#035 今川義元による尾張侵攻(6)
田楽狭間とは桶狭間山の麓にある、”狭間”の事である。
鳴海道においてはこの場所だけが適度に拓け、且つ適度に木立が有り、大軍を夏の日差しから凌ぎ易くしていた。
ここから先は狭い山間の道、木々に挟まれた小丘が連なっている。
当然起伏も有り、休める場所は到底望めないのである。
今、その田楽狭間にて、今川義元が率いる一軍が足を休めていた。
三河百姓らによる酒や肴を口にしながら。
「呑むふり、食うふりをしろ」と命じられた事なぞ何処吹く風。
完全に酒宴の様相を呈していた。
それもその筈、彼らはここに来るまでの連日の行軍により、既に疲れ切っていたのだから。
そんな彼らの目の前に、呑んだ事もない旨い酒(蒸留酒、焼酎の類)と、食った事もない旨い肴(猪肉の味噌漬け焼、塩、等など)が山の様に用意された。
好きなだけ呑め、好きなだけ食えと馳走された。
最初は呑むふり、食うふりをしていたとしても、僅かにでも唇に触れれば、その僅かでも呑んでしまう、僅かにでも口に含めば、その僅かでも食ってしまう。
それがいつしか、
「あぁ、彼奴、呑みおった! なれば儂も! どうせ織田との戦に本陣が戦う事もあるまいて。先手衆も追い散らかしたと言うていたではないか!」
誰彼と無く少しずつ呑み、少しずつ食い始め、やがては我先に呑み食いする酒宴となる。
実に当然の事であった。
そんな中、とある陣幕の内では幾つかの問題が露呈していた。
それは、
「斥候が戻らぬ。加えて桶狭間山の頂きに遣わした見張りからも応えが無い」
であった。
更には、
「馬が足りぬ。どうやら百姓共が水を飲ますと言うて連れた際、少しずつ間引いたらしい」
という事も発覚した。
本来、見ず知らずの百姓に馬を預けるなど有り得ない。
それも、自らの目が届かぬ場所に連れて行くなど、とんでもない事であった。
なのにそれが起きた。
何度も言う様だが、暑い日差しと連日の疲れが、彼らの判断を狂わせたのである。
致し方の無い事であった。
しかし、戦国大名たる男は違う。
「見せしめに、酷く酔うておる者を端から打首に致せ」
どうせ戦いの役に立たぬならと、他の者の酔い覚ましの為に殺せと命じた。
その苛烈な所業は自らの一族以外を、自らの野望を叶える為の道具としか見れぬ、覇王の現れであった。
しかし、今川義元の人生も決して楽なものではなかった。
彼は今川氏の三男として生まれて直ぐ、僅か四歳にして仏門に入れられたのだから。
太原雪斎と共に京で色々と学んでいた十七歳の折、今川家当主となっていた今川氏輝とその弟、彦五郎が相次いで亡くなった。
北条の歌会に誘われ、小田原城を訪れていたその日にだ。
直後、今川義元は還俗して駿河国に戻り、庶兄である玄広恵探との間で家督争いを繰り広げた。
その争いにも勝ち、甲斐武田家から正室を貰い受けたのが十九歳の時。
三河を帰属させ、三国持ちの戦国大名となり、海道一の弓取りと呼ばれる様になったのは三十一歳の時であった。
これだけ見れば、武断の王と言っても過言ではない今川義元ではあるが、内政や外交にも長けていた。
その代表は、今川仮名目録に追加法(仮名目録追加二十一条)を加えた事と甲相駿三国同盟を成した事であろう。
戦上手の政上手。
加えて、武芸においても弓術と槍術は当然の如く、剣術においても新当流を十二分に嗜んでいたとさえ言われている。
正に戦国の覇王であった。
そんな彼ではあったが、一つ思い違いをしていた。
それは、
「早う隊列を整えよ。早ければあと半刻(一時間)もすれば織田の兵がここ田楽狭間に飛び込んで来るでな」
である。
今川義元は織田方の兵の動向を完全に見誤っていたのだ。
その証拠に、背後の大高道から、
「ズゥンン……、ズゥンン……、ズゥンン、ズゥンン……」
重い大音と共に地響きがする。
「な! 何事か!?」
今川義元の声に、陣幕に駆け込んできた武者が平伏して答えた。
「恐れながら申し上げます! 土砂崩れに御座いまする! 大高道へと繋がる道を塞がれたに御座いまする!」
そして、駆け込む武者は一人ではなかった。
「恐れながら申し上げまする! 大高道側から織田の兵が向かって来ておりまする! その数、少なくとも三百! 揃いも揃って六尺を越す、大男に御座いまする!」
更には、
「鳴海道から馬蹄の音が聞こえ始めたとの事に御座いまする!」
「騎馬だ! 騎馬に御座いまする!」
「馬印は……織田木瓜! 織田木瓜に御座いまする!」
「馬だ! 馬の大群だ!」
が喧騒と共に齎された。
「お、おのれ、織田信行!」
さしもの今川義元も、湧き上がる怒気を憚る事が出来ない。
床几を引き倒し程勢いよく立ち上がり、瞬く間に顔を赤黒く染め上げる。
強く握った拳からは、ポトリ、ポトリと赤い雫が溢れていた。
◇
「良いか! 今川義元が率いる本陣は酒宴に明け暮れている! これより我らもその宴に加えて貰おうぞ! 我らは手土産に矢玉に槍を馳走し、彼奴等からは首を馳走して貰おう! さぁ、いざ行かん! 織田に挑みし者に! 罪を与えに! さぁ、いざ行かん! 織田の前を塞ぐ者に! 死の前に立つ恐怖を与えに! さぁ、者共! 掛かれ! 掛かれ! 掛かれ!」
俺が鳴海道の小丘の上に立ち、三千の兵に対して号令を掛けたのは、今からほんの少し前の事であった。
先の言葉と同時に、一軍が動き出した。
戦闘は五十頭にも満たぬ馬の群れ。
木下藤吉郎に命じ、あわよくばと思い盗ませた馬だ。
その後ろに俺を含めた騎馬武者が続いている。
前を行く馬群を適度に急かせながら。
更にその後ろには弓衆と長柄衆が足を懸命に動かしていた。
前へ前へと、走らせていた。
目に鋭い眼光を宿しながら。
時折、彼らは次なる獲物を思い、舌舐めずりしていた。
轟く馬蹄の音に混じり、高らかに鳴く山鳩の声が届く。
何も知らぬ者が聞けば、俺達の音に驚き、飛び立つ際に発した鳴き声だと勘違いしただろう。
しかし、俺達自身はそれが何かを知っている。
それは遠くにいる仲間へと伝える、信号であった。
俺は、俺の隣で馬を駆る男に目を向けた。
すると、男は舌を噛むのも恐れず、
「大丈夫で御座る。旗衆は間道作りをやり遂げたで御座る。冬眠する熊の如き穴に籠り、春先の如く穴から這い出て道を塞ぐ。造作も御座いませぬ」
と言ってのけた。
この男の名は前田利益。
現代では歌舞伎者の代名詞と持て囃される武士であった。
俺は小さく頷き返した。
そして、ふと後方に振り返った。
そこには、小姓の服部小平太と毛利新助が馬を駆り、俺に付き従っていた。
史実では今川義元を追い詰め、一方は一番槍をつけるも返り討ちにあい、一方は指を食い千切られながらも討ち取った。
彼らの目は輝き、口が裂けんばかりに広がっていた。
やがて進む先から、「ドォオオン」という爆発音が幾つも轟いた。
それは、旗衆という名の戦闘工兵らが、俺の命を果たした知らせに違いなかった。
俺の目が細まる。
その直後、人集り独特の騒がしい音が聞こえ始めた。
土や樹木の香りの他に、人の炊いた焚き火や煙の匂いを鼻が拾った。
人の汗臭い匂いも混じりだした。
隘路の出口が見え始めた。
「者共! 蹂躙せよ!!」
「オォ!!」
俺達は一丸となって田楽狭間に駆け込んだ。
時速三十キロメートルを越す馬群が、自然と偃月の陣を形作り突っ込んだ。
今川方が慌てて組んだ鶴翼の陣の中心に。
彼らの先頭に立つ長柄衆は堪らず馬の経路から逃れようとするも、それは叶わなかった。
味方の兵がおり、逃げ場がなかったからだ。
俺はその不幸な長柄衆が馬に吹き飛ばされるのを、隘路の中から目にした。
そして、その男に巻き込まれる様に近くにいた男どもが押し倒されるのを。
と、同時に、乾いた爆発音が幾つも、幾つも鳴った。
それも隘路の先の、狭間の彼方此方でだ。
その音は木玉で作った、手榴弾の音であった。
森の中、藪の中に潜んでいた山窩衆に加え、狭間の周囲にある深田の周りに潜んでいた河原衆が火を点し、放り投げたのだ。
無論、彼らの攻撃はそれで終わりではなかった。
射程の短い、竹製の十字弓ではあるがそれを構え、一斉に放った。
風切音が無数に立つ。
今川方の兵は大混乱に陥った。
早々に潰走の体を見せる今川方の雑兵。
周囲の森の中に、散り散りとなって逃げ出し始めた。
そう、俺が田楽狭間に着いた時には、今川方の陣形は完全に崩れていたのだ。
俺はニヤリと笑った。
俺を挟む様に並走していた森可成と前田利益。
彼らは自らの後から続く騎馬を引き連れ、左右に分かれた。
俺はそれをチラリと見送った。
刹那、
「ヒヒィーン!」
俺の騎乗する馬が痛々しく嘶いた。
見ると、馬の首から大きな鏃が俺に向かって伸びていた。
馬の足が遅くなり、ふらつき始めた。
「なっ!?」
と思っている間に、
「ザクッ!」
馬の首を貫く鏃が二本に増えた。
馬体が傾き、俺は投げ出されそうになった。
「の、信行様!」
背後から続く小姓が俺の異変に気付き、俺の名を叫んだ。
だが、俺はそれに答えるどころではなかった。
(い、いかん! 何者かに狙われている! このまま倒れてしまっては……)
脚を震わせ、頭から崩れそうな馬。
俺はその馬のたてがみを引き寄せ、頭を俺の前に吊り上げた。
すると、馬の首から覗く鏃がまた増えた。
続いて、更にもう一本。
俺が吊り上げてた馬の首が、引き千切れた。
その結果、俺の乗る”馬だった物”はバランスを崩し、横倒しになる。
俺は辛うじて鐙を蹴り、馬の下敷きになるのを逃れた。
だが、俺を狙う、射手の目からは逃れられなかった。
地を転がり、大弓を構えた瞬間、俺の顔を狙い澄まし矢が貫こうとしていた。
「クッ!」
俺は皮一枚でその一矢を躱した。
そして、この恐るべき射手に視線を向けた。
そこには、大弓を持つ武将がいた。
いや、ただの武将では無い事は一目瞭然であった。
胸白の鎧に黄金の龍を乗せた五枚兜、それに赤地の陣羽織。
紛う事なき大将姿。
俺はその身体を包む鎧の雅さに目を丸くした。
俺はその見事な具足姿をより映えさせる、大層立派な身体つきに目を見張った。
そして何よりも、全身から漲る覇気に目を奪われてしまった。
(兄の信長と同じか、それ以上……か)
俺は二人目の覇者と対峙していた。
その覇者は新たな矢を番えようとしている。
(ま、不味い!)
俺もまた、矢を番えた。
しかし、相手よりは遅れていた。
明らかにワンテンポ遅い動作。
相手の方が先に、指から矢羽根が離れた。
「アァァァァ!」
俺は全神経を集中し、
「当たれや!」
相手の矢羽根の軌道を読み、矢を放った。
揺らぐ軌道。
それでも、二つの軌道は俺の直ぐ近くで衝突した。
(お、お落とせたか!?)
俺は刹那、そう思えたのだが、
「痛っ!?」
そうでは無かった。
必殺の軌道を変えられただけであった。
俺の左足の甲に矢が突き刺さる。
それは地面深く穿ち、俺を地に縫い止めたのであった。
(こ、これは! 流石に死ぬ!?)
俺は死を予感した。
しかし、その時は一向に訪れなかった。
俺の動きを止め、気を良くした相手が、
「余の名は今川治部大輔義元!」
名乗りを挙げたくなったからだ。
しかし、猶予は束の間であった。
「織田信行! 死ねや!」
今川義元は新たな矢を番える。
俺は死を覚悟した。
だが、予想外の事が起きた。
「よ、義元様! お退き下され!」
今川義元の近習らが、彼の動きを止めたのだ。
「馬鹿者! 邪魔立てするでないわ! 彼奴を討たねば! 今彼奴を討たねばならぬ! 彼奴を生かしては……」
「な、何を申されます! 義元様あっての今川家に御座いまするぞ!」
「家督を継いだ氏真がおるわ! 御主らは分かっておらぬ! 何一つ分かってはおわぬ! どうやっても! 彼奴を生かしてはならぬのだ! この様な戦いをする彼奴だけは! この命を捨ててでも、彼奴を討た……」
すると、俺の背後から騎馬武者の新たな一群が現れ、俺を追い越していった。
その騎馬武者らは、そのまま今川義元を囲む近習に激突した。
「今川義元公とお見受けいたす!」
「その首、頂戴仕る!」
服部小平太、毛利新助と六人衆の面々であった。
彼らは大勢の崩した近習らを瞬く間に斬り伏せ、今川義元へと迫った。
今川義元は大弓の先に取り付けた、弭槍で迎え撃った。
その動きはまるで”舞”であった。
熊の如き巨体が、一切の無駄を排して動く。
その威力は自ずと知れた。
六人衆の槍三本、伊藤清蔵、城戸小左衛門、堀田左内が弭槍を躱すも大弓で打ち据えられ、倒れた。
今川義元に三人掛りで傷一つ与えられなかった。
成果は一つ、大弓を壊した事。
しかしそれは、乱暴な扱いをした当然の報いであった。
だが、その瞬間を狙い、未だ発展途上の小さな身体が踊った。
「服部小平太、参る!」
「毛利新助に御座る!」
俺の小姓の二人だ。
彼らは今川義元が腰に下げた、二尺八寸の太刀を抜かす間も与えず、打ち掛かった。
(イケーッ!)
俺は弓に矢を番えながら祈った。
服部小平太の槍が今川義元の胸元を穿つ。
毛利新助の槍が今川義元の頭を打ち据える。
俺にはそう見えた。
その筈なのに、次の瞬間、二人は地面に倒れていた。
一人は鼻から血を吹き出し、一人は身体をくの字に折り曲げ、苦しみに悶えている。
どうやら、完璧なカウンターが入ったようだ。
今川義元の具足は一つも汚れていない。
太刀は実に煌びやかであった。
それが今、抜かれた。
足元に転がる首を一つ、打とうとしていた。
俺は足の痛みを堪え、弓を引き絞った。
今川義元は太刀を上段に構えた。
そして、振り下ろされる、まさにその瞬間、
「今川義元が首! この多田野犬千代が貰い受け候!」
この辺りを騒がす”六尺山犬”が現れた。
それは、熊に山犬が襲いかかる瞬間であった。
「ガンッ!」
鈍い音が田楽狭間に響いた。
「俺の為に討たれろや!」
山犬が吠えた。
「退け、下郎!」
熊が咆哮を上げた。
数度、鈍い音が響き渡ったかと思うと、槍の柄と太刀の刃が十文字を描いて重なる。
互いに歯をむき出しにしながら、力比べが始まっていた。
「余の方が! 力は上よ!」
その言葉の通り、じわりじわりと押し返される山犬。
いよいよ、山犬が膝を屈しようとしたその瞬間、
「グァアッ!?」
今川義元が苦悶に目を見開いた。
そして、その目を俺に向けた。
いや、俺が手にする大弓を見た。
そう、たった今音を発した弓を。
彼の首には一本の矢が突き刺さっていた。
今川義元は眼力だけで俺を殺せそうな程、睨みつけてきた。
それに対する俺の答えは、
「南無八幡大菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神! 我一芸を御照覧あれ!」
である。
山犬は未だ、今川義元の力に押し負けている。
俺は引き絞った弦から指先を離した。
「グウゥッ!」
矢は真っ直ぐに飛び、今川義元の首に突き刺さる。
それでも、あろうことか山犬は両膝を屈した。
今川義元は真の化け物であった。
俺は三本目の矢を番え、放った。
更に四本目の矢も。
それは、渾身の力を込めて引き絞った一矢であった。
放った瞬間、弓が大きく鳴った。
その矢は大きな風切り音を発した。
矢は今川義元の首に吸い込まれた。
そして、
「お、落ちた!?」
四本もの矢を受けた首が宙に転がる。
それは槍の柄を両手で持ち、今川義元の下で堪えていた山犬の叉の間に落ちた。
と、同時に今川義元の身体を押し返した山犬。
彼は、足元にあった首を拾い上げ、
「今川義元が首! この”多田野犬千代”が討ち取ったなり!」
と勝ち名乗りを挙げた。
--更新履歴
2017/10/31 誤字修正
更新を最優先にしているので、感想返しが追いつかないで候。
ごめんなさいです。
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