#013 胸襟
弘治三年(西暦一五五七年)、一一月七日 申の半刻(午後五時頃) 中根屋敷 離れ間
俺は密室の中、津々木蔵人と二人きりとなった。
意図せず、互いの視線が交わる。
すると、津々木蔵人がおもむろに小袖の襟を開け、
「ふぅ、何やら暑うござりますなぁー」
手団扇で扇ぎ始めた。
(放課後の女子高生か!)
刹那、俺は見てしまった。
津々木蔵人の見た目に反して、鍛え抜かれた胸元を。
ライトフライ級のボクサーよろしく、胸肉が薄く盛り上がっていた。
(おっと、思わず食い入る様に見てしまった!)
俺は視線を外した。
津々木蔵人のいる方向とは真逆に顔を向けたのだ。
その途端、
「ふぅー、暑い暑い、ふぅー……」
「いやぁ、堪りませんなぁ。ふぅー」
そよ風が俺の後頭部に当たる。
(解せぬ……何故俺の後頭部に手団扇の風が当たる。それに今は十一月だぞ? 外は痛い程の寒さだぞ? 室内とはいえ、何故あれ程暑がる? おかしい、何かがおかしい。身の危険を感じるほどに……)
俺の中の何かが、警鐘を鳴らし始めた。
体が自然と、距離を取ろうとする。
直後、
「失礼いたしまする。いやぁ、大変お待たせいたした次第、平にご容赦を……」
部屋の襖が開いた。
「はて? 何やら取り込み中で御座いましたかな?」
首を傾げる初老の男性。
彼こそが、
「度々失礼つかまつりました。中根屋の主、中根康友に御座いまする」
であった。
俺と、いつの間にか俺の直ぐ側にいた津々木蔵人が、慌てて居住いを正した。
「な、何の、こちらこそ急に訪れたのだ。失礼はお互い様よ。まぁ、兎にも角にも腰を落ち着けられよ。それでは頼み事も聞いて貰えぬでな」
俺は何食わぬ顔で言葉を紡ぎ出すも、内心はバクバクであった。
何か、見られたくはない何かを、禁忌の現場を見られた様な気がして。
それはただの取り越し苦労に過ぎないにもかかわらず。
「では失礼して」
中根康友は改めてかしこまる。
続いて、訪れた理由を再度問うた。
俺はざっくばらんに答えた。
「実は金を用立てて貰いたいのだ」
「へぇ、それは宜しいのですが。如何程お入り用に御座いますでしょうか?」
「わからん」
「いや、分からぬと手前どもでも貸せぬのですが……ははぁ、信行様。お噂の”那古野”の事ですかな?」
「おぉ、耳が聡いな! そう! その通りよ! 金が幾らあっても足りぬ、大計画よ!」
「詳しく伺っても?」
俺は林光時、林光之、林勝吉という林三兄弟以外の者に初めて、壮大な計画の全容を語った。
すると、
「是非とも同じ内容を熱田神社で語って頂いても宜しゅう御座いますか?」
と頼んできた。
俺は大きく頷いた。
「では早速ですが向かいましょう。えっ? お連れのお侍様がお綾を追って何処かに行った? 手前どもの方で言伝てておきまする」
熱田神社に向かう途中、
(それにしても、今日はまるで、消費者金融を巡り歩いてるみたいな……)
俺は夢(の筈)の中から現実に想いを馳せた。
(思えば、毎月毎月お世話になり過ぎだよな。特に給料日やボーナス前に。その殆どが、馬券や宝くじに消えたっけなぁ。そういえば、この時代には、いや夢には無いのな。……つまらんなぁ。庶民の唯一の娯楽が”戦”か”性”なのかなぁ……)
やがて熱田神社の境内を抜け、奥まった所にある社殿に通される。
そこには衣服が破れ、体も小汚い子供らが集まっており、身を寄せ合って寒さを凌いでいた。
「あれらは、戦や病で両親と死に別れた孤児や、捨て子らで御座いまする。先日の那古野城前での戦の後も何名かが増えた次第で」
「……で、あるか」
それ以上の言葉が出せなかった。
物欲しげな、何十、何百もの目の前を通り過ぎ、俺は社殿の奥へと進んだ。
次に目にしたのは、
「こ、これは……」
「癩病ですな」
皮膚が不気味に変形した者達の姿であった。
(所謂、ハンセン病……か。となると、この時代では……)
「な、中根殿! この様に穢れた場所に信行様をお連れするなど!」
案の定、津々木蔵人が声を荒立てた。
彼の態度は、この病が戦国時代、いや、それよりも遥か昔より不治の病、死の病として恐れられていた所為だ。
当然といえば当然であった。
だが俺は彼の動きを制した。
「案ずるな。健康な大人に、この病は伝染らぬ」
「ほう、それは誠ですかな?」
「極稀に伝染る場合もあるらしいが、その殆どが体力の衰えた老人と聞いた。それよりも子供が近づいた場合が危険だ。幼少期に触れると瞬く間に伝染るらしい」
(そして、治療法は無い。まだ、この時代にはな)
「いやいや、これは良き事を伺えました。これだけでも信行様をお連れした甲斐が御座りました」
「それは良かった。ついでに申しておくが、衣服や布切れは必ず沸騰した湯に浸すが良い。精が付く物、肉、魚、野菜、穀物を等しく摂らせよ。病の進みが遅れるでな。もっとも、これは病持ちにかかわらず、他の者にも言える事か」
俺は戯言を言ったと、苦笑いした。
「いえいえ、目から鱗に御座いまする」
「しかし、これを見せたかった訳では無いのだろう?」
「無論で御座いまする。この奥で熱田の主がお待ちで御座いますゆえ」
熱田神社の宮司は冴え冴えとした黒目をした老人であった。
宮司は、
「これはこれは信行様。何やらおかしき事を始められるとか」
目を細め、ニヤリと笑った。
「ははっ。宮司も良くご存知じゃな。そう、日の本一の城と城下町、それに湊(港)を作りとうてな」
俺も破顔を返した。
「何故に?」
「有り体に申すと、我が命を守る為に」
「何者から?」
「まずは我が兄信長から。上手くいかねば殺されるであろうからな」
「その後は?」
「この乱れた世から。我が腕に納めらるる分を守る為に」
「信行様の腕に入れぬ者は?」
「中に居らずとも、溢れ出し物がある。また、我が目は腕よりも遠きを見渡せよう」
「見えぬところは?」
「音で聞こえよう。音は目で見える以上に届くでな」
「聞こえぬ音は?」
「地の中か? ならば振動を足で感じよう。だが、これで精一杯。私は、神様では御座らんからな」
俺はそう答えつつ、
(何だ、この珍問答は? しかも、口が勝手にスラスラと答えたんだが……)
内心戸惑った。
対する宮司は目を完全に閉じ、考え込む。
やがて、柏手を一つ打つと、
「ふむ、十分では御座いませぬな。が、聞きたき答えは頂きました。良いでしょう、津島程ではありませんが、熱田も信行様を助力いたしましょう」
と言った。
(なんか微妙だが……)
「これは、ありがたき……」
「加えて、熱田神社の名と、熱田からは必要な人足を出しまする。何なりとお使い下さい」
(おお! 人足は有難い!)
「誠に有り難きお言葉! ……しかし、”熱田神社の名”とは?」
「熱田の名を出せば、近隣の社も従わせ易うなりましょうぞ」
「成る程。謹んで使わせて頂きまする」
さて、用も終わった事だし帰るか、と思い、俺が立ち上がる素振りを見せると、宮司が引き止める。
「あぁ、お待ちあれ。時間も時間ですから、軽い宴席を準備させて御座いまする。是非とも。巫女らも首を長うして待っておりまする」
(み、巫女!?)
俺は再び、腰を下ろした。
「ほぅ、巫女姿で諸国を? 優雅な暮らしだなぁ」
巫女は巫女でも、歩き巫女らであった。
旅をしながら祈祷などを行い、生計を立てているらしい。
白の小袖と赤い切り袴は一緒だがな。
所々擦り切れている。
(が、それがまた良い! 保護欲をそそる大和撫子だな! ……って言うか、戦国時代だから女は皆、大和撫子だな!)
すると、
「とんでもない。喰うに困る毎日で御座います。巫女故に関は自由に越えられまするが、その分色々と……」
美しい顔に憂いを差した巫女。
どうやら、思った以上に大変らしい。
しかも、
「熱田様は代価を求めませぬ故、我ら一同、必ず寄らせて頂いておりまする」
一座で活動しているようだ。
「何だ、金を取る杜があるのか?」
「ふふふ、ご冗談を。”これ”で御座いまするよ。信行様もお分かりになって言ってらっしゃいますな。人の悪いお方」
巫女はカラカラと笑いながら、小袖を大きく開けた。
津々木蔵人とは違い、大きな椀型の山が二つ、見えた。
「(で、あるか……)お、大きいな!」
「あれまぁ、はっきりと。今宵の伽の相手に如何でしょうや? 熱田様の大切なお客人、お代など求めませぬゆえ」
(な、なんと!)
俺が目を丸くして驚いていると、
「信行様! 鼻の下が長うなっておりまするぞ!」
少し離れた席から、津々木蔵人の声が聞こえた。
巫女がまた、カラカラ笑いながら、
「あのお方、可愛らしいお方ですなぁ。信行様の、コッチのお相手で?」
しな垂れ掛かる。
俺は心地よい重みと、女の身体から立ち上る香りを堪能しつつ、
「最近は二人の嫁御が離してくれなくてな。あれには寂しい思いをさせている」
と答えた。
(ちょっ、何俺? 口が勝手に……。こ、肯定しちゃってるよ!?)
「おやまぁ、そうで御座いまするか。では……あちらのお方をわたくしめが頂いても?」
「ははっ、構わぬよ。蔵人めがそちを受け入れたなら、私は大変嬉しい(寧ろ、ホッとするよ!)」
「では少し席を離れさせて頂きまする。それに熱田様や中根様が信行様とお話しされたそうにしておりますゆえ」
宴はそれから一刻ほど続いた後、俺は那古野へと家路を急いだ。
(やばっ! 随分遅くなってしまった。二人共、怒ってるよなぁ……)
その時、轡を並べる馬はいなかった。
那古野へ向かうのは、俺と俺の乗る馬と、馬の口を取る馬丁が一人だけ。
(……流石に不味いよな)
俺は早速熱田から人を借り受け、那古野へと向かったのであった。
◇
弘治三年(西暦一五五七年)、一一月八日 清洲城
「津島だけでなく熱田に寄った、だと?」
「はっ! 中根康友と面会した、との事に御座いまする」
「ふんっ! 大方津島からだけでは足りぬと思い、無心しに行ったのであろう」
「しかし、その割には帰城した時間が遅すぎまする」
「ほう……。あの阿呆は何と?」
「それが……」
「何じゃ、五郎左? 言うてみぃ」
「それが、”馴染みの女と会ったのでその尻を追いかけ、見失ったで御座る”と……」
「な、何じゃと!!」
刹那、信長は扇子を猿顏の小姓に投げ付け、見事命中した。
瞬く間に腫れ上がる額。
当の小姓な何故か、「ウキキッ」と嬉しそうな顔をしていた。
「猿っ! 勘十郎が何処で何をしていたか、誰と会っていたか調べぃ!」
「ははっ! この猿めにお任せあれ! 調べつくして参りまする!」
「早う行け!」
信長は別の小姓から新たな扇子を受け取り、苛立たしそうに扱う。
「勘十郎め……」
押し殺した声が、冬の部屋を更に冷えさせた。
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