#043 掛川の戦(2)
一月三日 申の刻(午後四時頃)、遠江の帰趨を決める戦が起きた。
戦場となった場所は遠江国を東西に分断する天竜川、その東岸。
度重なる氾濫の所為か、野原が広がっている。
南を眺めれば東海道を目にする事が出来た。
その東海道を背にし、東に今川方一万三千、魚鱗の陣を敷いている。
彼らは軍勢を大きく四つに分け、それぞれを高名な武将が率いていた。
最も北側に位置する軍勢三千を率いるのが小原鎮実。
東三河は吉田城の城代を任されていた男だ。
その南に、総大将である今川氏真。
彼が率いる兵は四千。
無論、ここが本陣である。
その前方に朝比奈泰朝が率いし三千がいた。
そして、最も東海道に近い場所にいる三千の一軍を率いるのが、武田信虎。
甲斐の前守護であり、前国主であった男だ。
彼は駿河へ娘夫婦を訪れた帰り、我が子晴信によって国許への帰国を拒まれた。
以来今川氏の下に身を寄せている。
近年は在京前守護として足利義輝に仕えていたのだが、今川義元の死を駿河の一大事と考え、駿府に駆け付けていたのであった。
対する織田方の軍勢は輜重を含め、およそ三万。
鶴翼の陣を敷いていた。
今川方と対面する東から、森可成が騎馬を中心に一千、東三河勢が二千、佐久間信盛、滝川一益率いる尾張勢が三千、西遠江勢が二千、柴田勝家率いる騎馬が一千。
以上が所謂ところの先手衆であった。
続く構え、ニノ先手衆として織田信広が率いる尾張・西三河混成軍が三千、丹羽長秀率いる尾張勢が三千、飯尾連竜が率いし西遠江勢が三千。
本陣前備として前田利益が、六尺の武士一千で構成する”旗衆”を率いている。
そして、本陣には総大将として織田信行と三千の兵が威風堂々と構えていた。
初めに、織田方五百丁の鉄砲が一斉に火を噴いた。
今川方の雑兵と足軽がパタパタと倒れ伏した。
織田方の鉄砲衆が素早く後方に移り、矢盾を担いだ長柄衆が前に出た。
対する今川方の鉄砲衆も負けじと応射する。
パタ、パタと織田方の兵も倒れた。
今川方の鉄砲衆も後ろに移動するかと思いきや、その場に留まり、腰から丸い木の玉を取り外した。
その直後、今川方先手鉄砲衆から火の点された木の玉が織田方の先手衆に投げ込まれたかと思うと、爆裂音と共に幾人もの織田方の雑兵が宙を舞った。
驚いた事に、織田方の先手衆の陣形にぽっかりと穴が開いた。
その穴をこじ開けようと今川方先手衆、朝比奈泰朝の軍勢が突進した。
互いの兵が槍を突き刺し合い、弓矢を交わした。
織田方の将、佐久間信盛の一軍は朝比奈泰朝の率いる軍の勢に押され、堪らず引いたのであった。
◇
朝比奈泰朝の一軍が織田方の第一備、先手衆を今まさに突き破ろうとしている。
そして、その状況は具に、今川氏真のいる本陣に齎されていた。
「お味方、優勢に御座いまする!」
だが、今川氏真は吉報を前にしても能面の如き顔を崩さない。
ただ、黙って応じるだけであった。
いや、寸刻微動だにしなかったかと思うと、
「両翼の小原鎮実と武田信虎を前に進ませよ。朝比奈泰朝を囲ませるな。織田方の開いた穴を広げさせよ」
と使い番に下命したのであった。
その上で、
「由比正純」
「はっ!」
「朝比奈泰朝が織田の第二備と接した瞬間、我らも動く。織田本陣の前備えはたかだか千余り。それを鎧袖一触し、一気に織田本陣にまで行くぞ」
「ははっ!」
本陣による突撃を判断した。
その姿、正に剛毅果断。
武編の王に相応しき振る舞いであった。
「父の仇を討つのではない。今川が今川として残る為に織田を討つ。ただ、それだけの事よ」
今川氏真は面を些かも変える事なく、そう呟いた。
やがて、その時が訪れた。
今川氏真の目論見通り、朝比奈泰朝の軍勢が織田の第二備、丹羽長秀の軍勢と火花を散らしたのだ。
刹那、
「掛かれ! 掛かれ!」
今川氏真が大音声を発した。
それを合図に四千の人馬が一斉に駆け出す。
辺りを震わす地鳴りが生まれ、夜の闇より一足早く空を覆い隠そうとする、土埃が舞い上がった。
彼方から迫り来る物の迫力に押され、織田方である丹羽長秀の兵の腰が引け始めた。
他方、背後から我が身を追い越していく鬨の声に励まされ、今川方朝比奈泰朝の兵の勢が増した。
そこに、今川氏真が率いる四千の兵が加わった。
瞬く間に押し返される織田の軍勢。
それはまるで、満ち潮に際し、川を遡上する波の如くであった。
◇
斯波義銀は丹羽長秀の一軍が押され始めたのを冷たい目をして見ていた。
実は彼ら、斯波義銀と丹羽長秀は旧知の間柄であった。
何故ならば、丹羽長秀は尾張守護である斯波の家に代々仕える家の次男であったからだ。
歳も近かった。
故に、丹羽長秀と何かと顔を合わせる機会の多かった斯波義銀は、幼き頃から丹羽長秀を実の兄の様に慕っていた。
なのに……丹羽長秀は元服早々、織田信長に仕えた。
その時、斯波義銀の感じた喪失感は一入であった。
だからなのか、はたまた戦の最中に思い出に浸った所為なのか、斯波義銀はニヤリと笑ってから、
「織田信広殿と飯尾連竜殿を! 丹羽長秀殿を襲う一軍を挟み込む形で横合いから突かせよ!」
丹羽長秀の助けに向かわせた。
織田信広と飯尾連竜は丹羽長秀の軍を辛うじて助けた。
件の軍が崩壊するのを押し留めたのだ。
しかし、敵もさる者。
一部の騎馬が丹羽長秀らニノ先手衆の備を突き破ったのであった。
これには織田方の軍監を任されていた斯波義銀も、
「なっ! なんと精強な兵どもよ!」
と驚いた。
だがそれは束の間。
彼は再び口角を上げ、次の一手を指し示した。
「前田利益殿が本陣前備えを前に出させよ!」
本陣前の壁がゆるりと、死の行進を始めた。
だが、その”死”が訪れるのは彼らにではなく、彼らが迎える相手に対してであった。
前田利益は自らが率いる六尺を越すの大男達とは違い、背丈はこの時代の男の平均よりやや高い程度だ。
そんな彼が山の様に大きな男達を率いる事が出来るのは、偏に彼らの誰よりも強いから、であった。
那古野の相撲大会において、大男に比して小さな体にどこにそんな力が隠されているのか、と思わせたのである。
以来、大男は前田利益を慕い、付き従っている。
旗衆はそんな彼らの立派な体躯を見て、織田信行が戦う相手を萎縮させる為に活かせると考えた結果であった。
次に織田信行はその豪壮無比な力に着目し、戦闘工兵として用いる事にした。
この時代で言う所の”黒鋤衆”だ。
無論、織田の家中にも他に黒鍬衆が存在していた。
だが、この二つの集まりには決定的な差が存在していた。
それが、
「我らは”旗衆”は織田家中最強! 我らは一騎当千の武士の集まり也!」
なのである。
「故に! 良いか貴様ら!」
「応!」
「ゆめゆめ、忘れるな! 我らが進んだ後には、草の根一本残さず! 命を刈り取るのだと心得よ!」
「応!」
「撃滅せよ!」
「応!」
「殲滅せよ!」
「応!」
「壊滅せよ!」
「応!」
前田利益の鬨の声と共に、仁王らが歩み始めた。
彼らは唯々、死を振り撒くが為に前へと進む。
そして、彼らが進んだ後には文字通り、誰一人生き残りはしなかったのだ。
◇
突如現れた壁を前に、今川方は先程までの勢を失ってしまった。
その理由は、
「なっ! なんだあの化け物は! 人がまるで塵芥の如く潰されていくではないか!」
文字通り無双する、織田方の本陣前備えによる攻勢であった。
左手一つで矢盾を掲げ、右手には巨大な金匙を握り、それらを巧みに振り回し、振り下ろす。
自らの道を斬り拓いて行くその姿は、誰しもが”人以外の何か”を彷彿したのだ。
だが、今川方にとって本当の問題はこれからであった。
勢の止まった今川方の本陣突撃隊を尻目に、森可成が率いし織田方の騎馬が襲い掛かったからだ。
その様は巨大な顎で獲物を噛みちぎる鰐(サメ)の如し。
喰いつかれた小原鎮実の一軍は瞬く間に数を減らしていった。
「氏真様!」
「朝比奈泰朝、不味い。思いの外硬い」
「左様に御座いまする! しからば……」
今川方の総大将と将が戦場で手短に対策を講じようとした所、
「う、氏真様!」
「……由比正純か」
最前線から三名の騎馬が駆け戻って来る。
そのうちの一人、由比正純が頻りと南を指差し、声を発しようとしていた。
「う、氏真……様! あ、あれをご覧あれ!」
今川氏真が由比正純の指先を追うと、丸に二つ雁金の旗を先頭に掲げた、およそ一千の人馬が南下していたのであった。
真っ先に事態を悟ったのは今川氏真だった。
彼は
「いかん、掛川を狙われたか。朝比奈泰朝、退き鐘を鳴らせ。先に掛川に入らねばならぬ」
一瞬にして自らが敗れ去った事を知り、退く事を決意した。
その刹那、矢による風切り音が響いた。
「ぐっ……」
「ゔぅぅ……」
喉を圧した際に起こる、くぐもった声が二つ鳴った。
土の上に酷く重いものが二つ立て続けに落ち、馬が驚き嘶いた。
音の原因は、具足を纏った二人の武士が鞍から転がり落ちた所為であった。
彼らはめいめい、首から鏃を生やしている。
「氏真様!」
由比正純が振り絞った声を発し、自らの身体を鞍から投げ出した。
まるで何かから自らの身体を盾にし、主を守ろうとするかの様に。
遠くで乾いた音が鳴った。
直後、今川氏真は目にした。
自らの名を叫んだ由比正純、彼の額が奇妙に膨れ上がり、破裂する様を。
桃色をした、柔らかな内容物が辺りに飛び散り、その一部が今川氏真の顔を汚した。
今川氏真の眉間に皺が寄り、深い谷間を刻んだ。
だが、それは一瞬の事。
彼は直ぐ様馬首を返し、一目散に走らせた。
そして、いち早く続いた者に対し、
「朝比奈泰朝、どうだ?」
端的に問うた。
「はっ! 辛うじて我らが先に入れるかと思われまする!」
今川氏真は小さく頷きを返し、
「で、あろうな。掛川には直ぐ様、籠城の手筈を整えさせよ。間に合わぬ者の事は考えるな」
「ははっ!」
更なる決断を下す。
彼の視線が一瞬、駿河に向かった。
「もう……会えぬやもしれぬな」
その瞳に表れた色は悔し気であった。
◇
「信行様、道を拓いて頂きながらのこの体たらく。誠に申し訳ありませぬ」
「いや、何。橋本一巴は気にいたすな。邪魔さえなければ、三町も離れた的を撃てた筈なのだから。そうなのであろう?」
「そ、それが……」
橋本一巴が何やら口ごもる。
俺はそんな彼を訝しんだ。
やがて観念したのか、橋本一巴は一息に吐き出した。
「某の狙いし場所より、些か外れてまして御座いまする!」
「何と! それは誠か!?」
「左様に御座いまする! 急にすとん、と落ちた感じがしたに御座いまする!」
俺は内心、「それ、何て無回転シュート!?」と驚くも、
(ん? 無回転!? あれ? そう言えば、現代の鉄砲って……溝があるとか、無いとか? いや、そもそも玉の形からして違うか……)
「……橋本一巴!」
「はっ!」
「鉄砲奉行を命ずる! この戦が片付き次第、那古野に鉄砲鍛冶を呼べ! それも選りすぐりの者を幾人もだ! 良いな!」
「は、ははっ!」
「金は幾ら掛かっても構わぬが、口が固い者をな!」
「承知仕りました!」
次なる手を素早く打つ。
(それにしても、ライフリング? の施されていない銃を使い、更に丸い弾丸で三百メートル先を狙撃? 例の狙撃手でも流石に無理だろ?)
俺はその事実に、今更ながら恐怖を覚えた。
翌日、俺は今川氏真らの篭る掛川城を完全に攻囲した。
その上で、
「掛川城を囲う様、付け砦を築け! 蟻一匹通すで無いぞ!」
長丁場に備えさせた。
山間の雪が溶けるまでは、甲斐と信濃を領有する武田晴信が動き始めるまでは、ここ遠江に残るのが最良だと思えたからだ。
何故ならば、俺は甲相駿三国同盟最後の一国、相模国を治める北条の動きが気になっていた。
そしてその懸念は、現実となった。
「の、信行様!」
「蔵人か、如何した?」
「はっ! 北条の一軍が駿河国に侵入!」
「何! それは誠か!?」
今川氏真が動けぬ今、東海道最大の雄が動き始めたのである。
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