#022 第二次稲生の戦(1)
「信長様が”那古野”との戦支度を命ぜられたとの事に御座いまする!」
信長が俺を討伐する為に戦支度の触れを出した、と言う報せは瞬く間に伝わって来た。
「して、その大義名分は?」
「運上金の横領と、愛智郡における専横に御座いまする……」
「で、あるか……」
(クソッ! ここで万年平社員であったが故の、報告・連絡・相談不足が祟ったか!)
刹那、普段通りの評定の間の景色が歪んだ。
まるで、コーヒーに落としたポーションミルクの様に。
次第に視界が白いチカチカに覆い尽くされた。
強烈な光の明滅。
激しい頭痛が俺を襲った。
「信行様!?」
誰かが俺の側に駆け寄ってきた。
俺は声のした方に顔を向けるも、俺の目はそれを映さないでいた。
やがて光の明滅が止むも、新たな光景が俺の脳裏に浮かび始めた。
それは、数多の記録映像。
織田信行が積み重ねてきた、記憶の断片、であった。
(こ、こんな……時に……フラッ……シュ……バッ……ク……か……)
俺は焦った。
今は一分一秒を争う大事な時。
一刻も早く、家老らに指示を下さねば……
(那古野が! 室が! 子らが! 家臣らが! 何よりも多くの、楽しげに笑っていた俺の民が! クソが! 良い加減にしろ織田信行!)
俺がそう思った直後、視界が戻り始めた。
青ざめた顔をして、俺の顔を覗き込む津々木蔵人が最初に見えた。
彼は、脇息(肘置き)に覆い被さる様に倒れ伏した俺を支え起こし、俺の背を摩っていた。
(……ふぅ、何とか治まったか。それにしても、あの時と一緒だ。蔵人は昔から俺に、本当に良く尽くして……!?)
俺は驚きのあまり、目を丸くした。
(の、織田信行としての記憶がある!?)
僅かにだが、思い出として湧き上がってきたのだ。
それも、
「兄信長によって、私が”あまが池”に落とされた際も、蔵人はこうして摩ってくれたのう……」
淡い記憶が。
すると、
「……覚えておいででしたか」
心配げな顔が一瞬、嬉しげに華やいだ。
(あれ? 記憶がない事がバレてた? ま、今更だしな)
「……蔵人、ありがとう。もう大丈夫だ」
俺は津々木蔵人の腰をポンポンと軽く叩いた。
いつもしていた様に。
評定が始まるから、席に戻る様にと。
そして、俺は改めて、
「醜態を晒してしまった、すまぬな」
評定を開始した。
「……さて、皆の衆。戦とは第一に如何に敵の戦力を削り、味方の戦力をあげるか。次に如何に主導権を得るかの争いである」
俺は口を閉じ、家臣らを見る。
彼らは俺の言葉を一言も漏らさぬ様に身構えていた。
俺はその姿に満足し、小さく頷いた。
「そこでだ、唐国で言う所の”プロパガンダ”、日の本の言葉で置き換えるならば”喧伝工作”を行う」
「……喧伝、に御座いまするか?」
林秀貞が首を傾げた。
「そうだ、喧伝だ。民や雑兵、足軽に加え国人衆らの心に訴えかけ、我らの望む行動に走る様、働きかけるのだ。例えばだが、五月は田植えを行わねばならぬな?」
「はい、左様に御座いまする」
「その様な時に戦に駆り出される。百姓や国人衆は戦に出たがるか?」
「出たがりませぬな」
「加えて他国を攻める訳でもないので”乱取り”も出来ぬ。ますます戦に出たいとは思わぬだろう」
「しかし……負ければ田畑を奪われると思い、仕方なく出るやもしれませぬ」
「だろうな。だが、私が勝っても本領を安堵すると約束すればどうなる?」
林秀貞の目が驚きの色を示した。
「……勝手も負けても得るものが無く、それどころか出れば田植えを行えず、身入りが減りまする。故に、益々戦に出ようとは思いませぬ」
「そういう事だ。内訌(内紛)故に得られるものが無く、戦に出ても懐が寂しくなるだけ。そう訴えかけるのだ。その様にして、兄上の戦力を削る」
「ですが、如何にしてそれを知らせましょうや? 人伝の口伝では……」
「そこで、村々に高札を掲げる。高札の信用を高める為に、私が書いたと分かる書状を貼り付けてな。もっとも、私が書くのは最初の一枚だけだ。後は岡本良勝に頼み、刷って貰う」
俺がここまで話すと、評定の間が静まり返った。
やがて、一人の男が口を開いた。
「信行様はこれを見据えて出走馬表や罪人の手配書を?」
それは、未だに多田野宗兵衛と名乗る阿呆であった。
「そうだが?」
「そ、それでは、あ、あの絵巻物もで御座い申すか!?」
(……はて? 孤児院の学習用絵本の事か?)
「まぁ、そうだな。なかなかに良い出来であったろう? もっとも、岡本良勝からの提案だったがな!」
柴田勝家が滂沱の如く汗をかき始めた。
「はっ、ははっ!」
彼は突然、平伏した。
(……何でだ? 何で孤児院に絵本を配っただけで? まぁ、良いか。何かしら所以があるのだろうからな)
俺は平伏をしたままの柴田勝家を放置し、話を先に進める。
「次に銭で雇われるであろう、足軽と雑兵の数を減らす。”信長が勝てば那古野が燃やされる。富くじも競馬も酒ものうなる”と流言を振りまくのだ。これに関しては高札などは不要だ。兄上が以前為した那古野城下町焼き討ちと那古野城破却を命じたと言う”前例”があるでな。一年と経っておらんのだ、その記憶を煽れば良い。良いな?」
「はっ!」
「次に那古野に来るであろう兵を減らす。これには信清と信家に働いてもらう」
俺の口から自らの名が出て、二人は顔を歪ませた。
「我らの旧臣共を焚き付ければ宜しいのですな?」
「その通りだ、信家。早々に落ちはしたが、岩倉の旧臣は健在。加えて、現在も攻囲中の犬山城とその旧臣だった者には使いを出す。清洲の兵を少しでも多く引きつける為に、戦支度を始めよ、打って出る構えを見せよ、旗を掲げよ、炊飯の煙を幾重にも立ち昇らせよ、とな」
「もし、我らが勝ったあかつ……」
織田信清が何かを言おうとするも、俺はそれを差し止めた。
「信清、今は何も約束出来ぬ。すまんが堪えてくれ」
「……左様ですな。それに匿って頂いている身、致し方ありませぬ。では我が望みが叶うよう、存分に働いて見せましょうぞ。まずは……そう、木曽川の川並衆に伝が御座いますれば、当たってみても?」
「頼む。後で話すが、人手が多ければ多いほど良い。我らには清州に比べ、兵が少ないのでな」
「ははっ!」
俺はここで一息つく。
小姓である川口久助がさり気なく出した茶を、俺はグイッと飲んだ。
茶の温度を確かめもせずに。
もっとも、川口久助がこの様な場で、俺に熱い茶を入れる筈も無かった。
前々から、俺がそう仕込んだのだから。
「さて、次に兄上の家臣の動揺を誘う。所謂”離間の計”だ。具体的には、これまた兄上の諸行を活かす。”織田信長は織田信清を騙し討ちした。臣下の礼を取ったとしても、いずれ騙され、殺されるぞ。柴田も佐久間も林も最後は見捨てられたぞ。織田弾正忠譜代の能臣ですら、安泰では無かったのだぞ! ”、とな」
名を挙げれ者達が息を呑むも、俺は次々と言葉を続ける。
「民も動揺させよう。”熱田神社も万松寺も信行様と昵懇の間柄。誅すれば祟られるぞ”と。雑兵を出している家々が二の足を踏むやも知れぬ」
「金を惜しまず、人夫を集めよ!」
「土を詰めた米俵を買い取れ! 六尺の長さに揃えた竹束を集めよ! 火薬、油、獣脂も集められるだけ集めよ!」
俺が”細かな事以外、全てを言い終えた”と思った瞬間、面白い考えが浮かんだ。
それは、
「折角の戦だ。那古野と清州から離れた場所では”稲生で行われる信長と信行の擬戦”と称し、いずれが勝つか賭けさせようぞ。上手くいけば戦費が浮くどころか余るぞ」
であった。
「剛毅な……」
誰かが呟くも、
「なに、これも良い面があるのだ。戰場が一方的に稲生に限定されるでな。”第二次稲生の戦”だ。ふふ、兄上の困り顔が目に浮かぶわ」
(伸るか反るかは兄上次第……と言い所だが、兄上は必ず乗る。皆にはああは言ったが、兄上が”今の那古野”を燃やす筈が無いからな)
俺はカラカラと笑った。
評定が終えた後、俺は主だった家老をその場に残した。
兄信長と相対する以上、済ませておかなければならない事があったからだ。
「林秀貞、お主は光時、光之、一吉を連れ末森城に入れ。今川方の動向を見張って貰いたい」
「な、何ですと! そ、某も……」
「お主は前回の稲生、那古野城攻防、共に表立って出ておらぬ。それに……」
俺はここで言葉を切った。
ここかれ先は口にすべきでないと、考えていたからだ。
それに敢えて言葉にせずとも、林秀貞であれば意味が通じる筈だ。
「……御存知でしたか」
「済まぬ、調べさせた。それに、城下町や湊に比べ、城は全く進んでおらぬ」
「であるならば、某はここで……」
林秀貞が腹を切る気配を見せるも俺は手掲げ、その動きを制した。
「早まるな、秀貞! その様な事をさせたくないから、この場で末森城詰めを言い渡したのだ。分かってくれ。そして、私が勝ったら引き続き頼むぞ。万が一、私が負けたら……言わんでも分かるな?」
「……承知、仕りました」
林秀貞はそれ以上何も言わず、評定の間を後にした。
これで一つの問題は片付いた。
ならば、いま一つも……
俺は、多田野宗兵衛と改めて向かい合った。
「で、お前はどうするのだ、前田慶次郎利益」
この半年、多田野宗兵衛であり続けた男が、ニヤリと笑った。
こいつもまた、兄信長の放った間者、であった。
「拙者の事、気付かれておりましたか」
「荒子の前田殿から覚えのない”礼”を頂戴してな。流石に何か裏があると思い調べさせたわ」
「ははっ! 抜かりました。爺様にはもそっと強く言うておくべきでした」
「で、如何する?」
「無論、御下知に従わせて頂きとう御座いまする」
「家臣としてか?」
「加えて、古くからの友の一人として、に御座いまする」
「ふふっ、それならば良いだろう。生き残れたら、嘗て交わした”もう一つの約束”を叶えてやろうぞ!」
「ははっ! ありがたき幸せ!」
俺は残る他の者にも声を掛ける。
「佐久間盛重、信盛。お主らは如何か?」
「佐久間の本願を遂げるまでは信行様に付き従うと誓って御座いまする」
「最早、最後までお側に置いて頂きとう御座いまする」
「相分かった! 柴田勝家は如何か?」
「某、既に思い残す事は御座いませぬ! 後は唯々、御力になりとう御座いまする!」
俺は鷹揚に頷き返した。
「分かった。お主らの気持ち、確かに聞き届けた。必ず生き残り、お主らの望みを果たそうぞ!」
戦支度の為、津々木蔵人を除いた者らは俺の前を辞した。
小姓らも下がらせた。
故に、評定の間には俺と津々木蔵人の二人きり、であった。
「蔵人……」
「はっ!」
「この半年間、お前には辛い思いをさせてしまった」
「の、信行様! もしや本当に……」
「すまぬ。私とお前は、もはやあの頃には戻れぬ。お前なら分かってくれるであろう?」
俺は狡い言い方をした。
「この半年で、私は様変わりしすぎた。それも、多くの者にとっては良い方向にだ。最早、戻るわけにはいかぬ。例え、お前を悲しませる結果になるとわかっていたとしてもだ」
俺は彼ならば受け入れざるを得ない言い方をした。
「その上で、その上でお前に頼む。私を今まで以上に支えてくれぬか」
俺の言葉に、津々木蔵人の顔に影が差した。
そして、彼は、
「の、信行様は非道御座いまする! 某の、某の気持ちを存じながら! 某に断れぬ物言いをして!」
と吐き出した。
「済まぬ、蔵人……」
俺は静かに、津々木蔵人の肩を抱いた。
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