#023 第二次稲生の戦(2)
「母上殿、何故この様な仕儀になりましたのでしょうや……」
憂いを帯びた声が、奥の間に響いた。
土田御前の優しげな声が、先の声の主を諭し始めた。
「致し方がありませぬ。帰蝶殿、わたくし達”女”は待つしかありませぬ。ゆめゆめ、口を差し挟んではなりませぬぞ。待ち、世の移り変わる様を見定め、その動きが止まり、男が腕を組み首を傾げ始めたならば……その時にこそ、女が動き始めれば良いのです」
側にいた幼子や侍女らは、そのやり取りを静かに見つめていた。
◇
俺は馬に乗り、行軍していた。
兄信長と一戦を交える為に。
戦の主導権を得たいばかりに、夜明け前の行軍と相成ったのだ。
俺は徐に、空を見上げてみる。
そこには雲ひとつ無い、星空だけが広がっていた。
俺はふと時間が気になり、東の空に顔を巡らせた。
見ると、薄っすらと白い線が見え始めていた。
それは、日の出の兆しだった。
「夜明け……か」
遂に、俺と信長が雌雄を決する日が訪れてしまった。
まさか、こんな事になろうとは……
いくら俺が織田信行に憑依もしくは転生したと言っても、避けられるならば避けたかった。
そもそも、俺こと織田信行はただただ、一介の武将として平凡な生活を送れれば幸せだったのだ。
それなのに、周りがあんなに持ち上げて、信行をその気にさせたから……
俺の中の”織田信行”が、俺を暗い気持ちにさせる。
俺は、
「パンッパンッ!」
と両手で頬を叩き、気合を入れ直した。
刹那、
「おお、見ろ! 空の光が! 落ちた! 次々に落ち始めたぞ!」
雑兵や足軽が空を指し示し、騒ぎ立て始めた。
それは流れ星の珍しくないこの時代でも中々お目に掛かれない、流星群、であった。
星が雨の如く、降り始めていた。
俺も思わず、
「これは珍しい! もしかして、水瓶座流星群か!?」
声に出して叫んだ。
すると、小姓頭の毛利新助が馬を軽く走らせ、俺の近くに寄って来た。
「信行様、りゅうせいぐん……に御座いまするか?」
「ああ、そうだ! ”流星群”だ! いやぁ、珍しい! これ程の物は滅多に見れぬぞ! 新助、お主は自らの幸運に感謝するんだな!」
「さ、左様にございまするか? 雑兵どもは不吉の象徴だと……」
俺はその言葉を聞き俄かに固まった。
そして、周りの喧騒に改めて気が付いた。
それも、不吉な言葉を連呼する、兵達の声に。
次第に募る不安を口にする、兵達の声に。
それでも俺は、次の瞬間には”ニヤリ”と笑った。
「はははっ! そんな訳があるか! これは吉兆の徴ぞ! これは目出度い! 全軍に触れを出せ! ”我らは必ず勝てるぞ! 空の吉兆の徴がその証である! ”とな」
「ははっ!」
馬を走らせた毛利新助は、他の小姓らと馬廻り衆に伝え、その後全軍に俺の先の話を伝えに向かった。
すると、瞬く間に落ち着きを取り戻した我が軍。
その後、俺達は意気揚々となりながら庄内川を渡り、那古野の対岸にて川を背に、陣を敷いたのであった。
第一次稲生の戦では信長方が庄内川を渡り、信行方である柴田勝家、林美作の軍と戦った。
今回は俺の方から庄内川を渡る。
何故か?
何度も言うが、”戦の主導権”を得たいからだ。
それに、対陣した後に渡河をして、むざむざと鉄砲の餌食になりたくないからだ。
三百名以上いる鉄砲衆にとって、渡河中の敵などノロマな亀を撃つより容易いだろうからな。
ではどうするのか?
簡単だ、川を背にして陣を敷けば良いのだ。
所謂、”背水の陣”だな。
清洲勢に比して那古野勢の兵は少ない。
であるからこそ、川を背にするのだ。
川を背にしてる以上、背後は壁に守られているも同然だからな。
わざわざ、大きく迂回して後背を突かられぬ限り、安全なのだ。
それに、兵を逃げられない場所に追い込めば、思った以上に力を振るってくれる筈だ。
「唐国では負けなしの陣だ!」と謂れを交えて話すと、家老の誰もが納得してくれた。
やがて、そうこうしている内に、俺も川を渡った。
川を渡りきった後は、信長を迎え撃つ準備を粛々と進めるだけであった。
◇
同日 清洲城
信長の寝間の前に、一人の鎧武者が現れた。
彼は余程急いていたのだろう、肩で息をしていた。
「お、恐れながら、信長様にお取次を!」
「構わぬ! そのまま申せ!」
「はっ! 那古野から兵が出ました! その数はおよそ二千! 庄内川を渡河し、陣地の構築を確認したとの事に御座いまする!」
鎧武者は言い終わると、倒れ伏した。
余程、急いていたのであった。
信長は傍に向かって声を発した。
「犬、聞いておったか!」
「はっ!」
「出陣じゃ!」
「ははっ!」
信長は日の出と共に出られる様、事前に陣触れを出していた。
ならば後は命じるだけ。
それも今終えた。
であるならば……
「渡河しただと? 勘十郎め! それで機先を制したつもりか!?」
後は自らの戦支度を整えるのみ。
それも、小姓らが手際良く行うのに任せるだけであった。
それから数時間後、信長方の軍勢三千が稲生に姿を現した。
彼らを最初に出迎えたのは、
「なんだあれは?」
高さが五尺程もある”米俵の壁”であった。
所々、朱色に染められている。
「米俵……ふん、大方土塊でも中に入れ、鉄砲の弾除けとして使うのであろう。土手から鉄砲衆を下ろし、撃たせるには邪魔となる。だが、要は土手から下ろさねば良いだけのことよ」
流石は、信長。
彼は瞬時に悟ったのであった。
「一益!」
「はっ!」
「鉄砲衆を土手沿いに並べ、そこから撃たせよ!」
「ははっ!」
「第一陣、弓衆! 第二陣を長柄衆とせよ!」
信長は言い放つと、細かな事は任せ、再び眼前の景色に思考を巡らせた。
庄内川の河原の奥行きはおよそ三町弱(三百メートル前後)。
川を背に信行方が本陣を築いている。
本陣の前からはすり鉢の底から口に広がっていくかの様に、馬防柵のない”河原”があった。
逆に言えば、その場所以外には馬防柵が二重三重に設けられていた。
まるで馬の群れを馬柵の中へ中へと、すり鉢の底に誘導するかの様に。
馬防柵の無い河原にはその代わり、米俵が腰のやや上程にに積み重ねられていた。
これを現代人が見れば、戦地の土嚢壁と言い表していただろう。
それがポツリ、ポツリと米俵の壁際にまで配されていた。
本陣と馬防柵を僅かな隙間を残し、挟み広がる葦原。
青々とした葉が空高く伸びている。
それも人の背丈よりも高くに。
葦原の中から時折、鳥が飛び立っていた。
「おのれ勘十郎……」
信長はそう呟くと、騎乗したまま前へと馬を進めた。
◇
無防備にも信長は馬首を俺のいる本陣に向け、馬を進めて来た。
恐らくは、俺の兵を意気を挫く為だろう。
いつかの、あの大音声で。
故に俺もまた、前に出る事にした。
俺が米俵の壁をよじ登ると、ちょうどその下からやや離れた場所に信長が居た。
彼は相変わらず、威風堂々としていた。
微塵も負けるとは考えていない顔つきで。
彼の前から延々と伸びる道は、ただただ”栄光”へと続いている。
そう錯覚させる程の風格を漂わせていた。
俺の姿を目にすると信長はニヤリと笑い、続いて口を開いた。
「織田勘十郎信行!!!!」
米俵の壁が揺らいだ。
それはまるで地震の如しであった。
「我こそは織田上総介信長である!!!!」
頭が酷く痛み、目が回り始めた。
まるで、頭の中がシェイカーでシェイクされたかの様に。
織田信長の声は天地を揺るがせる程なのだから、俺の頭の中など造作もなく揺らせるのだろう。
「勘十郎! 貴様は二度謀反を働き、我に二度許された! にもかかわらず、またも謀反を企むとは何事か!!」
俺は目を閉じ、聞いている風を装った。
信長は構わず、大音声を発し続けた。
「この上総介!! 今度という今度は勘忍袋の尾が切れたわ!! 我に歯向かう者が二度と現れぬ様、貴様らはいかにも惨たらしく、皆殺しにしてくれる!!!」
信長は言い終わり、楽しげに顔を歪めた。
俺の率いる軍勢から士気が落ちていく様が、手に取るように分かったのだろう。
事実、俺の兵は半ば心がへし折れていた。
まさか、これ程の怒気に曝されるとは思ってもみなかったのであろう。
しかし、あの時もそうだった。
織田信行に俺がなった、僅か数時間後の時もこうであった。
しかも、あの時は心の準備をする間もなく、俺や兵は稀代の英雄と相対したのだ。
今日はまだ、遥かにマシな状況であった。
俺は腹を据えた。
「織田上総介信長!!! 我こそは織田勘十郎信行である!! 此度の専横は私事に非ず!! ただただ民の為に、政をしたに過ぎず!!!」
信長に負けず劣らずの声を発した。
信長は俺の言葉を受け、いつかの時とは異なり、煩わしそうに応えた。
「笑止千万!! まさに大たわけ者の言葉よ!! 民の為に国主を討つなど、その様な世迷言、誰が信じようか!!」
それどころか、眉間に皺を寄せ始めていた。
嘗ての、どこまでも余裕のある様が見受けられないでいた。
感情の抑えが効かなくなり吹き出し始めたのか、顔が憤怒の色に染まり始めていた。
(何だ? どうしたのだ兄上……)
だが俺は以前相対した時の信長との相違に構わず、声をますます荒げ、言葉を浴びせ掛けた。
「まずは尾張の民が信じましょうぞ!! 先に兵を動かしたのは織田上総介信長である!! いずれは誰もが知り得ましょうぞ!!」
「巫山戯たことを申すな!!!」
(あの、兄上が返す言葉に……)
「然に非ず!! 人の口には戸を立てられぬと申すではありませぬか!! 皆が語りましょうぞ!! 信長は信行を恐れ、兵を先んじて集め、討ったのだ、と!!」
「お、おのれ!!! 我を! 我を愚弄するか!!!」
(これ程までに、追い詰められてたのか……)
「民は思うでしょうな!! 何故弟を恐れるのか、と!! 知を恐れる前に、何故手元でその知を使おうと考えなかったのか、と!! 武を恐れる前に、何故自らの力の一片として使おうと考えなかったのか、と!! それは偏に、兄の器が小さかったのだろう、と!!」
「黙れ!! 黙れ、黙れ、黙れ!!! オノレェエエエエ! 我が勝てば!! 一人残らず、皆殺しにしてくれるわ!!」
(冷静でいられなくなったか。ならば……)
「なれば我も誓おう!! 我が勝てば!! 我が国主となった暁には!! 兄信長と変わず、皆を遇しようぞ!!」
信長の顔は更に赤くなり、やがては赤鬼の如くとなった。
刹那、俺の唇の端が意図せず「クイッ」と上がった。
すると、信長はそれを目にしていたのだろうか?
突如、
「ふ、ふふふっ、ふははははっ、わーはっはっはっはっ!!!」
と大音を発しながら、笑い始めた。
やがて、一頻り笑った後、
「ぬかったわ! まんまと勘十郎めの策に嵌る所であったわ!」
そこにはいつも以上に冷静な、普段通りの自信満々な、嘗てないほどの覇気を漲らせた、信長がいた。
彼は感情の無い目で俺を見つめると、
「勘十郎、お主を討つ!!」
とだけ言い捨て、俺の前を後にした。
俺は自らの目論見が失敗に終わったことを知った。
それでも予定通り、三十にも満たない鉄砲衆に対して、
「撃ち方用意!」
と命じた。
続いて、信長が自らの本陣に入ったのを確認してから、
「撃て!」
と言い放った。
と同時に、信長方の弓衆からも矢が降り注ぎ始めた。
俺と信長の、恐らく最後になるであろう戦いが、今始まったのだ。
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