#025 第二次稲生の戦(4)
鋳物師でもある岡本良勝の姿が、庄内川の川べりにあった。
それも戦場から少し離れた、那古野側の土手沿いに。
数名の供を引き連れて。
彼は寺の鐘に似た物の周りを米俵で囲わせ、
「某も、信行様の戦のお役に……」
何かを為そうとしていた。
その結果が何を引き起こすか、彼はまだ何も知らないでいた……
◇
俺の本陣の裏手から、蹄の音が轟いていた。
それは味方の発した音ではなかった。
森可成に率いられた、信長方の騎馬の音だったのだ。
俺は庄内川を背にして、陣を敷いていた。
つまりは、川を壁とし、背後からの襲撃をあまり考慮に入れてなかったのだ。
故に、
「信行様! お逃げなされませ! 某が殿を務めまする!」
佐久間信盛が慌てて、本陣に駆け込んで来もした。
本陣に動揺が走り始めた。
すると、新たに一人の武将が現れた。
彼は赤地の派手な、背に見事な龍を描いた陣羽織を羽織っていた。
彼は手に、見るも見事な剛槍を携えていた。
柄にはふんだんにあしらわれた青貝螺鈿。
実に歌舞いて見える。
そんな彼の名は、
「前田慶次郎利益、ここに推参! 信行様、後ろは任されたし!」
であった。
◇
前田利益は旗衆を引き連れ、川の中を進んだ。
膝下まで水が掛かる程迄に。
そして、庄内川の対岸に目を向けた。
彼の目に映りしは、森可成率いる二百騎あまりの騎馬武者。
土手沿いを土煙を舞い上がらせつつ、馬を走らせていた。
やがて、騎馬は土手を駆け下り始めた。
前田利益は腕を掲げ、
「遣れ!」
素早く下ろした。
刹那、旗衆の面々が抱えていた火の灯った瓶が、彼らの周囲を二度、三度と弧を描き、ついで空を舞った。
空を行く瓶は緩やかな放物線を描きつつ、対岸の河原に落ち、割れた。
中に詰め込まれていた、油と獣脂を撒き散らせながら。
飛び散った油は次々と朱色の揺らめきを立ち昇らせた。
対岸の至る所に。
炎の壁が生み出されたのだ。
騎馬武者にとってそれは、大変な不運であった。
目の前に突然、炎の壁が現れたのだから。
炎を恐れぬ獣はいない。
人に飼われた馬も、それに変わりはない。
しかも、目の前にいきなり炎が現れたのだ。
人以上に驚いたのは当然であった。
馬は甲高い嘶きを上げ、後ろ足で立ち上がった。
隊列の前を行く多くの馬が、それに倣っていた。
故に、侍の中には落馬を免れなかった者が多くいた。
彼らは馬に覆い被され、馬に踏まれ、次々と戦列を離れていった。
無論、中には火の壁を突き進み、旗衆の前に辿り着いた者もいた。
その代表が、
「我こそは森可成! 信長様に逆らう愚か者よ! 名乗れ! 尋常に勝負致せ!」
である。
見るも見事な剛槍が手できつく、扱かれていた。
彼は織田信長の家中において”比類無き剛の者”の一人であった。
前田利益はそんな男の前に、徒歩で現れた。
「やぁやぁ! 我こそは前田利益! 戦場でお相手致すは初めてですな!」
ただし、その手には青貝螺鈿の剛槍の他に、
「ぬかせ! 槍と大匙の二本で我と遣り合えると思うてか!」
シャベルを持っていた。
「いや、何! これはこうして使うので御座るよ!」
前田利益はそう言い放つと、右手でもったシャベルで馬の鼻っ面を強かに打った。
「ヒ、ヒィーーーン!」
途端に馬は暴れ、鞍に乗る主人を振り落としそうになる。
森可成は堪らず、自ら飛び降りた。
「おのれ、利益! 卑怯なり!」
「なんの! 拙者の”卑怯”はまだまだこれからに御座りまする!」
言葉を交わした二人の槍、その鋭い切っ先が煌めき、交錯し始めた。
◇
「ドォーーーン!」
俺の火矢により土嚢壁、所謂”塹壕”が吹き飛んだ。
火薬の詰められた米俵に火が付き、爆発したのだ。
俺は米俵の壁と本陣の間になる塹壕を、信長方に突破される度に爆破していた。
その結果、信長方の長柄衆は徐々に陣形を維持出来なくなっていった。
塹壕のある中央から離れ、馬防柵に沿って隊列を作り始めていた。
無論、それを誘う要因は他にあった。
一部の弓衆と鉄砲衆が、すり鉢の形にそって設けた馬防柵の内側から、矢玉を放っていたからだ。
信長方の鉄砲衆や弓衆も矢玉を放つも、馬防柵がそれを邪魔していた。
もっとも、それは俺の手勢も同じではあるのだがな。
そこに更に、十字弓を持った河原者らが加わる。
結果、馬防柵を挟んだ攻防となった。
いくら”敵本陣へ向かって進め”と命じられているとは言え、横合いからの攻撃には対処せざるを得なかったのだ。
故に、本陣の前がぽっかりと空いた。
「さて、そろそろか行くか……」
俺はゆっくりと本陣の前に立ち、信長の本陣から見える様、身体を晒した。
◇
「出るぞ」
信長はその一言だけを、周囲に告げた。
馬に乗り、走らせた。
その手に、鉄砲を携えて。
その後に続く小姓らも同じく。
一人一丁の鉄砲を抱え、馬を駆っていた。
やがて、信長一行は米俵の壁があった一線を越えた。
刹那、一条の火矢が、中空に線を引いた。
それは、信長一行を狙った物ではなかった。
すり鉢の形を描いた、馬防柵へと向かっていたからだ。
火矢は馬防柵の線に沿って設けられた樽に、蓋の上から突き刺さった。
その衝撃で樽の蓋が割れ、中に充満していた物が吹き出た。
それは、樽に入れられた酒、それも蒸留された酒が気化した代物。
外に立ち昇ると共に火矢が纏う火に引火し、一瞬、天にも届くほどの火柱を生じさせた。
少し経つと火柱の勢いが落ち、人の背丈の倍ほどになった。
それが都合十度。
信長の眼前に火柱の回廊が作り出されていた。
「ふっ、どうせ何の意味も無いのであろう?」
信長は悠々と馬を進めた。
◇
空が曇り始め、オレンジ色の淡い炎が”場”を照らし出していた。
俺から見るとその”場”は、奥に行くほど広がる、逆三角形に見えた。
俺は信長の乗る馬の歩みに合わせ、足を運んだ。
やがて、互いに三分の一程進んだところで足を止めた。
互いの間に横たわる距離は百メートル前後。
信長の持つ鉄砲は当然のことながら、俺の持つ大弓でも致命傷を与えられる距離だ。
信長の身につけている具足が、炎の色に彩られて見えた。
最初に口を開いたのは信長であった。
「実に下らんな! 勘十郎!」
信長は既に破顔していた。
「派手好きな兄上の為に設えたのです! この様な! 雅な場所で死ねれば本望でしょう! 何より! 兄上は炎に抱かれながら死ぬのがよう似合いまする!」
俺もまた破顔しているのが分かった。
「是非も無し! だが、今では無い! 余が炎に塗れて死ぬと言うならば、それは余が! 余自らの手で天下を取った後である!」
俺はその言葉に思わず、
「ふふふっ」
笑ってしまった。
「何がおかしい! 勘十郎!」
「いえ、兄上らしゅう言葉に御座いまする! 出来れば私も! 兄上と共に同じ夢を見とうございました!」
「この、大たわけが!」
「ええ、それは叶わぬ夢に御座いまする! 何故ならば!」
「勘十郎! 貴様もいずれ天下を欲するからだ!」
「その通りに御座いまする!」
「故に余と!」
「私は戦わねばなりませぬ! さあ、兄上!」
「いざ! 尋常に勝負……クッ!」
俺は信長が言い終わる前に矢を放っていた。
黒く厚い雲の下、白い矢が一本の線を引いた。
それは風切り音を発しながら、一直線に信長目掛けて飛んで行った。
喉元目掛けて。
しかしそれは、
「ふん!」
信長の持つ鉄砲によって容易く払われた。
無論、俺は驚いたが手を止める事はない。
既に二射目の矢を番え、引き絞っていた。
先ほどよりも遥かに強い矢を射られる様に。
そしてそれは寸分違わず、最も避け辛い腹に目掛けて、俺は射った。
「くっ!」
さしもの信長も対応に苦慮した。
「当たるか!?」そう思った瞬間、
「だから”たわけ”だと言うのよ!」
信長は鐙捌きだけで、馬を横に跳ねさせた。
(嘘だろ!? いくら乗馬が上手いとは言え、それは!)
あり得ない動き。
しかしそれは、目の前で確かに起こった。
俺は目を丸くしつつ、三本目の矢を番え、
(だが、これで終いだ!)
馬が着地する瞬間を狙い、信長の眉間に向かって射った。
俺の放った矢は風を貫き、信長に迫った。
それは間違いなく信長の眉間に至る射線を描いていた。
俺の目には刺さる直前の矢が見えていた。
否! 刺さった未来も見えていた。
なのに……
「温いわ!」
信長は首を傾げ、顔の皮一枚で躱した。
信長の顔に薄っすらと現れた切り傷。
血が垂れ始めていた。
(い、今のも避けられるのか……)
俺は弓を構えながら、流石に唖然とした。
その隙を信長は見逃さなかった。
信長は鉄砲を構え、直ぐさま引き金を引いた。
刹那、火薬の爆ぜる音と共に、銃口から玉が放たれた。
それは、俺の胸部を強かに打ち据えた。
「ぐっ!」
当たった瞬間、大きな衝撃を受け、俺の口から空気が吐き出された。
鎧を貫いた銃弾の威力が、防弾チョッキ代わりに着た鎖帷子にも及び、それが俺の身体を圧したからだ。
前に折れ曲がる俺の身体。
しかし、俺の身体を襲ったのはその一発だけではなかった。
信長はそばにいる小姓から次の鉄砲を受け取るや否や、
「パーーーン!」
「パーーーン!」
と次々に弾丸を発射したからだ。
無論、俺に向けて。
その玉は、
「痛っ!」
俺の左右の太腿を貫いた。
襲う痛みに、俺は膝をついた。
しかし、信長の手は止まない。
更に二発の銃弾が俺を襲ったのだ。
それは俺の両肩を見事に貫いた。
結果、俺の折れ曲がった身体は再び起き上がり、信長に対して正面を晒していた。
信長の顔の歪みがここに極まる。
彼は俺の顔を見て、酷く笑っている。
俺の目に、彼が新たな銃を構え、引き金に指を掛けるのが見えた。
そして、間違いなく引かれる、その瞬間が訪れた。
俺の脳裏に思い出が蘇る。
それは俺の記憶であり、織田信行の記憶であった。
異なる城で育てられた俺が、初めて信長にあった際の記憶。
実に、実に不遜な態度をした、だが紛れもない”兄上”であった。
あの時と同じく、俺の口角が「ピクリ」と少し上がった。
信長の指の動きが止まった。
信長の目が一瞬、焦点が合っていないかの様に見えた。
信長の構えた銃が、僅かに下げられた。
その直後、
「ズッガァアアアアアーーーーーーーン!!!」
大地が裂け、頭が割れるかの様な音が俺達を襲った。
それは大音声の信長の声を聞きなれた馬ですら驚かせる、炸裂音であった。
信長らの乗る馬が驚き、後ろ足で立ち上がる。
幾人かの小姓が鞍から落とされた。
流石の信長は足の力だけで器用に跨っていた。
しかし、そこに更なる異常が襲い掛かった。
「ドゥーーーーンッ!!」
巨大な金属の塊が空から落ちて来たのだ。
それも、寺の鐘を細くしたかの様な……
(こ、この形は破裂した大砲!? 良勝か! こんな所で試射したのか!?)
その衝撃で地が揺れ、俺の身体が飛んだ。
馬上の信長も、馬ごと吹き飛んだ。
更に、鞍からも放り出された信長。
彼の上を、倒れた馬が覆い被さった。
(あああっ!?)
俺は目にした。
信長の上に倒れた馬が立ち上がる際、信長の身体を踏み締めていたのを。
何故か、俺の血の気がサッと引いていく気がした。
「の、信長様ァアアアア!!」
事態に気付いた小姓が叫んだ。
が、信長の身体はピクリとも動かない。
どうやら既に……
信長の本陣から鐘の音が鳴り響いた。
それは退き鐘の音であった。
その音と共に信長方は総崩れの様相を呈していた。
膝を付く俺に、
「信行様!」
津々木蔵人が駆け寄って来た。
「信行様! 如何なされましょうや!?」
彼は追撃しろとは言わなかった。
続いて、佐久間盛重も現れた。
「このまま追いましょうぞ! 信長様亡き今、清洲を陥す絶好の好機に御座いまする!」
しかし、俺の出した答えは、
「……追うな。蔵人、こちらも退き鐘を鳴らせ。これ以上の犠牲は不要故にな。それにな、盛重。清洲など熟れた実が落ちるかの様に、我が手に転がり込むわ」
であった。
こうして”第二次稲生の戦”は、第三者には勝敗がはっきりせぬまま終わる事となった。
時は永禄元年(西暦一五五八年)、五月某日。
これからの尾張とその周辺を表すかの様に、黒く厚い雲に覆われた、暗い日の出来事であった。
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--更新履歴
2016/12/02 田中良勝を岡本良勝に修正




