#024 第二次稲生の戦(3)
稲生原において、織田信行が率いる約二千の兵と、織田信長が率いる約三千の兵が戦端を開いた事は先に書いた。
ここでは、各々の内訳を記しておく。
まず初めは織田信行の軍からとする。
最前列、米俵の壁の裏、馬防柵の裏に配されたのが弓衆と鉄砲衆の混成部隊であった。
数はおよそ六百。
大将には織田信家が就き、副将に山田重知、林弥七郎がいた。
次に弓衆の後ろに続くのが、長柄衆であった。
数はおよそ八百。
大将に織田信清、副将に佐久間盛重、佐久間信盛が就けられていた。
本陣の左右を守るかのように、馬廻衆と旗衆が配されていた。
馬廻衆の数は四百。
将は柴田勝家と長谷川与次であった。
旗衆の将は言わずもがな、前田利益である。
彼が六尺(身長百八十センチ)を上回るの偉丈夫らを百名、率いていた。
そして本陣に総大将織田信行。
軍艦・目付大将の津々木蔵人。
彼ら二人の下知を伝える使い番役として、毛利新助を代表とする小姓らと騎乗出来る侍を含め、本陣付きがおよそ百名。
以上が織田信行方の軍編成であった。
対する織田信長方はと言うと……
先手の長柄衆が千四百、余語盛種が率いていた。
その後に、弓衆六百が続く。
土手の上には滝川一益が率いる、鉄砲衆四百。
一列に並んでいる。
信長の本陣およそ百名は、鉄砲衆のちょうど真ん中を割る形で配置されていた。
その本陣には特徴的な出で立ちをした、黒いアドバルーンの如き母衣を背負った黒母衣衆と、同じく赤い母衣を背負った赤母衣衆が控えていた。
彼らは各々十名のみと制限され、しかも馬廻衆と小姓衆から選抜された精鋭であった。
特に赤母衣衆は小姓出と言う事からか、信長に対して並々ならぬ忠誠心をその胸に抱いていた。
黒母衣筆頭は河尻秀隆、赤母衣衆の筆頭は前田利家である。
上記以外には、森可成、塙直政率いる馬廻衆が四百、池田恒興率いる旗衆が百、在った。
これら総勢五千の兵がぶつかったのは、この日のおよそ辰の刻(午前八時)であった。
◇
俺は信長との丁々発止の後、最前線で弓働きをしていた。
性懲りも無く。
しかし、此度の戦の序盤はここが最大の激戦地となる。
米俵の壁を死守し、一人でも多くの敵兵の足を止めるのが、肝要なのであった。
それに囮として価値が、俺にはあったからだ。
故に俺は、
「矢を途切らせるな! 矢の雨を浴びせ掛けろ!」
時には米俵の上に立ち、声を張り上げては弓を射っていた。
千を有に超える足音、それを生み出す存在に向けて。
河原の土埃を舞いあげ、地を揺るがす鳴動が押し寄せる。
血走った幾千の目玉が俺を捉えている。
彼らの口々からは絶叫が迸り、中には白く濁った体液までも垂れ流されたままでいる。
やがて、信長方の長柄衆が、俺の守る米俵壁に取り付こうとし始めた。
彼らの中には槍だけで無く、梯子を抱える者も混じっていた。
梯子を米俵の壁に掛け、乗り越える積りの様だ。
俺は大音声で、
「鉄砲衆! 梯子を撃て!」
言い放った。
無論、鉄砲の一撃で梯子が壊れる筈もない。
しかし、間違いなく持ち手は傷付く。
傷付いた者は梯子を落とすだろう。
だが、それを率先して拾う者はいるだろうか?
狙い撃ちされると分かっているのだから。
その躊躇いが、僅かな逡巡が俺の狙いだった。
「今だ! 放て! 敵の足が鈍ったぞ!」
俺は射って、射って、射まくり、射って、射って、射まくらせ続けた。
それでも、敵の弓矢を掻い潜りながら、米俵の壁に寄せ付けないでいられるのは時間の問題であった。
「少しでも早く射らんか! 撃たんか! 敵の長柄衆が壁に取り付いてしまうぞ!」
織田信家の声が辺りに響き渡った。
まさにその時、敵長柄衆の最前列が一斉に、米俵の壁際にまで辿り着いた。
直後彼らを異変が襲った。
それは彼らの足元からであった。
地の底が抜け、彼らの身体が落ちたのだ。
それはまさに、
「落とし穴に掛かったぞ!」
であった。
六尺はある落とし穴、あるいは堀に落ちた長柄衆。
彼らは底の泥に身体を絡め取られ、にっちもさっちもいかないでいた。
「落ちた者は放っておけ! 後続を討て!」
俺は米俵の上から落とし穴の中を覗き、泥に埋もれた梯子を認め、ニヤリとした。
しかし、気を抜けはしない。
その証拠に、
「今だ! 撃て!」
の怒声が俺の耳に届いた。
俺は慌てて壁の内側に降りた。
直後、鉄砲の斉射が行われ、俺の頭上や米俵に幾つもの銃弾が飛び、穴を穿った。
「信行様! そろそろ本陣にお戻りあれ! ここは某と山田重知がおりまする!」
「相分かった! だが、信家! お主らも敵の長柄衆が乗り越え始めたら、味方の長柄衆と入れ替わり、次の土嚢壁の裏にまで退くのだぞ! 」
「承知しておりまする!」
俺は織田信家の肩を強く叩き、最前線を後にした。
それから暫くすると、最前線が後退を始めた。
信長方の長柄衆が米俵の壁を乗り越え始めたのだ。
味方の長柄衆が前に出て、槍衾を築く。
その後ろの土嚢壁に弓衆は移り、長柄衆の援護を開始し始めた。
俺はその一連の動きを満足げに見届けると、
「林弥七郎! 我らの戦を始める!」
「承知!」
火矢を弓に番えた。
「南無八幡台菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神! 先ずは一射!! 御照覧あれ!!!」
それは大弓から射られると、緩やかな放物線を描き、やがては敵の長柄衆が乗り越え始めた米俵の壁の中に埋もれた、朱色に塗られた一部の米俵に突き刺さる。
その直後、
「ドーーンッ!!」
けたたましい爆発音が生じた。
土塊の入った米俵に紛れ、火薬の入ったソレが火に触れ、大いに爆ぜたのだ。
米俵の壁に、獲物に集る蟻の如くいた雑兵が吹き飛んだ。
土煙が生じ、南からの風がそれを信長の陣に降り掛かった。
信長が咳き込んだ気がした。
俺は思わず、破顔した。
林弥七郎の射った矢からも、同じ事が起きた。
俺は益々破顔しつつ、次の火矢を番えた。
◇
信長の打った手は殊の外早かった。
「ふっ、下らん……。与兵衛(河尻秀隆)、長柄衆を下げ、弓衆で米俵を燃やせ。焦らずとも良い。余の勝ちは揺るがぬわ」
「ははっ!」
黒母衣を走らせ、的確な指示を下したのだ。
やがて、米俵の壁は歯抜け状態となった。
信長方の長柄衆は乱れず、米俵の壁の内側に入り込み、整然と槍衾を築いたのだ。
信長の顔は開戦のみぎりより未だ、涼しいままであった。
◇
俺の目に、崩壊した米俵の壁だった物を乗り越えた、信長方の長柄衆が映り始めた。
彼らは槍衾を築き、矢盾を翳しつつ、じりじりとにじり寄って来た。
その足取りに、焦りの色は見えない。
俺が彼らを率いる侍大将を狙おうにも、矢盾で巧みに隠されていた。
「弓衆と鉄砲衆は土嚢壁の裏から放て!」
「矢盾を忘れるな!」
「戦線を乱すな! 乱すぐらいなら徐々に退け!」
「長柄衆が退き始めたら、弓衆は必ず後ろから助けよ!」
俺は声を張り上げ続けた。
時折、傍にいる津々木蔵人に対し、
「兄上の馬廻衆は動いたか?」
と尋ねるも、
「有ればお伝えしまする! 今は御下知に集中を!」
と言い返される始末であった。
俺は、
「むむむ……」
と思わず零すも、
「はっ、弓衆! 長柄衆! 退き方に気をつけよ! あっ、貴様! 直接馬防柵に退くな! 一旦は本陣前まで戻れと言うておろうが!」
直ぐさま危険な兆候を察知し、兵の動きに修正を加えた。
◇
信長の前に兵が跪いた。
彼は、
「恐れながら申し上げます! 御味方長柄衆が敵方長柄衆を押し、敵方本陣前に及び始めたとの事に御座いまする!」
戦が信長方が優勢のまま、終盤に差し掛かっている事実を齎した。
信長は馬鞭でピシャリと自らの手を打つと、
「一益に伝えよ。壁の前に出よ、とな」
静かに口にした。
「ははっ!」
「それと、与兵衛に犬」
「はっ!」
「与兵衛は三左と、犬は直政と出よ」
「ははっ!」
信長の目は未だ、静かな色をしていた。
◇
「信行様! 清洲の鉄砲衆に動きあり! 米俵の壁の此方側に並び始めたに御座いまする!」
「信行様! 信長様の馬廻衆が遂に! 遂に動きまして御座いまする!」
「信行様! 御味方苦戦! 長柄衆が本陣の前にまで押されておりまする!」
俺は度重なる吉報に、
「ふふふっ……」
笑みを浮かべた。
「信行様!」
「分かっておる、蔵人! 馬廻衆の数は!?」
「およそ二百との事!」
「半分か! 残りは!?」
「分かりませぬ!」
「ふむ……では、何処に向かっておる!?」
「馬防柵と葦原の間に御座いまする!」
刹那、俺は口角を上げた。
「よし! 掛かったな! あの者らには一撃離脱を徹底しているであろうな!?」
「無論に御座いまする!」
俺は益々ニヤリと笑った。
◇
前田利家は馬を走らせていた。
その背に赤母衣を波打たせながら。
それは彼の誇りであった。
愛しい主人から賜った、”証”でもあった。
彼は夢中で馬を走らせていた。
ただただ、敵の総大将の首を打つ瞬間を思い浮かべながら。
それは彼の悲願であった。
愛しい主人を高みに至らせる、”玉”でもあった。
故に、彼はただただ前を見て馬を走らせていた。
それが、若さ故の過ちだと気付きもしないで……
馬群の戦闘をひた走る前田利家が、葦原の前を半分ほど進んだところ、突然、
「ヒ、ヒイーーーン!」
馬が嘶きを上げながら足を止め、やがて倒れた。
「お、おい! どうした、荒子丸!」
前田利家が驚き、叫んだ。
しかし、馬は答えない。
馬はただただ口から白い唾液を垂らし、歯を剥き出しにしていた。
すると、
「ヒヒイーン!」
「うわ!」
「おい、どうした!?」
「う、馬が!」
後から続く味方から、困惑する声が幾つもあがった。
いずれも、馬の突然の挙動に驚く声だ。
やがて、その理由は知れた。
「尻だ! 尻に短い矢が刺さっているぞ!」
「本当だ! 俺の馬にもだ!」
「おい! 葦原の中からだ! 中に誰かいるぞ!」
「ちっ! 河原者だ! 奴らが矢を放ったんだ!」
「くそっ! 追え!」
「馬鹿言え! 馬が溺れて死ぬぞ!」
葦原の中に伏兵が潜んでいたのだ。
「矢が何で……」
「しびれ藥だ!」
「なら、直ぐに矢を抜け! 後続には葦原から離れよと伝えよ!」
前田利家は動けないでいた。
馬を引き上げるには、彼の体はまだまだ力が弱すぎたからだ。
それでも、葦原を抜けた騎馬が二百を下回る事はなかった。
塙直政が先行した一群の異常に咄嗟に気付き、手を打っていたからだ。
しかし、そこに、
「我こそは柴田勝家! 塙直政! 尋常に勝負いたせ!」
現れたのが”鬼柴田”であった。
彼は二百の騎馬を引き連れ、葦原を抜けた信長方の馬廻衆を迎え撃つ。
馬と馬がぶつかり合い、槍と槍が打ち合い、至る所で血潮が飛び散り、悲鳴を響かせ始めた。
◇
「柴田勝家殿、敵方の馬廻衆を止めまして御座いまする!」
俺はその報せに、
「よし! ようやった柴田勝家!」
喝采し、続いて津々木蔵人に目を遣った。
「なれば……」
「はっ! 足場を起こしまする!」
意図を瞬く間に理解した津々木蔵人。
彼は直ぐ様、合図を出した。
すると、旗衆が忙しなく動き始めた。
彼らは戦闘工兵でもある、元力士の、六尺(約百八十センチ)を超す偉丈夫。
竹管を強固に結び合わせ、繋げ、寝かせていた”足場”を起こしに取り掛かったのだ。
”足場”の高さ十二尺。
その最上段から、
「予定通り、弓衆の半分は足場に上がれ! 鉄砲衆を中心に狙え!」
弓を射掛けるのだ。
無論、信長方の鉄砲衆も足場目掛けて玉を放つ。
しかし、
「鉄砲は気にすな! 竹束が防いでくれる!」
足場から斜めに張り出した竹束が全てを受け止める。
言うなれば”足場”は即席の櫓。
曲射の出来ない鉄砲など、櫓に対しては無用の長物に他ならなかった。
「勝てる! 勝てるぞ! 押せ! 押し返せ!」
俺は大音声を発した。
するとその時、背後から数百にも及ぶ馬蹄の響きが聞こえ始めた。
それは、
「恐れながら信行様!」
「何だ!」
「敵方の馬廻りが!」
「何!? だ、誰が率いておる!」
「はっ! 森可成殿に御座いまする」
”攻めの三左”であった。
◇
信長は戦況を注視していた。
一見すると、信行方の奇策に押され始めている。
しかし、彼には分かっていた。
「ふっ、そろそろか……」
口元に僅かに笑みが溢れた。
それは、この戦が始まってから初めての、彼の”感情の発露”であった。
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ご贔屓のほど、よろしくお願いします。




