい言葉よ!! 主君たる者、耳を傾けねばならぬ! 民の声に!! 臣の声に!! それが出来ぬして、何の為の御政道か!」
「ふははっ!! 語るに落ちたな勘十郎!! 民が声を聞け!? 愚かな!! 御主の目は節穴か!! どこの民にその様な力がある!! 見よ!! 民は腹を空かせて声も出せぬわ!! 見よ!! 民は這いずる力も無く、足掻くことも出来ぬわ!! 勘十郎!! 御主は誰の声を拾う!! 声出せる者の声のみを聞きくだけでは! 多くを救えぬぞ!! 助けようと動く前に、皆死んでおろうぞ!!!」
「されど私は聞く!! 民の声を! 臣の声を! 一時は時間が余計に掛かろうとも! 目の前の民を救えなくとも! 大過を犯さぬ為に!」
「余は余に従う者を一刻でも早く救わんが為に!! その為にも! 従わぬ者は討つ!! 例えそれが親兄弟であろうが!!! 神仏であろうが!!!」
視線がかち合う。
互いの目が物語っていた、言いたき事を言い終えた、と。
「なればこれより!!」
「一戦交えようぞ、勘十郎!!!」
信長の目が爛々と輝き、欲しがっていた玩具を前にした子供の様な顔をしていた。
白い歯どころか、歯茎までが剥き出しに見えていた。
恐らく、俺も同じ様な顔をしているのだろう。
口を閉じるのに大変苦労したからだ。
信長が太刀を抜き、刃先を俺に向けて指し示す。
俺はそれに答えるかの様に大弓を構え、
「南無八幡大菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神! 先ずは一射!! 御照覧あれ!!!」
鏑矢を放った。
矢は「ピーーーーッ」と音を鳴らし、真っ直ぐに突き進んだ。
そして、狙った獲物に当たり、甲高い音を起こした。
信長の兜が立物、二本一対の角、それが一本欠けている。
「の、信長様!? お、おのれ! 何をするか!!」
「お、おのれ、勘十郎!! この儂を本気で怒らせたな!!! それを貸せ!!!」
俺は急いで屋根を降りた。
櫓門の中に駆け込む間際に振り返ると、鉄砲を構えた信長が見えた。
引き金を振り絞る。
僅かの間を空けた後、火薬が爆ぜる音が鳴った。
直後、兜の右側に衝撃を感じた。
振り返ると信長は不満を露わにして、鉄砲を小姓に投げ付けていた。
(い、いきなり殺す気で撃ってきたのかよ! さ、流石だよ信長!!)
俺は戦場らしからぬ、呑気な感想を思い浮かべていた。
がそれは、俺だけだったようだ。
信長方の兵が、騎乗した武士と足軽らが信長の後方から一気に駆け寄る。
まるで津波の様に。
それは大手門前にいた信長らを飲み込み、やがて取り残していった。
俺の兵が迎え撃ち始めた。
塀の上やその裏から弓矢を射掛ける。
武士が配下の足軽を差配する声、それが幾重にも交錯した。
怒声に罵声、それに悲鳴。
土埃が舞い上がり、鉄の匂いが辺りに溢れた。
俺はそれを感じながら、遮二無二矢を繰り出した。
雑兵が倒れた。
また一人倒れた。
俺の初陣が始まった。
--更新履歴
2017/10/31 誤字修正