#031 今川義元による尾張侵攻(2)
「はぁ……」
松下之綱は自らの陣に戻る途中、深いため息を吐いた。
「まさか、あの流れ者が織田の棟梁の側で仕えていようとはな……」
父の長則に奉公していた、同じ年頃であった若者の姿が彼の脳裏に浮かんだ。
その者の顔はまるで猿やネズミの如きであった。
「猿の恩返し……か」
陪臣が大殿である今川義元から名指しで呼びつけるなど、本来は有り得ないのだから。
「……はぁ」
松下之綱はまた一つ、深いため息を吐いた。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、八月二七日 昼過ぎ 那古野城 二の丸 広間
「今川方の先陣が沓掛城に入った」
その報せを聞いた俺は、
「出陣する!」
すぐさま陣触れを発した。
「此度の戦は尾張の行く末を決める戦だ! 尾張の先先を憂う者は熱田神社に集まれ、そう伝えい!」
俺の言葉を伝えに、小姓らが走る。
それと入れ替わる形で、女衆らが広間に現れた。
「信行様……」
彼女達は皆、顔色が悪く、明らかに心配気な顔をしていた。
「荒尾御前、それに他の者らも。如何した?」
「如何も何も、これから信行様が戦に出られると聞き及び、皆で参ったので御座います」
俺の問いに、正室である荒尾御前が代表して答えた。
憂いを帯びた眼差しで。
俺はそんな彼女を抱き寄せ、
「ふふふっ、私が戦陣に立って負けた事があったか?」
耳に風を吹き込むように囁いた。
「あっ……」
荒尾御前の体が俺の腕の中で跳ねた。
俺は思わず、ニヤリと笑った。
「ほんに信行様は酷いお方に御座いまする……」
荒尾御前はそんな俺の胸に顔を埋めながら、艶っぽい声を出す。
俺は堪らず、久方ぶりに彼女を抱きたくなった。
白昼、他の人の目があるにも拘わらず。
加えて、腹に我が子を孕んでいると言うのにだ。
これはきっと、戦を前にした気持ちの昂りと関わりがあるのだろう。
俺がそう感じていた刹那、
「ちちうえー!」
小童共の声が鈴生りに響いた。
「ちちうえー! 負けないで、ちちうえー!」
「ふははっ! 於勝丸よ、お前達の弟か妹が五人も六人も新たに産まれるのだぞ? 死んでたまるか!」
「ちちうえー! けがしないで、ちちうえー!」
「そうさな、奇妙丸よ! 怪我をしたら、お前らを満足に抱き上げられぬからな!」
「ちちうえー! あそこに木玉が無いよ、ちちうえー!」
「木玉おくれよー、ちちうえー!」
「おいおい、於坊丸に於国丸……。お主らは実の父より木玉の心配をするのか? 全く、しょうの無い奴だ。でも、すまぬな。あれは此度の戦に使うのでな。良勝に頼んで、また作って貰おうな?」
「あい!」
彼らの後から、乳母に抱かれた乳飲み児らが。
俺はその小さき織田の姫やら彦やらを代わる代わる抱き、言葉の分からぬ者らに言葉を掛けた。
ちなみにだがこの時代、戦に勝つ為に出陣の数日前は女との触れ合いは禁忌とされていた。
さらには妊婦が具足や衣類にすら触る事を禁じ、出産後暫くは男に触れる事すら許されてなかった。
知らなかったとはいえ、俺はそれを率先して破った。
結果、織田家中において、そのような風潮は薄れていく事となったのであった。
いずれ、戦場で女を侍らす事も許されるのでは無いだろうか?
閉話休題。
やがて、一人の美麗な女が俺の前に現れた。
彼女は沈痛な顔をして、俺に苦し気な胸の内を吐露した。
「信行様……。わたくしにだけ、まだ子がおりませぬ。必ずや、無事にお戻りを」
「……帰蝶、あい分かった。その代わり、子は今しばらく待て。お前にまで孕まれると……なっ?」
すると、目の前の女は一転して華の様に微笑んだ。
「うふふっ。信行様が良く仰いますように、”それはそれ、これはこれ”、に御座いまする。それにいざとなれば小姓らが……」
刹那、
「帰蝶殿! そ、それは本の中だけの話に御座いまする!」
高嶋の局が言葉を遮った。
「本?」
「おほほほほっ! な、なんでも御座いませぬ、信行様! さ、ささっ、戦支度を! だ、誰かある! 信行様の具足をお持ちあれ!」
女衆が示し合わせたかの様に、一斉にせわしなく動き始めた。
俺は女共にされるがまま、戦支度を整えたのであった。
俺が熱田神社に着いたのは申の刻(午後四時頃)であった。
既に多くの兵馬が集まり、人の行き場がない程である。
(信長はまだ暗い内にたった数騎で……俺とはえらい違いだ)
そんな人集りを掻き分け、俺の前に現れたのが、
「森可成……か。壮健そうで何よりだ」
であった。
「はっ! 尾張の大事! 郎等を率い、馳せ参じ仕り候!」
「うむ、大儀である」
見渡せば、彼を筆頭に多くの、兄である信長の死を悼み、出仕を控えていた者達がいた。
そんな中に、
「はて、丹羽長秀と簗田広正の姿が見えぬな……」
織田信長の重臣中の重臣である者の姿と、史実では”桶狭間の戦”において勲功第一を誇った者の姿が見えない。
(チッ、ふざけやがって! 此の期に及んで戦働きを拒むとか有りえん! 今川義元が攻めて来るからと思い、下手に出てみれば……)
俺は森可成を手招き、
「折角だが手勢の一部を割き、ここに居らぬ丹羽長秀や簗田広正に伝えて貰いたい。”これが最後だ。手勢を率い熱田と那古野大湊を守れ。我が今川を打ち破りし後は、荒子の前田と共に蟹江を陥せ”とな」
なるべく感情を表さぬ様に囁いた。
「はっ!」
森可成は素早く答えると、足早に俺の前を辞した。
俺はその姿を満足気に見遣り、小さく微笑んだ。
(さて、兄上に肖り、必勝祈願に参るか)
俺は居並ぶ重臣らに一声を掛け、社殿へと足を運んだ。
その後、俺達は一軍となり、鳴海城へと向かった。
城に着いた時、既に日は暮れていた。
俺は今一度、軍兵を立て直しを命じ、明日の行軍に備える。
また、佐久間信盛と山口教吉の二人を呼び、改めて命を下した。
「今川方を誘い出して貰うが、決して鳴海道から出してはならんぞ」
「ははっ!」
この日、俺の胸は高鳴り続け、収まる気配がなかった。
それは夜が明けても、変わることがなかった。
(いよいよだな、今川義元! さぁ、俺という餌に喰いつけ! これが兄信長とは違う! 俺なりの一世一代の大勝負だ!)
俺は四千五百の兵を引き連れ、鎌倉街道をゆるりと東進した。
ふと、俺は大高城の方角へと目を向けた。
(煙はまだ上ってはいないな……)
明らかな異常は見受けられなかった。
(なれば、向かい城はまだ無事だと言う事だ!)
俺は一人、破顔した。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、八月二八日
この日の昼過ぎ、今川方の本陣が沓掛城に入った。
今川義元は具足姿のまま、評定の間に足を運んだ。
「どうなっておる!」
広間に入った今川義元は開口一番、大音声を発した。
「松平元康が無事、大高城へ兵糧を運び込まれたとの事に御座いまする!」
「左様か! でかした!」
「ただし! 被害が甚大との事!」
「何だと! 今し方、”無事”と言うたであろう!?」
「はっ! 兵糧に関してに御座いまする!」
「くっ! なれば、織田の動きは!」
「はっ! 鎌倉街道に織田の本陣を発見! その数はおよそ四千から五千! また、鳴海道の出口にも織田勢が二千から三千! その中には山口の旗も見えまする!」
その報せに、今川義元は破顔した。
「松下の手の者が伝えてまいった通りだな! なれば明日、織田本陣を挟撃する! 大高城勢には夜明けと共に織田方の向かい城を攻めさせ、本陣に向かわせぬように致せ! 五千は鎌倉街道を西進、織田本陣と対陣し、釘付けに致せ! 五千は本陣に先行し、沓掛城を南下! 大高道から鳴海道に入り、鳴海城へと向かい、山口教継らを蹴散らせ! 本陣は織田勘十郎信行を背後から討つ!」
「ははっ!」
「戦評定は以上じゃ! 余は暫く休む! 取次は不要じゃ!」
今川義元は足音を響かせ、評定の間を後にした。
その後ろに付き従うは、年若くも美しい少年侍と坊主逹。
今川治部大輔義元の小姓衆と同朋衆と呼ばれる者らであった。
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