#017 品野攻め(2)
「弓衆を前へ! 火矢を射よ!」
六百の弓兵が平城の中に向けて、一切に火矢を放った。
それはまるで、薄暗い空を駆ける無数の人魂。
瞬く間に、城の屋根や壁に彼岸花が咲き始めた。
(だが……新兵の矢が芳しくないな。……と言うか、全然届いていないな。まっ、訓練期間も少ない。当然と言っちゃあ当然か。……さて、敵方の弓衆が一旦下がった事だし……)
「旗衆に投げさせよ!」
俺が次に出したのは、多田野宗兵衛率いる力士達であった。
彼らは先日行われた相撲大会において、優秀な成績を修めた者達であった。
もっとも、最優秀者は誰あろう、多田野宗兵衛だったがな。
彼の強さに惚れ、那古野勢に加わった者が殆どである。
旗衆は油を満たした小さな瓶の、口に差した布切れに火を点け、同じく瓶の口に結んだ縄を振り回し始めた。
その体を軸にして回転し始めたのだ。
さながら、ハンマー投の如く。
やがて、次々に放り投げられる小瓶。
城にさらなる、大輪の花が咲き誇った。
(ふふふっ、よう燃えとるわ)
俺は南西からの風を受け、勢いよく燃え盛る炎を目にしながら、ニヤリと笑った。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、三月六日 桑下城
「大手門はどうなっておる!?」
「景隆様! お退き下され! 火の手が直ぐそこまで及んでおりまする! ここも危のう御座いまする!」
火の粉が辺りに舞っていた。
まるで、蛍の大群の様に。
赤い蛍の光と、黒ずんだ煙が、視界を覆い尽くしていた。
「だが、この様で何処に退けと申すか!」
「搦め手口に御座いまする! あそこから城外に……」
「阿呆! 既に織田方が待ち受けておろうが!」
「ですから!」
「お主! まさか儂に降れと申すか!」
「松平に降られたのです、織田に降るのも大差御座いませぬ! それに、桑下城は……」
主従は見詰めあった、否、睨み合っていた。
胸の内では、互いに臍を噛んでいた。
織田方の調略に応じていれば、先祖代々の城を失う事はなかったであろうと。
しかし、前年、今川方に付いたばかりであった。
故に、直ぐさま織田方に寝返るのは憚られたのだ。
「……搦め手口に向かう」
「ははっ!」
家臣の目には、長江景隆の顔が瞬く間に老けたかの様に映った。
◇
同日 昼過ぎ 品野城前 織田方本陣 戦評定
俺は桑下城の落城を見届けた後、品野城を攻囲する、織田方の本陣へと移動していた。
無論、品野城攻めを差配する為にだ。
加えて、つい先ほど、落合城も落ちたらしい。
が、未だ品野城が織田方に降る素振りを見せない。
使者を遣わしても、体良く追い返されていた。
(チッ! 城さえ頂ければ国に返してやる、と言っているのにな。ったく、誰得なんだよ、この状況は?)
湿り気の増した空気が、より雰囲気を重くしていた。
すると、津々木蔵人が、
「信行様、雲行きが怪しゅう御座いまする。いずれ一雨降るやもしれませぬ」
と言った。
(……確かに、南の空がどす黒い。あれは……雨雲だな。それも結構降りそうな。……当然、品野城からも、いや、寧ろ城からの方がよく見えている筈。となると……)
俺は戦場絵図に、暫し見入る。
やがて、考えが纏まると、一人の将を指名した。
「多田野宗兵衛!」
旗衆を率いる将を。
彼が率いる侍達は実質黒鋤衆、所謂ところの戦闘工兵でもあった。
その彼に、幾つかの注意点を踏まえ、指示を出した。
「……出来るか?」
俺の問いに、多田野宗兵衛は答えた。
「拙者にお任せあれ!」
彼は身を翻し、陣幕を抜ける。
その背には”四爪の龍”が描かれていた。
◇
同日 夜 品野城 評定の間
日暮れと共に降り出した雨音に、男は耳を澄ませていた。
当初は雷を伴っていた雨も、今は雨粒が地面を穿つ音のみ、響かせている。
具足を身に纏い、床几に腰掛けながら。
並み居る家臣をよそに、ただただ、音を聞いていた。
男の右足が小刻みに揺れ続けている。
所謂、貧乏ゆすりであった。
やがて、一人の侍が平伏して現れた。
「申し上げます! 織田方本陣に未だ動きなし! 炊飯の火も、煙も見えませぬ! 音も一切聞こえませぬ! 雨の中、縮こまっていると思われまする!」
男は束の間、歯を見せて笑った。
「くっくっく。激しい雨の中、我らが攻めるとは思わなんだか。正に、正に千載一遇の好機! 皆の者! ぬかるで無いぞ!」
「ははっ!」
男の家臣らが床几に座ったまま、平伏した。
いつの間にか、男の右足の揺れが治まっていた。
この男の名は、松平家次。
三河十八松平の一つ、桜井松平家の当主である。
深夜、松平家次は品野城に篭る兵の大半を率い、打って出た。
激しい雨音が、その音を全て掻き消していた。
やがて、織田方の陣が目と鼻の先に迫った頃合い、
「吹け!」
松平家次は法螺貝を鳴らさせた。
雨音を吹き飛ばす、腹に響く音が鳴り渡った。
途端に、
「何だ! 何事だ!」
「敵だ! 夜襲だ!」
「急ぎ、長方様に知らせよ!」
蜂の巣をつついたような騒ぎにみまわれた織田方の陣。
雑兵らは算を乱し、敵のいない奥へ奥へと逃げ惑い始める。
「掛かれや! 一人として生きて返すな!」
松平家次が言うまでも無いことであった。
暫くして、松平家次は違和感を覚え始めていた。
織田方の陣を奥へ奥へと踏み入ったは良いが、抵抗が明らかに少なかったからだ。
それに手勢の進んだ先から届く、悲鳴が小さい。
刺された際に発する断末魔ではない、まるで怪異に出会い怖さの余り発する悲鳴の様な声しか聞こえないのだ。
「解せぬ。もしや……」
瞬時に、桜井家次はこれは織田方の策略だと判断した。
「退き鐘を鳴らせ! 急ぎ城に戻るぞ!」
桜井家次はそう叫んだ後、一目散に城へと駆け戻った。
己の近習のみを引き連れて。
まるで、多くの配下を見捨てるかの様に。
そして、その判断は正しかった。
彼に率いられていた多くの兵が、既に身動きが取れない状況に陥っていたからだ。
文字通り、穴の中で。
暗闇と降りしきる雨の中、彼らに落とし穴を避ける術は無かったのだ。
◇
同刻 品野城 城門周辺 藪の中
俺の耳に鐘の音が届いた。
恐らくだが、敵方の退き鐘だろう。
俺はこの時を暗闇の中、ずっと待っていた。
「よし、手筈通りにやれ」
具足を着た侍が数名、旗を手にして駆け出す。
その旗は、桑下城、落合城を攻略した際に手に入れた、松平の旗であった。
城門に辿り着いた者達が中の者とやり取りを始めた。
俺はそれを確認すると、
「私達も行くぞ!」
追っ手に追われた振りをしつつ、城門に向かった。
やがて、俺達の姿を視認したのだろう、城門がゆっくりと、だが僅かに開いた。
(でかしたぞ、日下部兵右衛門!)
するすると中に入ったのは、先に城門へと着いていた日下部兵右衛門率いる侍達。
が、ここで予想外の事が起こった。
「誰じゃ、貴様は!」
「おのれ、謀ったな!」
「敵襲じゃ! であえ! であえぃ!」
喧騒が城門の内側で起きたかと思うと、門が閉じ始めたのだ。
「いかん! 皆の者、急げ!」
俺が叫ぶと、
「拙者、先に参りまする!」
多田野宗兵衛が一人、瞬く間に彼以外を置いて駆けて行き、閉じる門の中にぎりぎり滑り込んだ。
その直後、雨の音に交じり幾つかの断末魔が響いた。
城門が開け放たれ、返り血に塗れた侍が顔を出した。
それは、
「城門を抑えまして御座いまする!」
日下部兵右衛門であった。
「おお! 大義、大義! 褒めてつかわす!」
「はい! 有り難き幸せ!」
俺は、嬉しさにはち切れんばかりの笑顔を見せる日下部兵右衛門の横を通り抜け、品野城の中へと足を踏み入れた。
そこには、無数の屍体が転がっていた。
その少し先で、これを為したであろう男が大槍を構え、辺りを伺っている。
「どうだ、宗兵衛?」
「まだ奥にいるで御座る。旗衆の一部を城門に残し、拙者を含むその他は奥に向かうで御座る」
「分かった。私と近習が後ろから弓矢で援護いたそう」
「承知!」
その後、品野城の制圧は瞬く間に終わった。
だが、それで終わりでは無かったのだ。
俺達が占領した筈の城内が、俄かに騒然となったからだ。
「どうした?」
「はっ! 何者かが侵入したとの事に御座いまする!」
(全ての門は夜が明けるまで閉じられている筈。となると、抜け道があったか?)
それは、俺達の危機に他ならなかった。
(クソッ! 何処から、何名に侵入されたんだ!?)
俺達は品野城を少数で抑える為、分散している。
姿の見えぬ相手に、各個撃破される可能性が高まったからだ。
俺は、弭槍を付けた弓を手にしつつ、
(ぬかった! 津々木蔵人に言われた通り、総大将らしく本陣にいればよかった! 指揮の仕方が分からないとか、言ってる場合じゃなかったか!)
激しく後悔した。
だが、まだ手遅れではない。
俺は他の者にも知らせるよう、その者を走らせた。
暫く後、一人の男が俺の前に立ち塞がった。
その男は、舌舐めずりをした後、
「名のある将と見た。この城の代わりとして、その首、貰い受ける!」
と鋭く言った。
「ほう? この私を”織田勘十郎信行”と知ってでもか?」
「ますます十分! 大うつけの弟の首で有れば! 駿府の大殿も我が首を打とうとは思うまいて!」
男はニヤリと笑うと、槍を構え、一気に俺との距離を詰めた。
一閃、そして二閃、空を切る槍の煌き。
俺はそれを大きく身を翻し、辛うじて交わした。
場所は品野城の本丸前。
俺の配下の多くは、城内の中で侵入者を探している。
誰かが俺を助けに来てくれる可能性は、限りなく小さかった。
それなのに……
「ふふ、”海道一の弓取り”……か」
笑いが込み上げてきた。
「何が可笑しい!」
「いや、大した事ではない」
(ただ子供の頃、弓が大層上手なんだ、と勘違いしていただけだ)
俺はそう思いつつ、弭槍を前に構えた。
弓矢を射る程の距離は無い。
俺に抗う術は、弓の末弭に取り付けた、小さな刃物と腰に履いた刀しか無いのだから。
「時に、そなたも名のある武将とお見受けいたす。名を聞いても?」
「ははっ! 良いだろう! 冥土の土産に聞かせてやろう! 我が名は”松平家次”! 桜井松平の四代目当主よ!」
そう叫んだ直後、松平家次は槍を薙ぎ払った。
それは明らかに、俺の弓を痛みつける為の一撃であった。
弓が折れれば、弦が切れれば、槍ほどの長さは維持出来ない。
松平家次はそれを狙っているのだ。
無論、俺はそれを躱す。
次々に迫る一撃を紙一重で躱す。
時には突き出される槍先を翻って躱し、時には払われる槍先を飛び退り避けた。
しかし……遂に俺は……
「後がなくなったぞ?」
壁際に追い詰められてしまった。
「命乞いでもしてみるか、大うつけの弟よ?」
「その価値はあるのか、狸の遠戚よ?」
「……狸?」
「ふふっ……いや何、こちらの事よ。時に松平家次殿、この言葉を知っているか?」
ーー人にとって大切なのは、生きることであり、いかに生きたか、では無いーー
「ふっ、笑止な……」
目を細める松平家次。
俺はその目を受け止め、逆に見据えた。
そしてそのまま矢筒から三本の矢を取り出し、ゆっくりと矢を番える。
松平家次がそれを目にし、破顔した。
「この距離であたると思うてか?」
俺はそれでも、松平家次と視線を交わし続けた。
目を決して離さず、ゆっくりと弓を空に向けた。
「ふっ、今更合図を出したとしても、決して間に合わぬぞ?」
松平家次が俺に嘲笑を浴びせる。
しかし俺は意に介せず、矢を三度放った。
それは瞬く間に、真っ暗な夜の闇に消えた。
雨は未だに、止んではいなかった。
松平家次が槍を改めて構え直すと、俺を一気に貫こうとする。
が、その時、
「なっ!?」
彼の足元に一本の弓矢が深々と突き刺さった。
それでも、その弓矢を避け、俺に近づこうとする松平家次。
が、その直後にもまた、弓矢が地に生えた。
まるで、俺への道を閉すかの様に。
「松平家次! 退け! 死んではつまらんぞ?」
俺は掛けた言葉とは裏腹にニヤリと笑った。
案の定、松平家次は憤怒の眼差しで大音声を発した。
「馬鹿な! ここでおめおめと退き下が……」
だが、最後まで言い終える事は無かった。
突然、体を支えられなくなり、倒れ伏す松平家次。
彼の頭には”矢羽”が生えていた。
俺はそれを目にして、大いに破顔した。
「おお、信行様! 御無事で御座いましたか!」
「遅いぞ、宗兵衛! 危うく死ぬところであったぞ!」
「何の! その割には良いお顔をされて御座りました! ……時にこの侍は?」
「松平家次、桜井松平のご当主だそうだ。そう言う宗兵衛、お主の持つ、その首級は?」
「松平信一と名乗る者で御座る。中々の剛の者に御座りました!」
「ほう、これで狸が二匹。いや、実に目出度いなぁ!」
「狸、で御座るか? はて、ちっとも似て御座らぬが?」
永禄元年(西暦一五五八年)、三月七日
こうして、尾張品野城は織田方の手に落ちた。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、三月八日 清洲城
「何!? 品野三城を僅か一日で落としただと!?」
「はっ! 左様に御座いまする!」
「でかした! でかしたぞ、勘十郎! して、仕置きは如何したいと?」
「竹村長方に品野城を任せ、信行様方は那古野に戻るとの事に御座いまする」
「それで良いと申し伝えよ!」
「ははっ!」
「五郎左! 五郎左はおるか!」
「ここに!」
「岩倉の”阿呆”に働きかけよ!」
「はっ!」
その後、人払いをした織田信長。
彼の顔に浮かんだ、黒い笑みは誰も目にする事が無かった。
◇
永禄元年(西暦一五五八年)、三月某日 駿府
「そうか、品野城が落ちたか……。して、朝比奈元長。そなたはどう考える?」
「……予定を早めるべきかと。松平元康殿も初陣を果たして御座いますれば、三河を鎮められましょうから」
「ふむ、そうよなぁ……」
今川義元はそう呟くと、おもむろに大弓を引き絞った。
その弓の強さは常人には引けぬほど、強い弓である。
それを今川義元が軽々と引く。
「……余自ら出よう」
刹那、弓が鳴った。
放たれた矢が風を切り、一直線に的に向かった。
その距離、現代にして二百メートル弱。
矢は軽々と、的を貫いた。
「流石は大殿様」
「ふふふ、久しぶりに血が滾りおるわ」
今川義元の次の一矢で、的は粉々に砕け散った。
ブックマークや評価を頂けると大変励みになります。
また、誤字脱字に限らず感想を頂けると嬉しいです。
ご贔屓のほど、よろしくお願いします。




