#029 尾張侵攻前夜(3)
暦が八月に差し掛かったある日、俺の元に一人の武将が訪れた。
その者は名を、
「山口教吉に御座いまする」
と名乗った。
俺は口角を僅かに上げた。
すると、彼は、
「父である山口教継から帰参願いをお認め頂くに際し、手土産を預かっておりまする」
籠を運ばせた。
その中に何が入っているか、武家であれば誰もが知っている。
無論、その意味もだ。
俺はニヤリと笑った。
「名は?」
「岡部元信」
その瞬間、広間が騒然とした。
俺を含めた誰もが喜色を表したからだ。
何故ならば、”岡部元信”は今川氏の重臣中の重臣。
今川家中で一、二を争う武辺の将として名を馳せていたからだ。
「如何なる手を使い討ったのだ?」
俺は興味本位に尋ねた。
すると、返ってきた答えは、
「信行様の策に便乗させて頂いた次第」
であった。
要するに、岡部元信が今川義元の命”駿府への召喚”を伝えに来た折、城代の引き継ぎを行い、その後惜別の酒宴を催した。
その際、寝首を掻いたとの事。
俺は思わず、背筋を震わせた。
自らの策が思いもよらぬ大魚を釣り上げた事に。
愉悦が腹の底から込み上げてきた。
「クックックッ! わーはっはっはっ! いや、愉快、愉快! 加えて、お主の物言いも気に入った! 本領安堵と那古野に屋敷を許す!」
「ははっ! 有り難き幸せ!」
この後、俺は今川方の状況を確認した。
大高城は朝比奈輝勝が二千の兵を率いて篭っている。
それは山口教継が織田を裏切り、今川方に着いた時から変わらない。
対する織田は大高城を囲う様に砦を築き、兵糧攻めを行っている。
先日、その大高城に鵜殿長照が入った。
千の兵と兵糧を携えて。
これで大高城は急場を凌げるのだろう。
が、千も兵が増えたのだ。
果たしていつ迄持つ事やら。
当然ながら、更なる増援と兵糧が運び込まれるだろう。
そしてそれは、史実通りであるならば松平元康が二千五百の兵を引き連れ、行う。
大高城を囲う砦を攻め、その間隙を縫う形で大高城に運び込むの筈なのだ。
(もっとも、山口教継が再び織田家に帰属し、岡部元信に討たれた。史実通りに動くとは限ら無い……か)
俺は急ぎ評定を開いた。
状況が大きく変わった。
皆の意見を聞き、方針を新たに定める為にだ。
重臣達はすぐに集まった。
城内に家老詰め所が有り、城下に重臣らの屋敷があるからだ。
実に迅速な招集が可能となったのであった。
俺は集まった者らに、
「山口教継が帰参し、その手土産に岡部元信の首が届けられた」
端的に告げた。
刹那、評定の間の空気が瞬く間に張り詰めた。
すると重臣の中から、
「信行様! 某に大高城攻略をお命じあれ!」
柴田勝家が六尺(百八十センチ)もある体を大きく揺すり、訴えかける。
俺はそれを、
「その心意気や良し! 流石は”掛かれ柴田”よのう。しかし、お主にはより大きな任を頼みたい。今しばらく待て」
「ははっ!」
上手く押し留めた。
(さて、当面の問題は鳴海城と岡部元信を失った今川方が如何なる経路で尾張侵攻を行うかだが……)
俺は桶狭間を中心とした地図を広げさせた。
街道が横に長い長方形を浮かび上がらせている。
右上の頂点に沓掛城が在り、左上の頂点に鳴海城、左下の頂点に大高城が在った。
左上の頂点から右下の頂点に向け、まるで長方形の対角線の如く細い山間の道が走っている。
その対角線の真ん中辺り、いや長方形の中心点付近にあるやや開けた場所が、所謂”桶狭間”であった。
史実では兄信長は激しい雨の中、今川義元がいる本陣を強襲し、その首を討った。
それも、当初は明け方に僅かな供回りだけを引き連れ、熱田神社に向けて馬を駆り出した。
「陣触れじゃ! 熱田にて集まれ!」と言い残して。
着いた先の熱田神社の境内にて、慌てて追い掛けて来た己の家臣とその兵を待っていたらしい。
……俺に同じ事が出来るだろうか?
「フッ、出来る訳がない」
「の、信行様?」
「ん? 何だ蔵人?」
「い、いえ、急に何事かを申されました故……」
「そうか? (ふむ、思わず独り言漏れたかもしれんな)……なに、大した事ではない」
俺は津々木蔵人に対して微笑み返した後、
「して、何ぞ妙案はあるか? 皆の衆、存念を述べよ」
重臣らに対して意見を募った。
口火を切ったのは織田信広、俺の腹違いの兄であった。
「鳴海城がお味方になった以上、今川は何としても大高城の落城を阻みたいであろう。故に大高城の向かい城、鷲津砦、丸根砦、正光寺砦、氷上砦に入る兵を増やしては如何か?」
俺は鷹揚に頷き返した。
「信広兄者の申す通りだ。まずは鳴海の向かい城を全て破却し、鷲津砦、丸根砦、正光寺砦に兵を移す。それで各砦は如何程の兵数となる?」
その問いに答えたのは佐久間盛重であった。
彼は、いや彼を含む佐久間氏は智多郡との境に近い御器所城を本領としている。
故に、対今川の中心となり、指揮を執っていた。
「各砦の兵数はおよそ千と成りまする」
「千かぁ……よもや砦に入りきれぬ……などと言うことはあるまいな?」
「ご安心下さりませ」
「なれば良い。他には何ぞ有るか?」
俺は重臣らの顔を見回した。
すると、一人の若侍が、
「北と西の抑えは如何にお考えで御座りましょう?」
と聞いてきた。
その答えは既に俺の腹の中で出来上がっていた。
「北の斉藤に対しては織田信清、織田信家の手勢に任せ、西の蟹江城に対しては荒子前田を当てる。攻めては来ぬだろうと見ている。蟹江は兵が少なく、美濃の斉藤は近江の浅井と揉めておる。尾張に手を出す余裕などあるまいて。それに義弟である斉藤利治の問題さえなければ同盟を組むのも吝かでは無いらしいからな」
「では……」
「うむ、今川の尾張侵攻に対し、ほぼ全軍、鳴海勢を加えた一万を当てる事が可能だ」
「そ、それはもしや!?」
俺はニヤリと笑った。
「あぁ、その通りだ。今川に対し、正面から受けて立ち、この機に今川と松平をこの世から消す!」
その言葉に評定の間が揺れた。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、八月某日 駿河国
「何? 織田信行の策略……だと? 貴様、今一度申せ。下らぬ戯言など要らぬぞ!」
「も、申し訳ございませぬ! 然るに、朝比奈輝勝殿が認めた書状も御座いまする!」
若い侍は懐から差し出したそれを、側の近習に恭しく渡す。
近習はそれを捧げ奉るかの様に、今川義元に差し出した。
今川義元はそれをすぐ様開き、中を検めた。
「お、おのれ山口教継めが!」
若侍は恐れおののく余り、平伏してしまう。
その姿に目もくれず、今川義元は叫んだ。
「誰かある!」
「はっ!」
「朝比奈元長を今すぐ呼べ!」
「ははっ!」
今川義元はこの時、国主に有るまじき程、心が怒りに染め上げられていた。
それは「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と唄われた、名門の矜持故にであった。
「おのれ、織田勘十郎信行! 余自らがそっ首を落としてくれるわ!」
その怒声は登城したばかりの、朝比奈元長の耳にも届く程であった。
◇
同じ頃合の美濃国
城内の一角にて、癩病を患いし大男が女の如き侍と茶を点てていた。
茶の香りと、小気味良い音が室内を満たしている。
「半兵衛、織田を助けよ、と其方は何故そう申す?」
大男はそう述べながら、問うた相手に茶を勧めた。
女の如き侍は一息に飲み干すと、
「苦ごう御座います故に」
呟いた。
「ふっ、良薬は口に苦し……か」
女の如き侍は平伏を持って答えた。
直後、大男は激しく咳き込み始めた。
やがて、落ち着いた際、
「薬が効くのが先か、美濃の身代が崩れるのが先か……」
大男はそう呟くと、儚げに笑った。
女の如き侍は何も答えなかった。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、八月中旬 尾張国 那古野城 評定の間
「これより、軍略衆として評定を開く。皆の者、存念なく申せ」
「ははっ!」
俺の言葉に、数名の侍と坊主が頭を垂れた。
そのうちの一人、兵具衆筆頭岡本良勝が、
「恐れながら、某からご報告させて頂きまする」
最初に口を開いた。
彼は”兵具衆”の名が示す通り、兵具全般の開発を任されている。
年若い侍ながら、既に織田家において最重要人物の一人であった。
「まずは大砲に関してに御座いまする。以前問題となりました砲身の破損が今だに起きまする」
「ふむ……如何なる手を打った?」
「はっ、砲身全体の厚みを増したのですが、その分重量が些か……。砲身における銅と錫、もしくは真鍮の割合を変え、試行錯誤続けておりまする」
「砲身の長さは如何程であったか?」
「六尺に御座いまする……」
(だよなぁ。大砲って言えば、砲身は最低それぐらいの長さだよなぁ。でも、破裂するんじゃなぁ……)
俺は思い切った提案をしてみた。
「砲身を三尺(九十センチ)に変え、その上で試みてみよ」
「しかし、それでは余り飛ばぬのではありませぬか?」
「構わぬ。どうせ短くしても重いのだ。それに、城や砦に据え置き、近づく敵を狙えば良かろう。まぁ、一度試してみよ」
「ははっ!」
次に議題として上がったのは、
「河原衆と山窩衆に関してに御座いまする」
であった。
「蔵人、何かあったか?」
「いえ、寧ろ順調に御座いまする。富田勢源殿の教え方がすこぶる宜しいのかと存じまする」
「それ程か!」
津々木蔵人はしかと頷いた。
「確か……盲いだったか?」
「然にあらず。目の病は病に違いは御座いませぬが、前を向いても目の前が見えぬだけに御座いまする」
(いや、それってかなり生活し辛いような……)
「さ、左様か。まぁ、何にしても湯治で那古野を訪れていたのは僥倖であったな」
「はっ!」
「時に仕上がり具合は如何か?」
「はっ! 信行様の命じられた桶狭間近辺の地形は頭に入れて御座いまする。また、鳥笛による伝達も習得済みにて。万全に御座いまする」
「流石だな、蔵人。歩き巫女の方は如何か?」
「全く問題ございませぬ。”上手くいけば、織田家家中の者の養女となし、然るべき武家に嫁がせる”と申した所、挙って賛同致し申した」
俺の目尻が僅かに下がった。
「でかしたぞ、蔵人! だが、問題は策が上手く行くか、否か、だ。引き続き頼むぞ!」
「ははっ!」
「さて、次は……」
俺は薄汚れた侍に目を移した。
彼は山籠もりから出てきたばかりのような出で立ちをしていた。
もっとも、あながちそれは間違ってはいなかった。
彼は工兵隊である旗衆を率い、森の中で作業をしていたのだから。
「拙者ですかな? しからば、この前田利益と旗衆二百! 見事苦行をやり遂げたに御座いまする!」
その言葉に、俺は思わず破顔した。
「素晴らしいぞ、利益! 直ぐにでも地図を起こし、佐久間信盛に伝えぬばならぬな」
「はっ! 今直ぐにでも! と言いたい所でござる、今少しご猶予を」
俺は首を傾げて前田利益を見た。
彼は楽しげな色を面に浮かべた。
「ここ暫く嫁御を抱いておりませぬ。それに身形も酷う御座いますれば、佐久間殿に賊と見間違えられ討たれるやも知れませぬ」
俺は前田利益の言葉にカラカラと笑いつつ、
「左様であったな! 今宵は那古野でゆるりと致せ。佐久間には明日で良いでな。それに我も地図を交え、秘策を授けたい故にな」
申し出を許した。
時は永禄元年(西暦一五五八年)、八月中頃の事であった。
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--更新履歴
2016/09/12 誤字を修正




