#018 浮野の戦
永禄元年(西暦一五五八年)、三月九日 清洲城
「信長様! 生駒家長様より急使に御座いまする!」
「通せ!」
生駒家長は生駒吉乃の兄である。
彼は信長の命により、岩倉織田にて内紛を仕掛けていた。
通された使いの者が信長に書状を差し出す。
信長は黙したまま、中を検めた。
そこには、岩倉織田の家臣団に名を連ねる者ら過半による、信長への臣従を誓う血判と、
「阿呆が漸く追い出しおったか!」
織田信賢の手により、当主の信安とその次男信家が家族共々追放された、と記されていた。
「余自ら岩倉を落とす!」
織田信行率いる那古野勢が品野から戻る頃合いに合わせ、織田信長は自ら兵を率い、岩倉城攻めに赴いた。
その名分は”守護代追放した咎人の成敗”であった。
◇
同年三月一一日 浮野原
信長は二千の兵の布陣を任せると、小高い丘の上に登り、岩倉城を眺めた。
二重の堀に囲まれた平城。
城の東に流れる川を利用し、水が引かれていた。
場内には、一際高い望楼が建てられている。
大手門のある南側には城下町が大きく広がり、尾張守護代の地の豊かさを表していた。
中には幾つかの砦の姿も見える。
以前から、備えていたのだろう。
そこに犬山城の城主、織田信清が現れた。
彼の父、織田信康は信長の父、織田信秀の弟である。
つまり、織田信清は信長の従兄弟であった。
しかし、織田信清は人並み以上の野心を持ち、また、織田信秀の死後に領地の横領をしたため、信長との関係は険悪であった。
信長の姉を娶るまでは。
以降、織田信清は信長に臣従する形を取っている。
ここ浮野原に、織田信清自らが千の兵を率いて来たのは、それを確たるものとして世に示す為でもあった。
「織田信清、馳せ参じまして御座いまする」
「うむ、大義である」
この日、両者の会話はこれだけであった。
翌一二日は、日の出と共に動きがあった。
信長の手勢と織田信清の手勢が城下町を焼き払ったのだ。
これには岩倉城に篭る構えを見せていた岩倉織田勢も参ったのだろう、山内盛豊、織田七郎左衛門が三千の兵を率い、飛び出して来た。
「ふっ、待ち草臥れたわ!」
信長は鉄砲衆三百を第一陣に整然と並べた、横隊を敷いていた。
鉄砲衆を預かるのは滝川一益。
河内国の出であり、鉄砲の扱いが巧みとの理由で信長が召し抱えた男である。
河内国を出たのは博打好きが過ぎ、一族に追放されたからであった。
その、滝川一益が、
「撃て!」
と命じると、一斉に火薬の爆発音が平野に木霊した。
次々に崩れ落ちる、馬と侍。
彼らの不幸は後から続く味方に踏まれ、潰れるまで続いた。
「鉄砲衆下がれ! 弓衆前へ!」
合図の太鼓が鳴り響く。
それと同時に、弓矢が空を覆った。
やがて、互いの陣から弓矢が飛び交い、また、悲鳴も飛び交い始めた。
「ぐあっ……」
「目、目が! 目が!」
「おっかあ! イテよー! おっか……」
この日は、風の少ない日だった。
火薬に加え、鉄の匂いが辺りを満たすも、容易に掻き消えなかった。
「弓衆下がれ! 長柄衆!」
信長の長柄衆が最前列に並んだ。
三間半(約六.三メートル)の槍を揃えた槍衾だ。
対する岩倉織田勢の長柄衆は三間(約五.四メートル)。
その差、約一メートル。
戦場では致命的な差であった。
信長の長柄衆の振り下ろす槍が、面白い様に相対する長柄衆の頭に落ちる。
「うりゃー!」
「ガン!」
「グェ……」
「おりゃー!」
「グシャ!」
「う……」
岩倉織田勢の最前列は死骸を積み重ねていった。
浮足出す岩倉織田勢。
たまりかねた岩倉織田勢の将、山内盛豊が馬に乗って前に進み出た。
自軍を鼓舞する為に。
刹那、
「パーンッ!」
一つの火縄銃が火を吹いた。
山内盛豊が馬上から仰向けになって落ちた。
「山内盛豊! この橋本一巴が討ち取ったり!」
それを耳にした信長は、
「一巴め、やりおるわ」
相好を崩した。
◇
「山内盛豊殿が討たれただと!」
岩倉織田勢の今一人の将、織田七郎左衛門は焦っていた。
「同数相手なれば、地の利がある此方が有利」と自ら願い出て城から出たものの、未だ何の成果も挙げていない。
それどころか、明らかに押されていたからだ。
加えて、盟友の山内盛豊までもが討たれてしまった。
彼はいよいよ、追い詰められていた。
「已んぬる哉! こうなれば、武士の本懐を遂げさせて頂く! 皆の者! 信長の本陣に突撃じゃ!」
彼にとってこの決断は必然であった。
「信安様が追われたのは一生の不覚! せめてこの身を賭し、大うつけの首を落としてみせ候!」
百の騎馬と、およそ四百の足軽侍が一丸となり、信長の本陣に向け駆け出した。
足軽侍は瞬く間に長柄衆の懐に入り込み、陣を切り裂いていった。
騎乗していた侍はその隙を逃さなかった。
「山内盛豊の敵討ちじゃ! 進め! 進め!」
馬ごと陣の中奥深くへと突撃し、不幸な味方の足軽ごと、敵の足軽を踏み潰していく。
「見えたぞ! 大うつけの馬印じゃ! 儂の後に続け!」
織田七郎左衛門は切ったばかりの西瓜のように笑った。
◇
織田信長方 本陣
「信長様! 岩倉織田勢が直ぐそこにまで迫っておりまする!」
「よし! 合図を出せ!」
信長はニンマリと笑った。
自らの策が叶ったからだ。
横陣が突撃を受け、割れた様に見せ掛け、弓衆と鉄砲衆をその左右に展開していたのだ。
無論、その分本陣が危険に晒される。
が、本陣の守り手には、
「三左!」
「承知!」
森可成がいる。
容易に抜かれる心配はなかった。
獅子奮迅の活躍をみせる森可成。
辺りには血煙を上げて倒れる敵兵、骸の山が築かれていた。
それでも、止まらぬ一群がいた。
それは織田七郎左衛門が先頭に立つ、騎馬の群れ。
岩倉織田の中でも勇名を轟かす、豪の者が率いる一隊であった。
信長は目を細め、
「貸せ!」
近習の一人から火縄銃を掻っ攫った。
万が一と思い、用意していた自らの愛銃。
それを軽く構えたかと思うと、
「パーン!」
躊躇なく撃った。
直後、鞍から落ちる織田七郎左衛門。
彼は何が起きたか理解する間も無く、意識を閉ざした。
左右に展開していた弓衆と鉄砲衆からも、矢と鉛玉が放たれ始めた。
織田信清の一軍が、陣を乱した岩倉織田勢の横合いから突撃した。
結果、織田信長・信清の連合軍は大した被害も受けず、岩倉織田勢を打ち破ったのであった。
◇
同日 岩倉城前 織田信長方本陣
「信長様、本当に後始末をお任せしてもよろしいので?」
織田信清は困惑気味に問うた。
すると、返ってきた答えは、
「構わぬ」
だけであった。
見かねた丹羽長秀が慌てて、
「那古野より林秀貞殿が率いる後詰めが参りまする。岩倉城の包囲も其の者達に任せますゆえ、織田信清様はごゆるりと、犬山にお帰り頂いて構いませぬ」
と言葉を足した。
「左様で御座いまするか……。では我ら犬山勢はこれにて失礼いたしまする」
織田信清はそう言った後、信長の前を去ろうとした。
が、一寸思い留まり、
「信長様、於久地と楽田の件、宜しくお頼み申しますぞ?」
念を押した。
於久地と楽田は共に、岩倉織田家と犬山織田家が長年係争していた土地で、それを犬山織田家のものと認めるのが参戦する約定であったからだ。
「……」
信長は何も答えなかった。
同日、織田信清は犬山城への帰還を果たせなかった。
帰城の最中、滝川一益率いる鉄砲隊にさんざっぱら撃ち込まれたからだ。
追撃も激しく、織田信清が率いた一千は散り散りとなる。
織田信清も何処かへと落ち延びていった。
その後、犬山織田家の支城も悉く信長に落とされ、残すは犬山城のみとなったのであった。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、三月某日 那古野城
「で、林秀貞? 何故品野の仕置から戻ったら、この者らが那古野にいるのだ?」
俺は頭が痛かった。
品野城にて新たな空堀を掘るなどした後、那古野城に漸く戻ると状況が一変していたからだ。
尾張がほぼ統一されていたのだ。
それだけならまだしも良かった。
何故か、帰城して早々、急な面会を頼まれ、仕方なく会うことにしたのだが、平伏した侍に面を上げさせると、その中に見知った顔があったからだ。
いや、今顔を揃えるのには非常に拙い面々が並んでいたのだ。
それは、
「織田信家殿、織田信清殿も。何か言ってくださらんか?」
であった。
「いやいや、昔は良く互いの兄の愚痴を言い合った仲では御座らんか」
「某は義理の兄弟では御座ろう? それに……」
「それに?」
「信長相手に打倒を誓い合った間柄ではないか。犬山に戻れば誓詞もまだあるぞ?」
(いやいや、それは信行違いでしょ!?)
とは言えない俺は苦悶した。
苦悶した結果……
「分かりました。岩倉や犬山を取り返せと申さぬ限り、匿いましょうぞ」
俺は、問題を先送りにすることにした。
内心、それ以外の大問題に気づいていたからだ。
(おいおい、やべーじゃねーかこれ! 俺、明らかに反信長の中心になってない!? ……それに、微妙に歴史が早まってる気がする! 信長、上洛とかしてたし! 何だ? 何が原因だ? もしかして、富くじの金で財政が潤ったのが原因か? となると……”アイツ”が、今川義元がアップし始めてるんじゃ……。ちっ! 那古野の開発や三河への工作も急がねーとやべーな。もう、うつけの振りもしまいか?)
俺は扇子を手でクルクルと弄びつつ、次の手を模索していた。
津々木蔵人の心配気な視線を受けながら。
俺には、それに答える余裕はなかった。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、三月某日 清洲城
「林秀貞殿の手引きで織田信家、織田信清が那古野に入りまして御座いまする」
「で、あるか……」
信長の顔は醜く歪んでいた。
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