#037 異なる物
永禄元年(西暦一五五八年)、九月中旬
今川義元による尾張侵攻以前、今川氏が領有していた国の石高は駿河国十五万石、遠江国二十五万石、三河国二十五万石の計六十五万石であった。
その内の十五万石弱、西三河が織田信行による逆侵攻を受け、尾張織田家の物となった。
その間、僅かに半月。
正に快進撃である。
しかし、織田信行は更に、東三河をその掌中に収めんとしていた。
その任を担うのは腹違いの兄、織田信広。
織田信秀の長子でありながら、庶子であるが故に家督を継げなかった男である。
彼は手勢の五百に加え、織田信行から以前より与力として与えられし五百、加えて西三河の抑えと東三河の攻略として更に与えられた与力二千、を率いていた。
西三河の国人衆、および百姓兵を含めれば五千は下らない兵力を有していたのだ。
とは言え、今川氏は未だ五十万石を領有する大大名。
動員可能な兵数は一万石当り二百五十とするならば、一万二千五百である。
対する織田氏は尾張国五十万石に加え、新たに得た西三河の十五万の計六十五万石。
石高から見る動員可能兵数は一万六千二百五十。
国境を接する美濃と伊勢に対し、守兵を割かねばならない。
今川氏と織田氏の兵力は絶妙な塩梅で拮抗していた。
◇
尾張国 那古野城 評定の間
「どうろ……に御座いまするか?」
「そう。道の路と書いて”道路”、だ。兵や荷駄を要地から要地へと速やかに運ぶ為にも必要だ。まずは那古野と岡崎を結ぶ、東海道上に設ける」
現代で言う”道路”とは、舗装された道の事である。
俺の生まれ育った日本において、道路の舗装材には主にアスファルトが使われていた。
最近ではコンクリート舗装の道路も増えてきていたらしい。
アスファルトに比べてメンテナンスコストが掛からないという理由でな。
さて、何故、今その”道路”が必要かと言うと、既存の土と石塊の道では晴天時は兎も角、雨天の際に地面はぬかるみ、行軍に支障をきたすからだ。
これは大問題であった。
俺の考えている、将来の軍編成においては尚更に。
そこで、”道路”を作ろうと思い至った訳だ。
決して、俺が裏で営む商家、”那古屋”を間に咬まし、私腹を肥やそうと思った訳ではない。
ほんの少し、中抜きはするけどな。
で、道路の舗装材に何を選ぶかなのだが……最初に思い浮かんだのがコンクリートだ。
工房で一定のサイズのコンクリート板を作り、現地で地面の上に被せれば良いか、とな。
必要な材料は石灰と火山岩。
そう、古代ローマで使われていたコンクリート故に古代コンクリート、もしくはローマンコンクリートとも呼ばれる代物だ。
現代では、二千年以上に渡って建つパンテオンに使われており、大層有名だ。
だが、俺は古代コンクリートを道路の舗装材に用いるのをやめた。
何故か?
その理由は、「古代コンクリートは実に有用だ。道路に使わず、別の物に使った方が良い。例えば港湾や川などの護岸整備に」と考えたからだ。
何せ、那古野は大きな川に挟まれている。
万が一川の氾濫が起きた場合、織田家はもとより尾張があっという間に滅びてしまうかもしれない。
それに、遠い未来の近世においては伊勢湾台風の事例もあった。
備えておくに越した事はない。
結果、那古野城とその城下町の”総構え”となるのだからな。
でだ、肝心の道路の舗装材に何を用いるかと言うと、
「砕石……に御座いまするか?」
であった。
「ああ、砕石だ。それも大きさの異なる砕石を敷く」
具体的には重機……は無いから、重いローラーでも作らせ、それで土を踏みしめる。
次に、極細かい砕石で土の表面を覆い、その上に荒い砕石を一層十センチの厚さとし、二層敷く。
最後に、細かい砕石を厚く敷き詰め、再びローラーで踏みしめれば完成だ。
騎馬や馬車が全力で疾走しても舗装が剥がれない、”道路”が出来上がる。
そう、織田信長が思考した? 常備軍を最大限に活かすには道路に代表されるインフラの整備が肝要なのである。
朝、那古野を発した一軍がその日の昼過ぎには岡崎に着き、夕闇の迫る岡崎から帰還する一軍が日を跨がずに那古野に戻れる様に。
その証拠に、かのナポレオンもこう言葉を残している、
「女とパリは留守にしてはならぬ」
とな。
「は?」
林秀貞が、「大丈夫か、こいつ?」的な顔を作り、俺を見つめていた。
俺は小さな咳払いをしつつ、
「南蛮の偉大な王なるの言葉だ。行軍は速さを尊ぶ、その様な意味が含まれている」
と誤魔化した。
「先程のお言葉からは、とてもその様な意味合いが含まれているとは思えませぬが……」
「……(確かに)で、あるか」
すると、そこに俺の近習の一人が口を挟む。
「して、その偉大なる王の名は?」
「うん? ナポレオン・ボナパルトと申す。広大な南蛮を制した者だ」
ただし、今から数百年後にな。
「これ、太田牛一! また、その様に! 何度言ったら分かるのだ!」
「まぁ、良いではないか。それもまた、牛一の役目。大めに見てやれ」
「信行様が左様にまで申されるならば……」
すると、その言葉を受けて太田牛一が身を乗り出した。
ここぞとばかりに、問い質すつもりの様だ。
「ご配慮、有り難き幸せ! して、先程のお言葉があるが故に、前田利家様の影働きに、お内儀のご同行をお認めになったので御座いまするか?」
そう、前田利家は何を思ったか、他国における諜報活動に”まつ”を引き連れていったのだ。
それを知った俺は思わず、「くそっ、その手があったか……」と悔やんだものだ。
「いや、アレは違う。前田利家の判断である。もっとも、新婚旅行の代わりとも言える故、殊更咎め立てる気にはならぬがな」
「はて? 新婚旅行……に御座いまするか?」
「そう、新婚旅行だ。新たに所帯を持つ二人が仲睦まじく、未来を思い浮かべながら旅に出る事だ。南蛮ではハネムーンと言うな」
「ほほう! 左様で御座いましたか! その様な旅、尾張では聞いた事が御座いませぬ。もしや、尾張で初の新婚旅行を行いし者は前田利家様やも知れませぬな!」
「ははっ! 左様、左様!」
(それどころか、日本初だな! ……あっ!? さ、坂本龍馬、すまん!)
俺は未来の英傑に心から詫びつつ、
「して、他に何かあるか?」
広間を見渡した。
そこには、織田家に仕える重臣が顔を揃えている。
その数、二十名以上。
当然ながら、出仕を再開させた丹羽長秀や簗田広正の姿もあった。
その様な面々が、今日は残暑が特に厳しいせいか、大層暑そうにしている。
だからであろうか?
「されば某から!」
「蔵人か! 申せ!」
暑さを忘れようと、行動の一つ一つの勢いが普段より増してしまうのは。
「ははっ! 清洲城とその城下町に関してで御座いまする! 那古野城下町が賑わう反面、閑散としてきておりまする! 空き家も多く、いずれ問題となるかと」
「……で、あるか」
ま、そうなるよな。
那古野は那古野大湊から那古野城、およびその周辺を一括パッケージで開発した。
その結果、かの平安京にも勝る、整然と区画整理された”計画都市”として生まれ変わったのだ。
近隣の民がこぞって移り住みたがるのは至極当然であった。
だが、那古野の目と鼻の先にある街から人気が無くなるのは問題だ。
野盗の類や、透波者の巣窟となる恐れがあるからな。
であるならば……
「清洲城とその城下町を”清洲学校”とする、それで如何だ? 三河の国人衆から預かった質やこれから増えるであろう質の類も含め、住み込みで学問を学ばせればよかろう」
実際、正史では清洲城の周辺が栄え、那古野城と城下町は破却された。
清洲城を破却するぐらいなら、他の事に使った方が勿体無くはないしな。
すると、津々木蔵人が男前な顔に恍惚を浮かべ、
「おぉ! そは名案に御座いまする!」
俺の出した案を激賞した。
(な、なんか凄みが増してる。やっぱり、アレか? 帰蝶が俺の子を孕んだ所為か? いや、それ以外に考えられ無いよな……)
俺は突然の寒気にゾクリとした。
目敏く、その様子を捉えたのは前田利益。
彼は、
「はて? 風邪に御座るか? 拙者が良い薬を存じておりますれば、店にお連れしましょうぞ?」
と言葉とは裏腹にニヤリと笑った。
(み、店って……あれか? 人肌で心の病を癒す類の店か? いや、ダメだろそれ。性病に感染するから……。病? はっ!? 肝心な事を忘れてた!)
「皆の者! 医術や薬の心得がある者を清洲に集めよ! その者らの術やら効能を確たる物とし、得た事柄を纏めねばならぬ! ”食”のあり方も含めてな!」
俺の突然の大音声に、皆が唖然とする。
しかし、やがて元に戻った。
その中で最初に声を発したのは、
「失礼ながら、その心は?」
「沢彦宗恩か。何、前から気になっておったのだ。生まれた子が十おったとしても、元服するまで生き残る数は五にも満たぬ。それ即ち、”医”と”食”の心得が足らぬからではないか、とな」
であった。
俺は沢彦宗恩に鋭い視線を向けた。
「宗恩、寺社では医術を秘匿する所もあると聞く。が、仏の教えを説く寺がそれでは本末転倒。そうは思わぬか?」
沢彦宗恩は暫く考えた後、
「……如何にも。織田様の下、俸禄を喰む寺社にその様な事はあり得ませぬ」
と恭しく答えた。
更に、
「新たな知見は寺社においても有用に御座いまする」
と付け加える。
(なるほど、集めるだけでなく公開せよ、か。無論、その積りだがな)
俺は大きく頷き、
「であろう? 左様に手配致せ」
と命じた。
更には、
「無縁仏の亡骸を医術の発展に用いよ。その代わりに、織田の名で丁重に供養するでな」
那古野版解体新書の製作を進める。
軍隊を運用する以上、怪我は付き物だ。
身体の作りを知れば怪我の回復は勿論の事、怪我の度合いに対する判断も明確になる。
それ即ち、判断に用する時間の短縮にも繋がる。
俺は渋る僧侶に、
「御主らが断るなら、他の者に頼むだけよ。これは天下万民の為になる事業ゆえにな!」
何が何でも進めると宣言した。
「わ、分かり申した……」
沢彦宗恩が首を縦に振るまで、さして時間は掛からなかった。
さて、次なるお題は……
俺が家臣らの顔を探ると、村井貞勝が声を上げる。
彼は織田家の外交を担う、能臣であった。
その所為か、何時も笑顔を絶やさない。
まるで、現代の”出来る営業マン”であった。
「美濃の斎藤から、先の戦勝を祝う使者を遣わしたい、との事に御座いまする」
「ほう? して誰を遣わすと?」
俺はこの時、いつになく興味を引いた。
予感めいた物があったのかもしれない。
そして、その事は村井貞勝の続く言葉で裏付けられる。
「西美濃三人衆が一人、美濃北方城主、安藤守就と……」
「……と?」
「美濃菩提山城主、竹中重元とその嫡男にして斎藤義龍が臣……」
(ま、まさか!?)
「竹中重治に御座いまする」
俺は計らずして、現代にて”今孔明”と評される、戦国時代きっての天才と相見える事となる。
果たしてこれが吉と出るか、凶と出るか。
史実にはない動きに、今はまだ分からないでいた。
◇
美濃国 稲葉山城
稲葉山城の城主であり、美濃国の国主でもある男が、若い婦人の如き男を前にして笑った。
「半兵衛」
「はっ!」
「織田信行が御主らの訪問を心から歓迎する、と返してきた。しかし……何故お前はかの者を気に致す?」
半兵衛こと竹中重治は一言、
「”恐れ”故に御座いまする」
と返した。
「ふふふ、お前程の才知溢れる者が恐れる、か。なるほど、お前が警戒を露わにするのも頷ける。此度の織田の戦、余りに異常よ。そうであろう、半兵衛?」
尾張の隣国である美濃は、今川と織田のいずれかが勝っても良い様に、自らが飼う”透波”を尾張の多方面に放っていた。
結果、分かった事は、「今川義元が討たれた直後、まるでその刻限が寸分違わずに分かっていたかの如く、別働隊が三河侵攻を開始した」という事であった。
彼らの常識ではあり得ない事である。
加えて、”火薬を詰めた木玉”は兎も角、”米俵で設けた壁”、”竹で建てられた櫓”。
それらは何もかもが”異なる物”に映った。
美濃斎藤家の家臣団が警戒するのは当然であった。
竹中重治は逡巡した後に一言、
「……御意」
とだけ答えるに留めた。
◇
甲斐国 躑躅ヶ崎館
「織田信行……か。先手を打たねばならんな」
男は厠でポツリと零した。
ブックマークや評価を頂けると大変励みになります。
また、誤字脱字に限らず感想を頂けると嬉しいです。
ご贔屓のほど、よろしくお願いします。




